WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

梅も咲き、白鳥も飛び立った

2022年04月02日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 575◎
Charlie Haden & Jim Hall
 
 今年は、庭の梅の花がなかなか咲かなかったが(→こちら)、私の住む街にもやっと春の足音が聞こえはじめたようだ。数個のみだが、庭の梅の花も咲きはじめた。つぼみももう少しで咲きそうな気配だ。冬にはたくさんの白鳥が見られた近くの菖蒲沢池も、今朝行ったところもう白鳥は一羽もおらず、数羽の鴨が泳いでいるのみだった。未だ風は冷たいが、日差しは柔らかになってきている。
 最後の一年が始まる。この一年で定年退職だ。自分が定年退職だなんて信じられない。気力が充実していれば再任用制度を利用するかもしれないが、最後の一年は丁寧にしっかりやろうと思う。
 今日の一枚は、『チャーリー・ヘイデン&ジム・ホール 』である。1990年のモントリオール・ジャズ・フェスティヴァル でのライブ録音盤である。
 考えてみれば、2人ともデュオの名手である。チャーリー・ヘイデンは、キース・ジャレットやハンク・ジョーンズ、パット・メセニーなどと、 ジム・ホールはビル・エヴァンスをはじめ、ロン・カーター、パット・メセニー などと名盤として名高い作品を残している。悪い作品であるわけがない。ベースとギターのデュオということで、低域から中域がサウンドスペースを占め、安定した柔らかく優しいトーンになっている。
 窓から見える青い空と春の訪れを感じさせる風景を見ながら、この作品を聴いている。心が穏やかになってくるのがわかる。

ウルトラセブン最終回(後編)

2022年03月06日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 569◎
Dinu Lipatti
Robert Schumann Piano Concertp,OP54

 ウルトラセブン最終回(後編)がNHK-BSPで放映された。
 ダンがアンヌにウルトラセブンであることを告白する場面は,今見てもなかなか印象深いものであった。突然、画面が影絵になり,シューマンの協奏曲が流れるシーンは,子ども番組にはふさわしくないと思えるほどにシリアスだった。 
(ダン)「アンヌ..僕は..僕はね..人間じゃ無いんだよ。M78星雲から来たウルトラセブンなんだ!!」
(ダン)「ビックリしただろ?」 
(アンヌ)「..ううん。人間であろうと宇宙人であろうとダンはダンで変わり無いじゃないの。例えウルトラセブンでも」
(ダン)「有難うアンヌ」
(ダン)「今話した通り、僕はM78星雲に帰らなければならないんだ!西の空に明けの明星が輝く頃1つの光が宇宙へ飛んでいく。それが僕なんだよ」
(ダン)「さよならアンヌ!」
(アンヌ)「待って!ダン!行かないで!!」
(ダン)「アマギ隊員がピンチなんだよ!」 
 「西の空に明けの明星が輝く頃」については、webをみると様々な解釈や憶測があるようだ。《明けの明星》は東の空に見えるものだからだ。何かの言い間違えであるとする説や《西の空》は《輝く頃1つの光が宇宙へ飛んでいく》にかかるとする説、脚本は違う言葉だったが撮影編集の過程でそうなったのだとする説、今となってはわからない。
 この言葉は確かに印象的なものだったが、私にとってはその後のアンヌ隊員の涙が深く心を打つシーンだった。恐らくは当時の少年たちも同じだったのではなかろうか、と勝手に思っている。

 今日の一枚は、カラヤン,フィルハーモニア管弦楽団&ディヌ・リパッティの1958年録音作『シューマンピアノ協奏曲イ短調作品54』である。アップル・ミュージックで聴いている。ウルトラセブン最終回のあの名シーンで流れるピアノである。クラシック音楽には詳しくない。演奏家もそんなに知らない。カラヤンはもちろん名前は知っておりいくつか作品を聴いたことはあるが、ディヌ・リパッティという人は全く知らなかった。ウルトラセブンとのかかわりでクラシック音楽を知り、ピアニストを知る。そんな聴き方も赦されるだろう。

坂東武者の世をつくる

2022年02月11日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 564◎
Cream
Disraeli Gears
 『鎌倉殿の13人』の話題である。
 先週の放送で北条義時の兄、宗時が死んだ。石橋山の戦いで敗死したのである。宗時が死んだあと、宗時が義時に語りかける形で、その思いを吐露するシーンがあった。
平家とか源氏とか、そんなことどうでもいいんだ。俺はこの坂東を俺たちだけのものにしたいんだ。西から来た奴らの顔色をうかがって暮らすのはまっぴらだ。坂東武者の世をつくる。その天辺に北条が立つ。そのためには源氏の力がいるんだ。頼朝の力がどうしてもな。
 鎌倉幕府の本質である。鎌倉幕府は源頼朝がつくったというが、それは構造的な本質ではない。頼朝は一介の流人に過ぎず、家来などほとんどいなかった。彼が成功したのは、東国武士の協力があったからである。東国武士が頼朝に与したのは、もちろん彼らの利益のためである。西の政権の抑圧や収奪を排除し、自分たちの世界を作るためである。
 鎌倉幕府の本質は、東国武士団による連合政権なのである。事実、源氏は頼朝・頼家・実朝の三代で滅ぶが、鎌倉幕府はその後も続いていくのだ。北条氏は幕府の中で大きな権力を握ることになるが、政治の手続きとしては《合議制》の形式を続けていくことになる。こうした歴史認識は、当然の帰結として「東国国家論」を要請することになるだろう。これからの『鎌倉殿の13人』が楽しみである。

 今聴いているのは、クリームの1967年リリース盤『フレッシュ・クリーム』である。クリームは好きだ。そして、以前記したように(→こちら)、真のスーパーバンドだと考えている。あの分厚いサウンドを3人で作り上げていたこと、30分にも及ぶことのあったインタープレイ。今考えても、唯一無二ロック・バンドである。しばらくぶりに聴く『フレッシュ・クリーム』は佳曲揃いでなかなか聴きごたえがある。もう二周目になってしまった。

 多くのギター少年たちと同じように、エリック・クラプトンは、私のギター・ヒーローの一人だった。ギター小僧だった頃、『エリック・クラプトン奏法』という本でその奏法を勉強したものだ。けれども、本当にすごかったのは、仲が悪かったといわれるジャック・ブルースのベースとジンジャー・ベイカーのドラムが作りあげる、分厚くうねるようなリズムのドライブ感だったのだと、今は思う。エリック・クラプトンのギターは、もちろん悪くはないが、今という時点から見ると、ひどく凡庸なものに聞こえてしまう。もちろん、歴史性を排除して現在から過去を断罪するのはフェアなやり方ではないが、エリック・クラプトンの演奏に比して、ジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーが織りなすサウンドは、現在という地点から見ても革新的な輝きを放っているように思える。

 youtubeで見ることができる2005年の再結成ライブは、なかなか凄いものだった。ジャック・ブルースは2014年に、ジンジャー・ベイカー2019年に亡くなっており、健在なのはエリック・クラプトンのみである。

「不敬」である

2021年10月31日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 554◎
Cedar Walton & Ron Carter
Heart & Soul
 秋篠宮の長女眞子さんが結婚したようだ。この間、相手男性とその母親の金銭問題や対応の仕方を契機として、webには彼らの人間性に対する批判的な言葉が溢れ、その結婚を止めようとしない眞子さんその人に対しても、批判的な物言いが数多く見られた。そこには、ほとんど罵詈雑言といっていいものも数多く含まれていた。戦前なら、不敬罪だろう。私は、残念ながら天皇主義者でも皇室崇拝者でもないが、このような状況に対してははっきり「不敬」だと思う。
 ところで、すでに幾人が指摘したことであるが、このよな「不敬な」言説の多くが、リベラル派や左派と目される人たちではなく、右派や自称保守と思われる人々から発せられていることは記憶に留めておかなければならない。(ここで「自称保守」と記したのは、webにあふれる保守を名のる人々の言説の多くが、原理的に到底保守とは呼びえないことに起因する。)
 「不敬な」言説は、本来、皇室を敬愛し尊崇することを主義とする人々から発せられた罵詈雑言なのである。このことは、右派や自称保守の皇室への尊崇・敬愛が、アプリオリに、すなわち如何なる場合にも無条件で自然発生的に抱かれるものではないことを表している。ある一定の条件の下でのみ作動するような尊崇・敬愛なのである。一定の条件とはもちろん、自分たちの考えに合致するような皇室ということになる。
 したがって、自分たちの考えに合致するような皇室である限り尊崇・敬愛するが、そうない場合には批判的な言説を浴びせ、時として罵詈雑言すら発するわけだ。このことから、右派や自称保守にとって、皇室とは政治的な道具であるということができる。彼らにとって敬愛すべき皇室とは、自分たちに都合のいい皇室でなければならないということだ。その意味では、右派・自称保守派の皇室への尊崇・敬愛とは政治的なフィクションなのであり、明治維新以来の「玉」の思想は今日も生き続けているといえる。その論理を延長すれば、皇室は何色でもない無色透明の、自分たちの色に染まりやすい存在であった方がいい。皇室の権威を利用し、自分たちの政治的な野望を達成することができるからだ。
 内田樹『街場の天皇論』の次のような記述は記憶に留めておくべきであろう。
なぜ、改憲派は天皇への権力集中を狙うのか。それは戦前の「天皇親政」システムの「うまみ」を知っているからです。まず天皇を雲の上に祭り上げ、「御簾の内」に追い込み、国民との接点をなくし、個人的な発言や行動も禁じる。そして、「上奏」を許された少数の人間だけが天皇の威を借りて、「畏れ多くも畏き辺りにおかれましては」という呪文を唱えて、超憲法的な権威を揮う。そういう戦前の統帥権に似た仕組みを安倍政権とその周辺の人々は作ろうとしています。彼らにとって、天皇はあくまで「神輿」に過ぎません。

 今日の一枚は、シダー・ウォルトン & ロン・カーターの1991年作品、『ハート & ソウル』である。もっと以前に、学生時代頃に聴いたように思っていたが、1990年代の作品だったようだ。記憶とは全く不確かなものだ。シダー・ウォルトンのピアノは相変わらず美しい。村上春樹氏は、このピアニストについて「知的で端正ではあるが、そのくせ鋼のように鋭いタッチ」と述べているが、確かに美しい旋律を構成する一つ一つのタッチからはある種の強靭さを感じることができる。ベースとのデュオ形式ということで、そういったウォルトンの資質をより身近にリアルに感じることができる。


退院が延期された

2021年10月03日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 550◎
Chet Baker 
 Little Girl Blue 
 入院中である。
 本来なら、今日退院のはずだった。夜、発熱したのである。38.7℃。昨日の朝は快調だった。だんだんおかしくなってきたのだ。ふらふらする感じがし、上半身がかゆかった。全体的に、皮膚が過敏で傷つきやすくなっている気がした。パンツのゴムのところや、股、わきの下などがすれて痛い。担当医に相談すると、ステロイドの影響かも知れないし、昨日から飲んでいる血糖値を下げる薬(ジャディアンス錠10mg)の可能性もあるとのことだった。ただ、昨日は経口ステロイドの服用はしない日であり、症状がジャディアンス錠10mgの副作用とよく似ているようだ。ジャディアンス錠10mgの薬疹の可能性が高いのではないかと思っている。 
 ステロイド剤の大量投与のため、血糖値が上ってストロイド糖尿病の様相を呈している。もちろん、ステロイドから離脱すれば、血糖値も落ち着いてくるらしいが、それまで血糖値の暴走をどのように抑えるかが問題だ。その血糖値を安定される薬の副作用が問題なのだ。まあ、担当医もそのことでいろいろ考えていたようだし、私自身も昨夜から今日の午前中にかけて信じられないぐらい眠った。退院延期は正解だつかもしれない。

 今日の一枚は、チェット・ベイカーの1988年作品『リトル・ガール・ブルー』である。入院中なので、apple musicで聴いている。チェット・ベイカーは好きだ。初期も晩年も含めて魅了される。自宅には相当数のコレクションもある。ただ。このアルバムはもっていなかったかもしれない。もしなかったら、是非とも買っておきたい一枚である。そう思わせるに十分な一枚である。ジャケットには、Chet Baker Meets Space Jazz Trioとあるが、 Space Jazz TrioとはあのEnrico Pieranunzi率いるピアノトリオのようだ。
 犬のように眠り、気分は爽快だが、細胞が疲れているのはよくわかる。今日は静かな音楽でも聴きながら、のんびりと休みたい。

Chet Baker (tp,vo)
Enrico Pieranunzi (p)
Enzo Pletropaoli (b)
Fabrizio Sferra (ds)




金融緩和じゃダメなんだ

2021年09月18日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 543◎
Charlie Haden & Gonzalo Rubalcaba
Tokyo adagio
 自民党総裁選挙である。アベノミクスならぬ〇〇ノミクスなどといい、効果のない大規模金融緩和を続けようとする候補が目に付いた。いい加減、考えてもらいたい。《失われた30年》、いや失われっぱなしの日本経済じゃないか。「異次元の金融緩和」などといっても、目標のインフレ率2%にも遠く及ばない。通貨量が足りないのだ。そして、金融緩和ではもはや通貨量の増大は望めないのだ。

 金融緩和とは、「買いオペレーション」のことだ。日本銀行が民間銀行の保有する国債を買い入れて、代わりに貨幣を供給する。ところが、そのお金は準備預金として日銀当座預金に繰り入れられるのだ。

 ところが、これらの日銀当座預金は必ずしも民間への貸し出しには回らない。民間の銀行は別の原理で貸し出しをしているからだ。それが《信用創造》というものであり、いわば無から貨幣を創造して貸し出すやり方だ。たとえば、民間銀行が帳簿に100万円と記入すれば、貸し出しとしてのお金が作り出されるのだ。民間銀行が勝手にお金を作っているに等しい。つまり、金融緩和によって準備預金として当座預金に積み上げられたお金は、そのまま世の中には出回らないのだ。これはマネーサプライ(マネーストック)とはいわない。 

 ところが、自民党の連中は、マネタリーベースという言葉を使い、準備預金としての日銀当座預金を含めたお金の量が増えたと議論をすり替えている。実際には、マネタリーベースは増大しても、マネーサプライはあまり増えないという事になる。さらに、世の中に出たお金も、内部留保として企業がため込み、国民にはさっぱりいきわたらない。。したがって、賃金は上昇せず、消費需要も増大しないということになる。銀行と企業が、国民に渡るはずのお金をせき止めていることになる。

 今、必要なことは、政府が国民にお金を配ることで世の中に出回るお金の量を増やし、消費需要を増やすことだ。

 今日の一枚は、チャーリー・ヘイデン&ゴンザロ・ルバルカバの『東京アダージョ』である。2015年リリース作品だが、2005年のブルーノート東京でのライブ音源である。2014年のチャーリー・ヘイデンの他界を契機にリリースされたもののようだ。チャーリー・ヘイデンは、ピアニストやギタリストと多くのデュオ作品を残したが、その多くが佳作いや名作である。チャーリー・ヘイデンのデュオ作品はすでにそれなりに所有しているが、すべて集めたいと思うほどだ。それにしても、ゴンザロ・ルバルカバというピアニストは、なぜこんなにも美しい音色を出すことができるのだろう。その澄んだ響きは、チャーリー・ヘイデンの深く沈むベースと絶妙にマッチする。耳を澄まし、目をつぶって聴いてしまう。このライブが東京で行われたことを知るにつけ、そこに自分がいなかったことが悔やまれるほどだ。

困ったちゃんの哀しみ

2021年07月31日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 522◎
土門秀明
Live In Tube 2
 入院中である。隣の患者さんが"困ったちゃん"のようだ。おじいさん、といっても、60代ぐらいに見える人だ。看護師から名前を聞かれて、矢沢永吉と冗談をいっていた。その彼が何度も何度も、そう10〜
15分おきにナースコールをし、看護師を呼ぶのだ。その都度、いろいろな要求や頼みごとをする。看護師は誠実に対応しているが、辟易気味のようだ。昨日の夜からは、奥さんを呼んでほしい、〇〇を持ってくるよう連絡してほしい、実家のお母さんを呼んでほしい、と何十回も頼み込んでいた。何か事情があるらしく、看護師も困惑しているようだった。今日の夕方になって、奥さんが来たようだが、面会はせず荷物だけ置いて帰ったようだ。荷物の中には要求したスマホは入っておらず、彼は失望したようだった。スマホをもって来るよう再度伝えてほしいと看護師に懇願していたが、奥さんからスマホは渡せないといわれたとのことだった。みんないろいろな事情を抱えている。どんな事情があるか知る由もないが、彼の哀しみや寂しさが、彼をして困ったちゃんにした一因なのだろうと思った。そう思うと、彼を責められない。健康を害した人は社会の片隅に追いやられてゆく。誰だって、次は我が身なのだ。今月の、100分de名著「老い」の上野千鶴子の話が心に響く。

 そういうことを横目に、私がApple musicで聴いていたのは、土門秀明の『Live In Tube 2』である。2015年にリリースされた作品だ。先日も記したが、A Day In The Life は本当にいい演奏である。秀逸な編曲である。原曲をほとんど崩さず、それでいて曲のイメージのエッセンスを抽出したような演奏が、ロンドンの地下鉄の喧騒に溶けてゆく。まさに、A Day In The Life という趣きである。
他の演奏も秀逸であるが、A Day
 In The Life は特別である。

退屈だ!

2021年07月31日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 521◎
土門秀明
Live In Tube

 退屈である。昨日から仙台の病院に入院しているのだ。検査入院だが、数日後に検査のための開腹手術をしなければならない。ちょっと、気が重い。病室でできることといえば、読書と音楽を聴くことぐらいだ。柄にもなくスマホをいじったりもしている。
 時間はたっぷりあるが、なかなか読書には集中できないようだ。音楽はApple musicで聴いている。朝から聴いているのは、土門秀明という人のエレガットのソロ作品だ。2012年作品の、『Live In Tube』、なかなか味のあるギターだ。入院中の耳に優しいサウンドである。土門秀明という人は、元バブルガムブラザーズのギタリストで、ロンドンの地下鉄構内で演奏することを公認されたバスカーという称号をもつ人のようだ。
 We Are All Alone、Here,There,AndEverywhere、Desperado、私もソロで弾いたことのある曲がいくつか収録されている。当然のことながら、私とは表現力が違う。
 最近、古いダイナミックギターで弾くことが多かったが、退院したらエレガットを買って、もう少し練習してみようか、などと考えたりする。退院後の多少の希望がなければ、入院は辛いものだ。



モデルナワクチンを接種した!

2021年06月20日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 513◎
Charlie Parker
The Complete Savoy & Dial Master Takes
 昨日、モデルナワクチンを接種した。職場の斡旋で、仙台のヨドバシカメラにある東北大学ワクチン接種センターでの大規模接種に赴いたのだ。もともと体内に異物を入れることはあまり好きではない。ましてや、治験が十分でないため未知のことが多く、日本でも接種後に200人近くが亡くなっているというワクチンを接種するのは正直抵抗があった。けれども、仕事柄、新型コロナウィルス感染症に感染することはできない。仕方なく、職場の斡旋を受け入れて、接種することにしたのである。
 接種のときは全然痛くはなく、いつ打ったかわからないほどだったが、夕方ごろから打った場所付近が痛みはじめ、今日は肌の表面を触っただけでもかなり痛い。まだ腕が上がらないことはないが、多くの同僚と同じように、そのうち上がらなくなるのかもしれない。
 4週間後の同じ曜日の同じ時間に、2回目の接種をしなければならないとのことだ。2回目には、38度台の熱がでることが多いようだ。それをわかっていながら、接種のために仙台まで赴かなければならないのは、正直、気が重い。

 今日の一枚は、チャーリー・パーカーの『サヴォイ&ダイアル・マスター・テイクス』である。チャーリー・パーカーがSavoyとDialに録音したマスタートラックのみを集めたコンプリート盤である。ボーナストラックが入ったものもあるようだが、パーカーの研究者でなければ、良い演奏のみを集めたこちらの方が魅惑的だろう。
 昨日、ワクチン接種の後、会場のヨドバシカメラをぶらつき、1Fのオーディオコーナーでスピーカーを見ていたら、ダリのスピーカーから「パーカー・ムード」が流れていた。これはいいと思い、じっと聴き入ってしまった。
 私はパーカー信者ではないが、それでもたまにパーカーを聴きたくなる。そして聴けば例外なく、その流麗なアドリブに聴き入ってしまう。思えば、学生時代にジャズを聴きはじめたころ、勧められてパーカーを聴いても、何をやっているのか、やろうとしているのか、全然わからなかった。いい音楽だとも思わなかった。そのパーカーの音楽がいつから好ましいものに変わったのか、振り返ってみてもよくわからない。

ムケート・ケニア???

2021年05月03日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 499◎
Charles Mingus
Mingus Ah Um
 ずっと、「ムケート・ケニア」だと思ったら、「ヌチェート・ケニア」だった。webは便利だ。アニメ『アタックNo.1』に登場するケニアのマヌンバ選手の言葉である。子どもの頃見たのに、妙に脳に残っている。
 「ヌチェート・ケニア」は、私の祖国ケニアという意味らしい。独立したばかりの貧しい国ゆえに、補欠なしの6人で戦わねばならない状況の中で、主将のマヌンバ選手が負傷する。一人でも負傷退場すれば試合を棄権しなければならない。主将のマヌンバ選手はコートに立ち続け、「ヌチェート・ケニア」と叫びながらプレーするのである。マヌンバ選手の思いに他の選手も奮い立ち、全員がレシーブの度に「ヌチェート・ケニア」と叫びながらプレーするのである。感動である。 
 思えば、子どもの頃の私が、第三世界というものに触れたのはこれが最初だったかもしれない。1957年にエンクルマの率いるガーナが、ブラック・アフリカで最初の独立国となるが、1960年には一挙に17か国が独立を果たし「アフリカの年」といわれた。1960年代を通してアフリカ諸国の独立は加速していく。ケニアの独立は1963年である。『アタックNo.1』が「週刊マーガレット」で連載されたのは、1968年~1970年であり、テレビアニメの放映は1969年~1971年である。世界情勢を反映していたといえるだろう。テレビアニメが世界認識のきっかけとなったことも多かったのだ、と改めて思う。
 ところで、ソ連のエースも、シェレーミナだと思っていたら、シェレーニナだったようだ。やはり、webは便利だ。

 今日の一枚は、チャールズ・ミンガスの1959年録音作品、『ミンガス・アー・アム』である。ジャケットが、デイヴ・ブルーベックの『タイム・アウト』と似ていて間違いやすいと思っていたら、同じデザイナーによるものだった。ミンガスはなぜだか私のアンテナに引っかからなかったようで、所有するレコード・CDは少ない。名曲「グッドバイ・ポーク・パイ・ハット」が収録されたこのCDを購入したのも1年程前のことだ。
 ベース奏者、作曲、編曲、バンド・リーターと、やはりミンガスという人は才能のあった人なのだと改めて思う。若い頃、『直立猿人』を聴いて、ミンガスって小難しい奴なのかなと思っていたのだが、このアルバムはたいへん聴きやすい。サウンドが安定しており、まったく聴き飽きしない。全編がとてもスムーズに進行し、音量を上げても下げてもそれぞれに楽しめる。ハーモニーの感覚がすごく好きだ。

発掘狂騒史①

2021年04月04日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日に一枚 489◎
Cello Accustics
Paris 1256
 2000年に発覚した、旧石器捏造事件についての話である。
 民間考古学団体、東北旧石器文化研究所副理事長の肩書をもっていた藤村新一という人が、自分で埋めた石器を旧石器として発掘していたことを毎日新聞がスクープした事件である。
 それ以前、高校教科書には、座散乱木遺跡や馬場壇A遺跡、高森遺跡、上高森遺跡などの名とともに、約60万年前の原人段階の文化の存在が記されていた。私自身、授業でそう教えていた。それらの遺跡の多くが宮城県だったことに一抹の疑問はあったが、芹沢長介門下の東北大学系の考古学研究者が多数関わっていたことで、その疑問は深まらなかった。それどころか、宮城県は民間考古学団体が積極的に発掘に参加できる《ひらかれた》風土ゆえに、前期旧石器が多く発掘されるのだと思っていた。
 旧石器の捏造が発覚する数年前、結婚式で学生時代の友人たちが集まった際、考古学専攻だった連中から「お前のところの旧石器遺跡は絶対おかしい。北関東の研究者はみんなそう思っているよ」と口を揃えていわれた。まさかそんなことはあるまい、とその時は思った。数年後、旧石器捏造が発覚し、東北旧石器文化研究所の関わった遺跡は全部だめだということになった。その時点での日本の前期旧石器文化の存在は、事実上否定されたといっていい。なぜ、専門の研究者が一緒にいながら、このような事件が起きたのか。まったく理解に苦しむことだった。
 捏造発覚後、旧石器捏造事件関連本がいくつか出版されたが、関係者たちの自己弁護のために書かれたといわれても仕方ないようなものもあった。その中で異彩を放っていた本がある。上原善広という人の『石の巨塔 発見と捏造 考古学に憑かれた男たち』(新潮社)という本である。丹念な取材に基づいたノンフィクション作品である。この本は、のちに『発掘狂騒史 「岩宿」から「神の手」まで』(新潮文庫)として文庫化された。私が読んだのは文庫版の方だ。「登呂の鬼」といわれ、明治大学に考古学王国を築き上げた杉原荘介と、その弟子でありながら杉原と対立して東北大学に去った芹沢長介の確執を軸に戦後の日本考古学史を俯瞰し、その中に捏造事件を位置付けようとした本だ。それは、捏造事件が、藤村という人ひとりの愚かな行為にとどまらない広がりをもっていることを示唆していた。実際、藤村らの旧石器を批判する論文が捏造発覚前にいくつか発表されていたが、それらはすべて「学界」から黙殺されて、逆にパッシングを受けていたのである。 
 今日の一枚は、Cello Acousticsの『Paris 1256』だ。伊藤秀治という人のプロデュースによる1992年録音作品である。
 パーソネルは、次の通りだ。
Niels Lan Doky(p)
Vincent Courtois(cello)
Paul Pichard(cello)
Marie-Ange Martin(cello)
Helene Labarriere(b)
作品のコンセプトは、伊藤秀治さんの次の文章の通りだ。
いい音色の代名詞とも言えるチェロのみでアンサンブルを構成し、これが中音域中心にサウンドを安定させる。その前をピアノの88鍵が縦横無尽に動き回る。やはり低域はコントラバスに任せて重量感が出る。
 やはりニルス・ランドーキーのピアノが聴きものだ。安定したサウンドの中を駆け巡るニルスのピアノのスピード感がいい。ときどき聴きたくなる一枚だ。

復興祈念公園、そして安波山へ

2021年04月03日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 488◎
Chet Baker & Paul Bley
Diane
  今日は午後から3月11日にオープンしたという「気仙沼市復興祈念公園」に行ってみた。なかなか立派な施設だった。地区ごとにまとめられた震災の犠牲者名簿もあり、じっと見入っている見学者も多くいた。ここからの眺めは最高だ。この街の港や、自分が生まれ育った鹿折の町を一望にすることができる。だからこそ、立派な施設ができて良かったと思う反面、寂しさもある。思い出の場所なのだ。この丘は陣山と呼ばれていた。中世の山城跡だ。かつて丘の麓に住んでいた私は、よくここを訪れた。ラジカセを持参し、ビートルズやローリング・ストーンズを聴きながら、草の斜面に寝転んでO・ヘンリの短編をいくつも英語で読んだ。それが私の英語の勉強だった。汽笛の音や船のエンジン音が優しく私を包み、まどろみの中に誘うこともしばしばだった。だから、陣山を崩して造られたこの復興記念公園には複雑な思いだ。
 せっかくここまで来たのだからと、しばらくぶりに安波山まで行ってみようと思った。安波山は高い山ではないが、この街を見守るようにそびえ立つ、この街のシンボルのような山だ。お笑いコンビのサンドウィッチマンが大津波を見たという場所までは車で、そこから山頂までは歩いて登った。所々に「万葉の歌」の立て札があり、登山者の心を癒してくれる。私は一つ一つの歌を声を出して読み、意味を考えながらゆっくりと登った。息を切らしながら登った、山頂からの眺めは筆舌に尽くしがたいものだった。

 今日の一枚は、チェット・ベイカーとポール・ブレイの1985年録音作品の『ダイアン』だ。年齢を重ねるごとに晩年のチェットが好きになっていく。もちろん、若い頃のキレのあるチェットも好きだ。けれども、テクニックをひけらかさず、自分にとって必要な音を、必要な分だけ、必要なように奏でる晩年のチェットに、ものすごい吸引力で引き付けられる。前衛的な演奏で知られるポール・ブレイが、その個性を表出しながらも決して出しゃばらず、チェットの演奏に寄り添い、しっかりと支えている。ウイスキーをすすりながらチェットのトランペットに耳を傾けると、いつも目をつぶって音楽に没入してしまう。失ってしまった時間への哀惜の念と、それでも自分の人生を肯定し、優しく包み込むようなトランペットに、時々、涙がこぼれてしまうこともある。

「"き"のつくキ〇タマ」事件

2021年03月14日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 479◎
Chris Connor
Sings lullabys Of Birdland
 本棚を整理していて、懐かしい本を見つけた。栗本慎一郎の『ホモ・パンツたちへ』(情報センター:1982)である。高校・大学の一時期、私は栗本慎一郎の読者だったのだ。当時、経済人類学者を名乗っていた栗本氏の著作から、私は相対的に考えるという視点を学んだのだった。
 そういえば、この本の中で「”き"のつくキ〇タマ」事件が紹介されていた。テレビの幼児教育番組の中で、若い美人の女の先生が、「では、"き"のつく言葉を言ってみましょう」と問いかけたところ、一人の男の子が手を挙げて、「キ〇タマ」と答えたというのだ。若い美人の女の先生はしばし絶句し、あわてて「そうね。それもありますね。でももっと美しくてきれいな言葉を言いましょうね。さあ、他に何かありますか?」と再び問い掛けた。子どもたちがシーンと沈黙していると、先の男の子が再び挙手して「きれいなキ〇タマ!」と答えたというのだ。その瞬間、生放送だったこの番組の画面いっぱいに「しばらくお待ちください」のスーパーが映り、番組が再開すると、その男の子の姿はどこかに消え、男の子の座席には善意の象徴であるパンダのぬいぐるみが座っていたという。
 腹を抱えて笑ったものだ。腹筋がつりそうだった。この番組とは「ロンパールーム」だったらしく、一部では有名な事件だったようだ。栗本氏は、この事件を《しのびよるパンダ・ファシズム》として糾弾し、言葉を固定的にとらえて排除する仕方を批判したのだった。
 今日の一枚は、クリス・コナーの『バードランドの子守歌』だ。1953~1954年のライブ録音盤である。優しく柔らかい歌声が何ともいえずいい。歌のテクニックは高度だが、決して奇をてらわず、曲の芯をとらえるのがクリスのボーカルの真骨頂である。「バードランドの子守歌」は、例えばサラ・ヴォーンのそれと比較すると両者の資質の違いが明確になる。どちらも好きだが、クリスの歌唱は本当にゆったりした気持ちになる。

そうか、チック・コリアが亡くなったのか

2021年02月23日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 469◎
Chick Corea
Now He Sings , Now He Sobs
 ちょっと前の新聞記事で、チック・コリアの訃報に接した。79歳。癌で闘病中だったとのことだ。驚いたし、少なからずショックだ。若い頃、そう、1980年代の学生時代、熱狂的に聴いたものだ。
"Return To Forever"、
"Crystal Silence"、
"In Concert"、
"Akoustic Band"、
"Like Minds"、
"Now He Sings , Now He Sobs"、
"Elektric Band"、
"Duet"、
"Three Quartets"、
"A.R.C"、
"Children's Songs"、
"Touchstone"、
棚やラックを見ると、結構な数のLPやCDがある。他にも、貸しレコード屋で借りて聴いたものもたくさんあったはずだ。ところが、いつの頃からか、チック・コリアを聴かなくなってしまった。嫌いになったわけではない。気付いたらそうなってしまっていたのだ。
 しばらくぶりに、チックを聴いてみると、そこには生き生きとした演奏があった。本当に新鮮な音だった。何故、チックの歩んだ音楽の旅をフォローし続けなかったのだろうか。今となっては悔やまれるばかりだ。けれども、それもまた人生というものだろう。
 今日の一枚は、1968年録音の『ナウ・ヒー・シングス・ナウ・ヒー・ソブス』である。チック・コリアのデビュー作かと思っていたら,2枚目のリーダー作のようだ。攻撃的なピアノである。攻撃的だが、流麗で美しい旋律だ。今聴いてもすごく新鮮である。同時代に聴いた人は、おそらく衝撃を受けたことだろう。ジャズが変わろうとしていた時代、フリージャズを消化した上で構築された新しいスタイルのジャズだ。① Steps-What Was はすごい演奏である。攻撃的に、挑戦的に、ものすごい速さで奏でられるピアノなのに、その旋律は本当に美しい。
 2021年2月9日、チック・コリアが亡くなった。

怠惰な一日、静かにジャズ

2021年01月03日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 460◎
Duke Jordan
Flight To Jordan
 考えてみれば、昨日と今日の2日間、怠惰に過ごしてしまった気がする。2日とも、朝からテレビで箱根駅伝の母校を応援し、ちょっと休んで、今度はBリーグの宇都宮ブレックスのゲームを見た。母校は昨年ほどの活躍ではなかったが、シード権を獲得し、ブレックスは連勝した。気分は悪くない。ただ、いつものことだが、ちょっと後悔している。せめて合間にウォーキングぐらいすればよかった。夜は酒を飲み、またまた怠惰だ。少しぐらいは落ち着いて本でも読もうと書斎に引き上げ、適当なCDを選んで音量をしぼって流し、本を眺めた。
 今日の一枚は、デューク・ジョーダンの1960年録音盤『フライト・トゥ・ジョーダン』(Blue Note)である。音量をしぼって、ながら聴きしていたが、一曲目の① Flight To Jordan からそのスウィング感に顔を上げ、身体でリズムをとってしまった。② Starbrite のリリカルなピアノソロでまた目を上げ、③ Deacon Joe の美しい演奏でまた聴き入ってしまった。ながら聴きでも、ハッとさせられるのは、やはり音楽の力なのだろう。⑥ Si-Joya 、聴いていたら「危険な関係のブルース」ではないか。どうしてタイトルが違うのだろう。