WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

北条氏の他氏排斥過程ではない

2022年08月17日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 589◎
Joao Gilberto
Amorosa
 『鎌倉殿の13人』に関する話題である。ドラマでは、頼朝が死に、いよいよ有力御家人間の血生臭い勢力争いが始まった。すでに、梶原景時が排斥され、阿野全成が誅殺され、先週は比企能員が滅ぼされた。幕府内紛の主な事件をまとめておくと、次の通りである。
1999 源頼朝の死
1200 梶原景時が滅ぼされる
1203 阿野全成が誅殺される
1203 比企能員が滅ぼされる
1203 源頼家が幽閉される(翌年死亡)
1205 畠山重忠が滅ぼされる
1205 北条時政が幽閉される
1213 和田合戦(和田義盛が滅ぼされる)
1219 源実朝が暗殺される
 高校の授業では、これらを「北条氏の他氏排斥過程」として一括して取り上げることが多い。しかし、本当はそれは間違っている。それは北条氏が権力を握ることを前提として、そこから遡及した見方だ。実際の歴史の「現場」では、どっちに転ぶかわからなかったはずだ。例えば、「比企能員の乱」というが、実際には、その時点での幕府内での勢力は比企氏の方が優勢だったはずであり、その状況をひっくり返すために北条時政がクーデターを起こしたというのが本当のところだろう。一歩間違えば失敗に終わったかも知れなかったのだ。だから、この事件は《乱》などではない。それは最終的には北条氏が権力を握るのが正しかったのだとする『吾妻鏡』的な見方だ。
 鎌倉時代史の中心史料『吾妻鏡』は、北条氏の正当性を主張するために編纂されたものだ。それぞれの事件は、京都側の史料などを参照しつつ、注意深く分析されなければならない。その意味では、ドラマで「比企能員の乱」がクーデターとして描かれていたことは注目されてよい。
 今週は、いよいよ頼家の幽閉かも知れない。血生臭い抗争はまだまだ続く。

 今日の一枚は、ジョアン・ジルベルトの1977年作品『イマージュの部屋』である。Apple Musicで今日初めて聴いた。きっかけは、kindleの読み放題でたまたま読んでいた鈴木良雄『人生が変わる55のジャズ名盤入門』の54位に取り上げられていたからだ。友人たちが取り上げた55の作品にジャズベーシストの鈴木良雄がコメントを付すといった趣向の本である。この作品について、鈴木氏はあまり興味はないようであるが、ジョアン・ジルベルトが日本でのコンサートの時、疲れてステージ上で寝てしまって、その間客がずっと静かに待っていて、目が覚めたらまた歌いだしたらしい、という話が載っていた。静かな歌だったから、それも演出だと思ったのかもしれないと書かれていた。本当だろうか。
 暑い夏に、クーラーの効いた部屋で、庭を眺めながら聴くのには悪くない作品である。異なる状況では、やや退屈かもしれない。

増殖するきゅうり

2022年07月24日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 584◎
板橋文夫
 数年前から家庭菜園をやっている。畳にすればわずか3~4畳程度の広さだ。全くの素人なので、見よう見まねや思い付き、思い込みでやっている。そんな私が植えたのにそれなりに育ってくれて収穫できるのがうれしい。今年は、畑にはオクラ・ピーマン・パプリカ・しし唐・唐辛子・きゅうり・かぼちゃ・ナス・トマトを植え、プランターではトマトとナスを育てている。他に、数年前に植えたアスパラガスとミョウガは毎年その時期になると収穫できる。
 
 今はきゅうりの収穫期だ。毎日、1~2本収穫できる。ところがである。近隣のお年寄りたちが次々にきゅうりを持ってきてくれるのである。素人の手習いで畑を運営している私を見かねてか、こうした方がいい、ああした方がいいと助言・指導に来てくれるのである。それ自体は苦ではない。助言されて、なるほどと合点がいくことも多々ある。困っているのは、そのたびに大量のきゅうりを持ってきてくれることだ。近くに住む母親も自分の畑で採れたきゅうりを持ってきてくれることもあって、私の家のキッチンはきゅうりでいっぱいである。そして、私の頭の中は、これらのきゅうりをどう料理しどう処分するかでいつぱいである。

 今日の一枚は、板橋文夫の1976年作品『涛』である。アップルミュージックのハイレゾロスレスで聴いている。ちょっと前に電源付きのライトニングケーブル用コネクタを購入し、iPadから外付けDACにつないで聴いている。音がいい。音の鮮度がいいのがはっきりわかる。誰てもわかるレベルで音が違う。
 板橋文夫の作品については、これまでに数作、このブログで取り上げた。その際も記したことであるが(→こちら)、もう20年ほど前に気仙沼市本吉町の「はまなすホール」で見たライブが忘れられない。板橋の作品を聴くと、いつもあの時の情景が甦ってくる。


がんばれ町田瑠唯

2022年02月20日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 566◎
Jeff Beck Group
 バスケットボールの話である。女子バスケットボール富士通レッドウェーヴの町田瑠偉選手がWNBAに挑戦するらしい。ワシントン・ミスティクスと契約したというのだ。頑張ってほしい。
 町田選手はいいガードだ。ビジョンが広く、パスセンスがいい。最近では積極的に自ら得点を取るようにもなった。東京オリンピックで歴代最多の18アシストを記録したのは記憶に新しいところだ。
 ただちょっと心配している。身長162cm。サイズがないのが気にかかる。日本代表では、スリーポイントやバックカットを多用し、積極的に速攻を仕掛けるチームのシステムの中で機能していた。パワー勝負のWNBAで、町田選手の長所が輝き、同じように機能するかどうかは未知数だ。
 心配が杞憂に終わればいいと思う。

 今聴いているのは、第二期ジェフ・ベック・グループの1972年作品、通称『(オレンジ)』である。ブルース・ロック路線だった第一期ジェフ・ベック・グループから、ファンク・ミュージックの影響を受けたサウンドにシフトしたところがすごい。多くのロック・グループがブルース・ロック一色だった時代、ジェフ・ベックの選択した道は、特筆すべきものだ。今考えると、この延長線上に後のクロスオーバー作品が生まれることが理解できる。
 高校生の頃、かっこいいなと思って聴いていた。

USB-DACは凄いですね。

2022年01月03日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 559◎
Junior Mance Trio
Yesterdays
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 3か月程前にUSB-DACを購入した。アップルミュージックのハイレゾ・ロスレスをスピーカーで聴くためである。DACとはデジタル・アナログ・コンバーターのことで、デジタル信号をアナログ信号に変換する装置である。デジタル音源をスピーカーで聴く場合にはどうしても必要になるものだ。高価なものではない。1万円ちょっとの、ToppingというメーカーのD10sというDACである。廉価な割に評価がいいようなので、実験的に購入してみたのだ。ところが、現在のところ、windows版のiTunesではハイレゾロスレスは配信されておらず、それを聴くためにはMacを買わなけれはならないようだ。がっかりである。よく調べなかった私が悪いのだが。

 がっかりして1か月ほど放っておいたのだが、もったいないと思って、USB-DACを使ってみることにした。PCにwindows版のfoobar2000をインストールし、CDを取り込んで聴いてみたのだ。foobar2000とは、PC用の音楽プレーヤーである。かなり評判のいい音楽プレーヤーである。若柳のジャズ喫茶「コロポックル」でも使用していると知り、そのうち使ってみたいと思っていたのである。

 すごい。びっくりである。本当にびっくりである。音がいい。CDプレーヤーからアンプに通して聴くよりはるかに音がいい。分解能が格段に向上しているらしく、音が鮮明である。音の粒立ちというか、輪郭がはっきりしている。いい耳で聞いてという訳ではなく、誰が聴いてもというレベルではっきり音がいいのである。USB-DACに脱帽である。

 こうなると、是非ともMacを購入してハイレゾロスレスを聴いてみたい、と思う。物欲である。しかし一方で、膨れ上がってしまったLPやCDをそろそろデジタルデータ化して整理する必要があるのではないか、などと考えてしまう。foobar2000をインストールインストールしたのは何かの巡り合わせかもしれない。今年は還暦になる。昨年は病気もした。第二の人生に向けて、あるいはいつ何があってもいいように、身辺を整理しなければならない年齢になったのかもしれない。いわゆる断捨離である。

 今日の一枚は、ジュニア・マンス・トリオの2001年盤『イエスタディズ』である。早いものである。このアルバムが出たのはつい最近のような気がしていた。時間の流れは実に速い。ジュニア・マンスは好きだ。1959年の『ジュニア』(→こちら)は愛聴盤の一つであり、人生の中でしばしば聴いてきた。そういえば、このブログでも2006年作品の『恋に落ちた時』(→こちら)を取り上げたことがあった。『イエスタディズ』は、テナーのエリック・アレキサンダーを迎え、彼の情感豊かなテナーをフューチャーした作品である。世評では、あまり芳しくない評価もあったようだが、UAB-DACを通した鮮明なサウンドで聴くと、作品に新たな命が吹き込まれたようだ。選曲も良く、魅惑的な一枚である。

 ジュニア・マンスは、昨年、2021年の1月に亡くなったようだ。晩年はアルツハイマーを患い、転倒して脳出血をおこしたことが死因のようだ。またひとり、魅惑的なピアニストがいなくなった。


2022 神棚完成

2021年12月31日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 558◎
Johnny Hartman
Live at Sometime
 昨日、12月30日に神棚の設営をした。例年、仕事が忙しく31日にやったりするこが多かったのだが、一夜飾りは良くないというので、大安の28日に下準備し、二重苦といわれる29日を避け、先勝の30日の午前中に飾り付けをしたのだ。

 神棚の飾りつけについては、毎年、不明なことや疑問に思うことが出てきて修正・変更することが多い。今年は実家の神棚設営を手伝う中で疑問点が2つ生じた。もちろん、神棚の風習というものは地域やそれぞれの家によって違いがあるので、わが家ではこうだといってしまえば問題ないのだが、どうも追究してみたくなる性質なのだ。

 一つ目の疑問はしめ縄についてである。しめ縄にはいろいろな種類があるようだが、私の住む気仙沼地域では「エビ」と呼ばれるものを使用する家が多い。私の家でもこのタイプである。疑問とは、このしめ縄の向きをどっちにするかということである。しめ縄は船を模したものであるから玄関から入ってくる「入船」の向きにするのがいいと、若い頃に教わった。玄関がどこにあるかでしめ縄の向きも変わってくるわけだ。海の世界であるこの地方の風習なのであろう。しかし、問題はしめ縄のどっちが船の前なのかということだ。私はその形状からずっと細い方が船の前だと認識し疑うことがなかったのだが、実家の母は太い方が前だというのだ。太い方から編んでいくのだから太い方が前で細い方が後ろだという。飾りつけについては、とりあえずwebにあった、細い方を向かって左側に、太い方を右側にするのが一般的であるという文言に従った。しかし、しめ縄のどっちが船の前なのかという疑問は残ったままである。

 二つ目の疑問は、「天照皇太神宮」のお札(神宮大麻)を納めるお宮の扉を開いておくべきか閉めておくべきかということである。これまで私はあまり考えもせず扉は開けておいた。そのほうが神の威光がこの世界に届くような気がしたからだ。ところが実家の母は閉めておくという。開いておくとほこりが入るからだという。神宮大麻が納められた神聖な空間にほこりが入ってはいけないということだろうか。webを検索すると、諸説あるようだがどうも閉めておくのが基本のようだ。恐れ多いからだという。閉めるのを基本として、正月だけ開けておくとか、半開きにするとかいろいろな風習があるようだ。
 私は今年から扉を閉めておくことにした。アマテラスオオミカミの本質を考えてのことである。以前「祟る神、天照大神」(→こちら)という記事で述べたように、私はアマテラスオオミカミの本質は疑う余地なく《祟る神》であることだと考えている。アマテラスを拝むのは願い事をかなえてもらうためなどではなく、祟らないでください、お鎮まりください、不幸をもたらさないでくださいとお願いするためなのだ。祟る神であるアマテラスの神威は発揮されない方がいいのである。したがって、お宮の扉を閉めることでアマテラスを封じ込め、お供え物をして祟らないようお祀りするのである。「恐れ多い」とは、アマテラスの祟る力を恐れてのことなのだろう。

 今日の一枚は、ジョニー・ハートマンの1977年録音作品『ライブ・アット・サムタイム』である。吉祥寺のジャズ喫茶「サムタイム」でのライブ録音盤のようだ。ときどき拝見する「ぽろろんぱーぶろぐ 」で紹介されているのを見て知った。リラックスした雰囲気と低音の魅力が満載である。コルトレーンとの共演作をちょっとだけ思い出してしまう。曲目も私好みである。大好きな映画『追憶』のテーマなどを聴くと、感慨にふけってしまったりする。DACを通して書斎のブックシェル型スピーカーで聴いているが、この記事をアップし終わったらメインのもっと大きなスピーカーで聴こう。このライブ盤には大きいスピーカーがいいように思う。

Johnny Hartman(vo)
Roland Hanna(p)
George Mraz(b)

1 Feelings
2 The Way We Were
3 Send In The Clowns
4 Little Girl Blue
5 Sometimes I’m Happy
6 Summertime
7 Sposin'
8 My Foolish Heart
9 On A Clear Day You Can See Forever










長い夜ともお別れか

2021年10月01日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 548◎
Joe Pass
Ultimate Best
 入院中である。薬疹に悩まされて苦戦したが、原因が判明し、ここ数日体調はいい。薬疹のため、顔の薄皮が剥けてごわごわして突っ張る感じだが、それでも少し前までの顔全体が焼けただれるような熱さから比べればかなりいい。
 薬疹の原因だった眠剤を止めたため、夜は相変わらず眠れない。しかし、眠剤を服用していてもほとんど眠れていなかったことを考えると、寝始め2時間程度でも眠れている現状の方がいいともいえる。夜は長いが、kindleのおかげて退屈しなくなった。当初、netflixでも見て過ごそうかと考え、無制限のポケットwifiも準備したが、ほとんど見なかった。kindleではいろいろ読んだ。日本史関係はもちろん、小説、神道や神社、キリスト教神学、社会学、思想と乱読だった。昨日からはずっと気になっていたジェリー・ケーガン『「死」とはなにか』を読んでいる。すぐに解約すれば1か月間無料で使えるらしいkindle unlimitedにも登録して使っている。とはいっても、一定の散財はしたが。
 退院の見通しが立った。予定通りの日程ですみそうだ。家に帰れるのはすごくうれしいが、kindleとの豊饒な長い夜もこれで終わりかと思うと、少し寂しい気もする。

 今日の一枚は、ジョー・パスの2019年リリース盤『アルティメッド・ベスト』である。巨匠ジョー・パス生誕90周年を記念した2枚組ベスト盤のようだ。入院中ということで、相変わらずapple musicで聴いている。ジャズギターの巨匠と呼ばれ、すごいテクニックを誇りながら、ジョー・パスの音楽には聴き手を拒絶するようなところが全くない。いつも聴き手に寄り添う音楽だ。私が知ったのは、エラ・フィッツラルドとの一連のデュオ作品によってだった。エラを聴こうと思って買ったアルバムだったが、ジョー・パスの優しく誠実さが漂うギターの響きのとりこになった。
 深夜の静まり返った病室で、kindleを読みながら聴くには最適である。闇の中から立ち上がってくるようなギターの響きに胸を打たれる。

グリーン・スリーブスを口ずさみながら、徳仙丈山でトレッキング

2021年05月30日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 507◎
Jeff Beck
Truth
 昨日は、朝6時から徳仙丈山に登った。地元の山だが、日本最大級のつつじの名所である。徳仙丈山に登ったのは、この5月だけで3度目だ。つつじのシーズンということで、朝早いのに登山客は少なくはなかった。テレビや新聞で取り上げた所為か、登り口の駐車場には、仙台ナンバーの車が目立った。残念ながら、つつじは終盤で、山麓ではもう枯れかけていた。山頂付近では、美しいつつじが多くあったもの、黄緑色の葉っぱが目立っていた。おそらくは、天候の悪かった先週の週末が最高の見ごろだったのだろう。
 つつじは今一つだったが、登りも下りもメインルートから外れた細い脇道をかき分けて進み、20mほど前を鹿が横切るハプニングなどもあり、なかなか楽しいトレッキングだった。
 トレッキング中、何故だか「グリーン・スリーブス」の旋律が頭に浮かび、ずっとそれを口ずさみながら進んだ。帰宅後、「グリーン・スリーブス」が収録された、懐かしいジェフ・ベック・グループのアルバムを聴き、譜面を見ながら、古いクラシックギターで「グリーン・スリーブス」を何度か弾いた。
 今日の一枚は、第一期ジェフ・ベック・グループの「トゥルース」だ。1968年の作品である。ロッド・スチュアートがボーカル、ロン・ウッドがベースとして参加している。ハードでブルース色満載である。ロッド・スチュアートのボーカルがやや小うるさく聞こえてしまうのは、歳のせいだろうか。
 「グリーン・スリーブス」は、本当に美しい演奏である。徳仙丈山を歩きながら私の頭に浮かんだのは、この「グリーン・スリーブス」だった。

日本の青空

2021年05月03日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 501◎
Jim Hall
It's Nice To Be With You
 先日、内田樹『そのうちなんとかなるだろう』を読んでいたら、内田樹さんの元奥さんの父親(元義父)が、日本国憲法制定時の首相である幣原喜重郎の秘書を務めた人で、幣原本人から「9条第2項を発案したのは私です。あれをマッカーサーのところに持って行って、これを何とか憲法に入れていただきたいということを申し上げたのです。」という話を聞いたことが記されてあった。内田さんの元義父は、亡くなるまでそのことを繰り返し話したという。
 GHQが所謂マッカーサー草案を作成する際、参照したものの一つとして日本人の民間団体「憲法研究会」が作成した「憲法草案要綱」があったことはよく知られている。マッカーサー草案との親和性が非常に高く、その"手本"になったとさえいわれるものである。
 そういえば、15年程前の映画で『日本の青空』(監督:大澤豊)というのがあった。「憲法研究会」の中心人物である鈴木安蔵を主人公にした作品だった。なかなか、興味深い映画だった。
 手続きの問題として、日本国憲法がGHQによる占領下で作成、制定、施行されたことには変わりない。けれども、日本人が憲法制定に際して情熱を傾け、自らの手で自由で民主的な国の枠組みを作ろうとしたことは、明治の自由民権期の私擬憲法とともに、日本人の誇りとして記憶にとどめておくべくだろう。左派や保守派だけでなく、右派も含めてである。それが、ナショナル・ヒストリーである。

 今日の一枚は、ジム・ホールの1969年録音作品、『イン・ベルリン』だ。ギター、ベース、ドラムスのトリオ編成による作品である。うまいギタリストだ。パット・メセニーが影響を受けたらしいが、音色に注意して聴くと、その類似性がわかる。エッジを立てないギターなのだ。音の輪郭を敢えて際立たせず、穏やかでマイルドなトーンにしている。その意味では、大人のギターである。心地よさに、眠ってしまう。In A Sentimental Mood に心を奪われる。

基本的人権の保障を第一条に

2021年05月03日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 500◎
John Coltrane
Giant Steps
 憲法記念日である。今朝の新聞には護憲派の巨大な意見広告が載っていたが、国民アンケートをみると、改憲支持が改憲反対を上回っているらしい。現在の改憲論は、保守派というというより右派によって担われ、第9条が主に俎上に載せられることが多い。けれども、私は本当に重要なのは第1条なのだと考えている。第1条は「天皇」の条項であり、象徴天皇制が宣言される中で、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く 」と国民主権が付け足しのように位置付けられるのだ。これは、日本国憲法が大日本帝国憲法の改正として成立した事情によりおこったことだが、やはり歪んでいる。
 日本国憲法の三大原則として「基本的人権の保障」「国民主権」「恒久平和主義」があげられるが、この3つは本来並列的に並べられるべきものではなかろう。一番重要なものは、いうまでもなく「基本的人権の保障」であり、「国民主権」と「恒久平和主義」はそれを実現するための手段として位置付けられるべきものである。ところが、「基本的人権の保障」が登場するのは、前文を除けば、なんと第11条なのだ。私が、「基本的人権の保障」の条項を第1条にと考える所以である。
 尚、高校教科書では、「基本的人権の保障」と記されているが、中学校教科書では「基本的人権の尊重」と格下げされた表現となっているようだ。まことに、残念なことである。

 今日の一枚は、ジョン・コルトーンの1959年録音作品『ジャイアント・ステップス』である。還暦をあと数年後に控えても、時々、大音響でコルトレーンを聴きたくなる。学生運動世代には人気があったというコルトレーンであるが、現在の純正ジャズファンからは悪口をいわれることが多くなったようだ。にもかかわらず、やはり私はコルトレーンが好きだ。タイトル曲Giant Steps の爽快なスピード感に、Naimaの哀しみを湛えた美しさに心を奪われる。
 シーツ・オブ・サウンド。時間と空間を音で敷き詰めてしまうかのように、高速で16分音符を基調としたフレーズを吹きまくるコルトレーンの奏法のことだ。音楽というものが音と無音によって成り立っていることを考えるとき、コルトレーンは音楽そのものを否定しようとしたのではないかとふと思うことがある。その後のコルトレーンの歩みを見るとき、あながち的外れではないかもしれない、と思うのは 私だけだろうか。

スペイン風邪と歴史叙述

2021年05月01日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 498◎
Jeff Beck
Jeff Beck With The Jan Hammer Group Live
 コロナ禍である。感染の拡大や死亡率の上昇とともに、経済の停滞あるいは衰退が大きな問題となっている。日本史のひとつのターニング・ポイントとなるだろう。
 比較される疫病として、大正時代のスペイン風邪が取り上げられることが多い。およそ100年前の話だ。ところが、このスペイン風邪は、高校日本史や世界史の教科書に記されはいないのだ。コロナ禍の経験からしてみれば、とても不思議だ。スペイン風邪も社会や経済に大きな影響をもたらしたのではないのだろうか。実際、スペイン風邪は、第一次世界大戦終結の要因の一つとされることもあるのだ。教科書は、社会経済史をその原動力として、政治史を中心に叙述されている。もちろん、マルクス主義史学の影響である。生産関係の矛盾が歴史を動かすという方程式からは、疫病の問題は大きくはずれるのだろう。歴史を発展法則から考える立場からは、疫病などという突発的なものに歴史を動かされてたまるか、ということになるのかもしれない。経済については、第一次世界大戦による空前の好景気のため、スペイン風邪が日本経済に与えた影響は少ないとされているようだ。本当だろうか。例えば、1920年の恐慌(戦後恐慌)は、終戦によるヨーロッパ経済復活による、輸出商品相場の大暴落が原因とされているが、本当にそれだけなのだろうか。スペイン風邪の影響はないのだろうか。スペイン風邪の流行の真っ只中なのである。検討すべき問題である。
 いずれにせよ、教科書も含めて、歴史叙述には、歴史を動かす要因として、疫病や自然災害、気候変動など社会経済史以外の要因も検討されなければならないだろう。

 今日の一枚は、ジェフ・ベックの『ライブ・ワイアー』だ。1976年のライブの録音盤である。ヤン・ハマーのバンドにベックが参加するという趣向のようだ。白熱のライブである。三大ギタリストなどというが、本当にすごいギタリストはジェフ・ベックなのだと改めて思う。ジェフ・ベックがギター表現の可能性を極限まで追及しようとしていたことが明確にわかる。過剰なデストーションを使わず、原音に近いサウンドで勝負する姿が好ましい。どの演奏も圧巻であるが、Scatterbrainは必聴であろう。

あのくたらさんみゃくさんぼだい

2021年04月17日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 495◎
Joe Henderson
Mode For Joe
 「あのくたらさんみゃくさんぼだい」、レインボーマンである。漢字では、「阿耨多羅三藐三菩提」と書くらしい。私も最近知った。もちろん仏教用語である。《一切の真理をあまねく知った最上の智慧 》、あるいは《真理を悟った境地》のことをいうようだ。当然であろう。レインボーマンは、インドの山奥で修行して提婆達多(ダイバ・ダッタ)の魂を宿しているのだ。 ヤマトタケシは、この「あのくたらさんみゃくさんぼだい」を三唱した後、「レインボー・ダッシュ○○」と叫び、必要に応じて、七つの化身のうちのいずれかに変身するのである。七つの化身とは、月の化身(ダッシュ1)、火の化身(ダッシュ2)、水の化身(ダッシュ3)、草木の化身(ダッシュ4)、黄金の化身(ダッシュ5)、土の化身(ダッシュ6)、太陽の化身(ダッシュ7)である。一週間である。七つの化身=七曜=虹の七色ということで、レインボーなのであろう。ヤマトタケルを思わせるヤマトタケシが、仏教的な化身に変身するのである。神仏習合である。
 内容は、もはやよく覚えていない。webによると、東南アジア諸国など、かつて日本に侵略された国の人々による秘密結社「死ね死ね団」が、日本人を憎悪し復讐するため、日本国家の滅亡と日本人撲滅を企むという設定だったようだ。だから、敵は怪人や宇宙人ではない。人間の、反日国際テロ組織なのだ。「死ね死ね団」の手口はすごい。毒薬や麻薬を配布したり、偽札をばら撒いて日本経済を大混乱に陥れようとしたり、地底戦車で人工地震を発生させたり、あるいは同時爆破テロを計画したり、石油輸入の妨害や、要人の誘拐などもあったようだ。 
 ヤマトタケシは、こうした敵と祖国を守るために戦うのである。しかし、私生活を犠牲にして戦いに明け暮れる日々に疑問をもったり、戦えば戦うほど師の提婆達多の平和を希求する教えから遠ざかっていくのではないかと悩んだりする。 
 すごい物語である。定年したら見てみたいものだ。
 さて、今日の一枚は、ジョー・ヘンダーソンの1966年録音盤、『モード・フォー・ジョー』だ。パーソネルは次の通り。
Lee Morgan(tp)
Curtis Fuller(tb)
Joe Henderson(ts)
Bobby Hutcherson(vib)
Cedar Walton(p)
Ron Carter(b)
Joe Chambers(ds)
 フォーマットは、三管フロントによるハードバップそのものだが、音楽のイディオムは完全に60年代新主流派的である。シダー・ウォルトンのピアノがサウンドの傾向を規定しているように思える。一曲目から、全体を引っ張るようなスピード感で展開されるジョーヘンのソロが素晴らしい。後に続くメンバーたちも、そのスピード感を維持しつつ、流麗なソロを展開する。アクセントをつけるヴァイヴが何ともいえず、いい味を出している。
 ジョーヘンは基本的に好きだ。

稗田阿礼とサヴァン症候群

2021年04月15日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 494◎
Jeff Beck
Wired

 『古事記』の序文には、その成立について、天武天皇に舎人として仕えていた稗田阿礼という人物が、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて、古くから大王家に伝わった『帝紀』と『旧辞』の誦習を命ぜられたと記されている。奈良時代に入って、元明天皇の詔により太安万侶という人物が稗田阿礼の暗記していたものを筆録し、712年に『古事記』が成立したというのだ。
 『帝紀』は大王の皇位継承を中心とする伝承や歴史をまとめたものであり、『旧辞』は大王家に伝わる神話や伝承であるとされる。いずれも現存していない。
 荒唐無稽な話だと思っていた。そんな超人的な記憶力のある人物が存在するのだろうか。実際、稗田阿礼の名は『日本書紀』にも『続日本紀』にも見えず,そのことから架空の人物とする説も存在する。古事記には神話的な部分が多く含まれており、稗田阿礼についても架空の話として片づけることもできよう。しかし、だとしたら稗田阿礼に誦習させたことを何のためにあえて記したのだろうか。稗田阿礼は神話的な時代ではなく、7世紀後半から8世紀前半の人物である。『古事記』が成立したほぼ同時代のことについて、そんないい加減なことを記すだろうか。古事記や日本書紀の比較的新しい時代の記述については、脚色も多くもちろんすべてがそのままの事実とはいえないが、記述に関係する遺跡が実際に発掘されるなど、ある一定の事実に基づいて記されていると考えられる。
 「サヴァン症候群」のことを知るに及んで、稗田阿礼のスーパー記憶力についてもありうる話かも知れないと考えるようになった。「サヴァン症候群」は、ダスティン・ホフマン主演の映画『レインマン』で有名になったが、驚異的記憶力、音楽、計算能力、知覚・運動・芸術、時間や空間の認知など特定の領域に天才的な能力をもつ人々がいるというのだ。天才的能力を有する一方、他の部分の能力は平均的かそれ以下のことが多く、その半数に自閉症スペクトラム障害(ASD)や関連疾病がみられるらしい。2001年の研究報告では、自閉症の0.5~1%程度の割合で存在するそうだ。また、ASDが男性脳と関係が深いことから、サヴァン症候群も男性に多いともいわれている。

 今日の一枚は、ジェフ・ベックの『ワイアード』だ。1976年リリースの、ギター・インストロメンタル盤である。ギター小僧だった頃からの愛聴盤である。私の中では、前作の『ブロー・バイ・ブロー』(→こちら)と双璧である。どちらかというと、『ブロー・バイ・ブロー』の方が好きだったのであるが、最近、『ワイアード』を聴いて、その地位が逆転しつつある。アルバムとしての完成度もそうだが、何というか、ピッキングの表現力が違うのである。チャールズ・ミンガスの③ Goodbye Pork Pie Hat などはそれが如実に表れた演奏だ。1970年代という時代に、このような作品が録音されたことに、改めて驚愕の念を抱く。最後の曲、Love Is Green が終わった後の虚無的な静寂感が何ともいえずいい。


この瞬間が奇跡であること

2021年03月13日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 477◎
Jimmy Scott
Unchained Melody
 そういえば、先週訪れた大島の亀山山頂付近のレストハウスに、「ご来館くださった方々へ」という張り紙があった。10回目の「3.11」の直前だったためだろうか、あるいは亀山からの雄大で美しい景色を見た直後だった所為だろうか、妙に記憶に残っている。

ここ亀山から、緑の真珠を眺め未来を想像してください。
悪天候の時もあるでしょう。
残念に思われるかもしれませんが、それも時には必要な自然の力なのだと思います。
次に見える景色は、虹がかかるかもしれません。
雲ひとつない青空かもしれません。
どれもこれも一度しか見れない景色です。

当たり前の日常が当たり前ではない日常であること。
今見えているもの、感じているもの、この瞬間が奇跡であること。
この景色を眺め、大切な時間をお過ごしください。

どうか、あなたの人生に、たくさんの優しい光が差し込みますように。
 
「緑の真珠」とは大島のことである。「大切な時間をお過ごしください」というところがなかなかいい。
 今日の一枚は、ジミー・スコットの『アンチェインド・メロディー』である。2001年のライブ録音盤だ。ジミー・スコットについては、以前話題にしたことがある(→こちら)。「伝説のシンガー」「天使の声」といわれる歌手だ。多くのシンガーに影響を与え、ミュージシャン仲間から絶賛されたにもかかわらず、長い不遇の時代を過ごさねばならなかった彼にとって、このアルバムが初のライブ・アルバムなのだそうだ。しかしこの時、彼は76歳。かつての天使の声の片りんは十分に感じることができるが、もはや天使の声ではない。懸命に声を振り絞る姿からは、正直いって痛々しさを感じざるを得ない。ところがである。じっと耳を傾けていると、その世界に引き込まれ、気付けば痛々しさなど消え去ってしまっている。これもまた、奇跡だ。
 ジミー・スコットは、2014年に亡くなった。

これはいい!

2014年08月03日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 372●

Joe Henderson

Lush Life

 

 いやあ、これはいい。最近手に入れたばかりの、ジョー・ヘンダーソン晩年の一枚、『ラッシュ・ライフ』だ。1991年の録音。デューク・エリントンの片腕だった作編曲家、ビリー・ストレイホーンの作品集である。

 情感豊かなテナーだ。全編を漂う、静寂な雰囲気が好きだ。もごもごと口ごもっているようでいながら、伝えるべき正確な言葉をさがしている。しかし、そのうち自分の本当に伝えたかったことや、伝えるべき言葉を探し当て、ちょっと恥ずかしながらもきっぱりとした口調で語りはじめる。その言葉を探し求める過程がひとつの作品になっている。このアルバムのジョーヘンの演奏には何となくそんなことを感じる。

 ジョーヘンの演奏を聴きながら、プレゼンテーション能力の名のもとに、内容が浅薄な、他者をおしのけるためだけの、声が大きい主張が評価されつつある教育現場や社会のことを考え込んでしまった。

 


知らぬ間に大物になっているミュージシャン

2014年07月28日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 369●

Joe Henderson

The State Of The Tennor

    Live At The Village Vanguard vol.1

 以前探していたアルバムを手に入れた。1985年録音の『ヴィレッジ・ヴァンガードのジョー・ヘンダーソン』である。ほぼリアルタイムで聴いた『ダブル・レインボー』(1994年録音)でジョーヘンに興味をもち、ジャズ本か何かで代表作として紹介されていたこのアルバムを探していたのだが、CDとしてはまだ発売されていなかったのだ。その後数年間、思い出すたびに調べてみたりしたのだがやはり発売されておらず、そのうち忘れてしまっていた。十数年ぶりに思いだし、たまたま発売されていたCDを購入したのはほんの数日前のことだ。

 いいなあ・・・。音色がいい。深みのある音だ。深みはあるけれど暗くない音。何かを探究するような求道的なフレーズだが、変に深刻ではない。何より、知的で汗臭くないのがいい。それにしても、ロン・カーターという人は、こういう不思議な感じのベースも弾けるのですね。

 ところで、後藤雅洋氏は『新ジャズの名演・名盤』(講談社現代新書)の中で、

知らぬ間に大物になっているミュージシャンというのがいる

とジョー・ヘンダーソンの紹介を書きおこし、現在のジョーヘンを「大物」のひとりと認めながらも、

僕らのように1960年代からジャズを聴いている者にとって、ジョーヘンは、言っちゃ悪いがその他大勢のひとりであった

と記している。確かに、またまた手元にある本だが、1986年に出版された油井正一『ジャズ・ベスト・レコード・コレクション』(新潮文庫)で紹介された597作品の中に、ジョーヘンのリーダー作は一枚も取り上げられていない。また、これまたたまたま手元にある、1993年出版の寺島靖国『辛口!JAZZ名盤1001』(講談社+α文庫)で紹介された1001作品に中にもジョーヘンのリーダー作は一枚もない。さらに、1983年刊の『ジャズの事典』(冬樹社)も手元にあるのだが、ここでもジョーヘンはまったく取り上げられていない。