WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

オフランプ

2011年04月30日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 309●

Pat Metheny

Offramp

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 3・11と3・7の大きな地震で2度も棚のCDが床に散乱し、今はとりあえず棚に戻してある状態だ。順番もカテゴリーも何もかもバラバラだ。おかげで聴きたいCDを探すのがたいへんだ。CDがバラバラなためだろうか、あるいは頭の中がいまだに真っ白なためだろうか、不思議な事に、さて何を聴こうかと考えてみても、適当な作品が思い浮かばない。聴きたい作品を思い浮かべる契機がないのだ。しかし今日は幸いなことに、「よく読むブログ」の土佐のオヤジさんがこのアルバムを取り上げた文章を読み、ああこれを聴きたいと思い当たった。

     *     *     *     *

 パット・メセニー・グループの1981年録音作品『オフランプ』、おそらくは、パットの作品の中で私が最もよく聴いたものだと思う。学生時代にリアルタイムで聴きこみ、就職してクルマを買ってからは何度となくカーステレオで聴いた。今でもこのアルバムを聴くと、音の向こう側に、その頃の情景が浮かんでくる。安いヘッドホンステレオでこのアルバムを聴きながら歩いた深夜の世田谷公園や、名古屋から下呂温泉に向かう国道21号線沿線の風景である。

 僚友ライル・メイズとともに展開する「ついておいで」の泣きのフレーズや、「ジェイムス」の疾走感がたまらない。周知のように、パット・メセニーはこれ以後、音楽的にもサウンド的にもめざましい発展を遂げていくわけだが、この時代の彼の素朴な音楽的感性は、現在にあっても、私の心と身体に、ゆっくりと、そして深くしみこんでくる。


Sweet Baby James

2011年04月25日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 308●

James Taylor

Sweet Baby James

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 夜中に目を覚まし、眠れなくなってしまった。波の音がする。最近、波の音が妙に大きい。大津波で松林や家々が流されてしまい。さえぎるものが何もなくなってしまったのだ。だいぶ地盤が下がり、海が以前よりかなりまじかになった。ちょっとした高台に上がればすぐに海が見える。この見晴らしのよさは何だろう。大昔はこんな風だったんだろうか。潮騒の音も、大津波の前と後ではだいぶ印象の違うものになってしまった。

     *     *     *

 JTことジェームス・テイラーの1970年作品、『スウィート・ベイビー・ジェイムス』。CDで買ったのはつい半年ほど前のこと(大津波の前だ!)。以前は、ずっとカセットテープで聴いていた。JTの優しさに満ちた声はいい。心が落ち着く。カントリーやブルースの影響を強く感じさせるサウンドは、私の音楽的嗜好の根っこの部分をくすぐるらしく、受け入れやすい。こんな夜には最適の一枚かもしれない。

 CDで聴いて感じるのは、格段に音がよくなったということだ。ギブソンのアコーステックギターの響きが生々しい。古いアルバムだが、できれば質の良いオーディオセットで聴きたい一枚である。

 外が明るくなってきた。どれ、もう一度、ベッドに入ってやすもうか。


ロリンズのWHAT'S NEW

2011年04月24日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 307●

Sonny Rollins

What's New

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 とにかく楽しいアルバムである。リズムに身体を委ねるだけで、とにかく楽しい気分になれる。ソニー・ロリンズの1962年録音盤『ホワッツ・ニュー』である。アルバムジャケットに、brings to jazz a new rhythm from South America と記されているように、ロリンズがその音楽的ルーツののひとつである「カリプソ」のリズムをジャズに取り入れた作品である。「カリプソ」は、カリブ海に浮かぶ島々、特にトリニダード・トバゴのカーニバルで発達した音楽ジャンルであり、レゲエのルーツの1つともいわれる。リズムは4分の2拍子だ。その「カリプソ」のリズムの中、ロリンズはただ自由奔放にテナーを吹きまくる。その潔さと洪水のように溢れ出るメロディーにはただ脱帽するのみだ。ラテン系のリズムの中で、やはりこれはジャズなのだと思わせるようなテイストを付け加えているのはやはり、ジム・ホールのギターだろう。時に、ロリンズの「ラテン系」にしっかりと付き合いながら、オカズやソロではしっかりジャージーなプレイをする。ジム・ホールのソロでほっとしてしまうのは、やはり私が保守的だということなのだろうか。

 人間は暗く重い状況の中でも身体を動かすことでハッピーな気分になれることがある。もちろん、それで問題が解決するわけではないが、それが生きる《元気》となることはあるだろう。《心》と身体はつながっているのだということを再認識させてくれるような一枚である。


大津波の現場に立つ(4)

2011年04月23日 | 大津波の現場から

 私の住む三陸地方では、昔から津波の怖さについては家族や学校で繰り返し聞かされてきた。私なども祖父母や両親から三陸津波やチリ地震津波の経験談をしつこいと思うほど聞かされたものだ。だから、我々は津波に対するあるイメージをもち、地震があったら(それがたとえ地球の裏側であっても)、津波に警戒し、高台への避難を考えることが習慣になっている。実際、そのために助かった人は今回も大勢いたはずだ。しかし、そのことで逆に犠牲になった人たちもいたことを忘れてはならない。津波に対するイメージや対策の多くが、「チリ地震津波」をモデルにしていたのだ。私の街もそうだが、今回被害の多かった宮城県南三陸町(志津川)や岩手県陸前高田市などは街のいたるところに、「チリ地震津波到達線」のような標識があり、チリ地震津波を基準にした防災対策がとられていたのだ。この場所はチリ地震津波の時も水はこなかったから大丈夫だ、といって避難せず、犠牲になった人たちの話をいくつも聞く。

 私の職場の仲間の場合もそうだ。あの地震の2日前にちょっと大きな地震があり、津波注意報がでた。私は何気なく、「君の家も海の側だから危ないんじゃないの」といったのだが、「大丈夫、ああ見えても私の家は高台で、チリ地震津波も来なかったんですよ。地区の避難区域にもなっているんですよ。」と彼は答えた。もちろん私はそうなのかとだけ思い、何となく納得してしまった。2日後の大地震で彼の家族は避難せず、彼の両親と奥さん、そしてまだ幼い三男が流された。奥さんは何とか助かったが、両親と子どもはそのままである。家も跡形もなく流されてしまった。

     *     *     *     *

 さて、今回は、O地区である。ガソリン不足の中、長男とともに自転車でこの場所を訪れたのは津波から3日後のことだっとた。到着したのは夕方で、辺りはもう薄暗くなっていた。すべてが流され何も無い荒野の中に、日本一海岸に近い駅として売り出していた建物だけが無残な姿で残っていた。夏には多くの海水浴客を集めてにぎわった海岸は、砂浜も松林もほとんど失われ、へし折られた松の木々だけがただ転がっていた。

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(写真はクリックすると拡大されます)

 後日、再びこの場所を訪れてみると、そこは「更地」といってもよいほどの状態だった。軒を連ねた家々も、旅館も民宿も何も無かった。遠くに、建物だけ残った旅館が見える。中はもちろんめちゃめちゃだ。

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 海水浴客はもちろん、地元の商売人や高校生たちの足を支えた鉄道は、この沿線はどこも壊滅である。本当に復旧するのだろうか。

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満月の夕

2011年04月17日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 306●

酒井俊 

満月の夕(single version)

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 やはり、どうしても聴きたくなってしまった。まだ早い。やめておこうと何度か思ったが、この曲を聴きたいという衝動はどうしても抑えられなかった。

     *     *     *

風が吹く港の方から  焼けあとを包むようにおどす

悲しくてすべてを笑う  乾く冬の夕べ

時を越え国境線から  幾千里のがれきの町に立つ
この胸の振り子を鳴らす  今を刻むため

飼い主をなくした柴が  同朋とじゃれながら道をゆく
解き放たれすべてを笑う  乾く冬の夕べ

ヤサホーヤうたがきこえる  眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ焚き火を囲む  吐く息の白さが踊る
解き放ちていのちで笑え  満月の夕べ

星が降る 満月が笑う  焼けあとを包むようにおどす風
解き放たれすべてを笑う  乾く冬の夕べ

ヤサホーヤうたがきこえる  眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ焚き火を囲む  吐く息の白さが踊る
解き放ちていのちで笑え  満月の夕べ

     *     *     *

 「満月の夕」は、1995年の阪神・淡路大震災の惨状と復興へ向き合おうとする被災地の人々の姿を歌った歌であり、ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬とヒートウェイヴの山口洋によって作られた。私は、地元のジャズ喫茶で時々行われるライブを見ていた経緯から、歌手・酒井俊がカヴァーしたものでこの曲を知った。今でも、よく聴くのは酒井のものである。ソウル・フラワー・ユニオンとヒートウェイヴのものでは、若干歌詞が違っており、それぞれ賛否があるだろう。酒井の演奏では、以前も記したように、アルバム「四丁目の犬」に収録されたものを最も好むが、2003年に発表されたこのシングルヴァージョンも悪くはない。全体的にサウンドが洗練され、その意味では生々しさや荒々しいさが影を潜めてしまっているが、その分良くも悪くも耳ざわりの良いものになっている。ただそんな中でも、酒井俊の歌は圧倒的な迫力を感じさせる。さすがである。

 もっと概念的な歌だと思っていた。大震災という状況を背景に、人間の哀しみや優しさや自由や解放を歌ったものだと考えていた。大津波を経験し、この歌はもっと生々しい歌だと思った。例えば、「解き放ちていのちで笑え」という歌詞の「いのち」は、生命の根源のようなものかと考えていたが、生命そのものではないかと考えるようになった。「ヤサホーヤ」と歌い踊るのは、解放を表すのではなく、そうしなければ自分を保てないからそうするのであって、その中から原初的な解放の感覚がかすかに見え隠れするのではないか、と考えるようになった。

 どうしようもない現実に身もだえしながらただ立ち尽くし、すべてを失うことによって解放され、その哀しみの中で、ほんの一瞬解き放たれる。そんな瞬間に言葉の力が触れることができた、そんな歌詞なのだと思う。

 阪神大震災の日の夜は、満月だったという。そういえば、今夜も満月だ。私の街は、今夜、月が明るい。


大津波の現場に立つ(3)

2011年04月16日 | 大津波の現場から

 M地区である。私の親戚の家も流された。叔母の話によると、大津波警報の放送で避難を促され、必死の思いで高台にある神社の階段を駆け上り、振り向くと、もうそこには自分の家は無かったとのことだ。逃げるのが数分遅ければ、叔母も流されてしまったかも知れない。

 ガソリン不足の中、長男とともに自転車でこの場所を訪れたのは大津波の三日後だった。衝撃を受けた。《壊滅》とはこのことをいうのかと思った。街がひとつ完全に消えてしまったといっていい状況だった。

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 数年前に亡くなった叔父がやっとの思いで建てた自慢の家は、基礎部分を残してきれいさっぱり消滅していた。家がどこに流されたのか、未だにわからない。

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 粉々になってしまった電信柱が津波のパワーを物語る。イカの塩辛で全国的に知られる企業の工場も壊滅的な打撃を受けた。(これは片づけが進んだ現在の様子)

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 線路も車も工場もめちゃめちゃである。叔母が逃げ込んだという神社だけが何事もなかったかのように背後で被災現場をながめていた。(これも現在の様子)

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(写真はクリックすると拡大されます)

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(神社の写真は片付けが進んだ現在の様子)


大津波の現場に立つ(2)

2011年04月15日 | 大津波の現場から

 S地区である。私の生まれ育った場所だ。高校生ぐらいまで生活をした場所だ。街全体が火災に見舞われた。湾の入り口にある石油コンビナートが地震と津波で崩壊して重油が海に流出・引火し、火のついた津波が湾の一番奥にあるこの地区を襲ったのだ。避難場所で長く不安な一夜を過ごした震災の日の夜、携帯電話のワンセグTVでこの街が炎上する映像を見て、大変なことが起こっているのだということを認識した。それが私が生まれ育ったこの街だと知ったのは、数日後のことだった。

 ガソリン不足の中、やっとこの街を訪れたのは、大津波から約一週間後のことである。まだ、街の奥深くまでは入れず、高台から町全体を見渡した。

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 町全体に焦げ臭さと重油の臭いが立ち込めていた。大小の船が何艘も陸に打ち上げられていた。

 私が街の奥深くに立ち入ったのは、震災から一ヶ月も経過してからである。自衛隊や消防隊らのおかげで、応急的な道が整備され、瓦礫の撤去も始められていた。

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 火災の跡は今も生々しい。

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 かつての私の家の側にあった缶詰工場も大破していた。かつて住んでいた場所はこの奥にあるのだが、もうこれ以上は進めなかった。

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 街を縦断する国道も大きな船によって通行不能だ。何艘もの漁船が打ち上げられていた。

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 言葉を失い、そこに立ちつくすのみだった。幼い頃遊んだ懐かしい路地はもうそこにはなかった。こんちゃんちも、とおるちゃんちも、あきらちゃんちも、そこにはなかった……。否、薄っぺらい感傷にひたっている場合ではない。そこには人々の生活があったのだ。一体、どれぐらいの人々が犠牲になり、家を失ったのか、見当もつかない。この街に住んでいた同級生たちの安否は今でもはっきりはわからない。

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 自衛隊の人たちによる行方不明者の捜索は今でも続いている。 私には、「ありがとうございます」と声をかけるしか出来なかった。


大津波の現場に立つ(1)

2011年04月13日 | 大津波の現場から

 腐敗物の海洋投棄が始まったせいか、ここ数日、あの悪臭が影を潜めている。このままなくなってくれればよいのだが……。電気も水道も復旧し、瓦礫の撤去も少しずつだが進んでおり、私のような「在宅」の者は、「日常」を取り戻しつつある。避難所暮らしの人たちには申し訳ないが、落ち着いて音楽を聴ける状況にもなってきている。

 福島・茨城沖の地震の頻発が心配だ。昨夜も大きな地震があったような気がした。本当にあったのだろうか。よくわからない。最近、地震の夢を見るのかもしれない。深夜に地震で目を覚ますことしばしばだが、本当にあったのかどうかわからなくなることがある。夢のような気もするのだ。夢か現か判断がつかない。こんな状況で、デカルトの夢の話などを思い出してしまう私は、やはり震災のリアリティーがないのだろう。

 幸か不幸か、たまたま所用で海から比較的遠い地域にいた私は、あの大津波を見ていない。多くの人たちが避難していることを知り、避難所になっている中学校に子どもたちを捜しにいって、はじめて津波のことを知ったのだった。避難所で長く不安な一夜を過ごし、翌日まだ避難命令の続いている中、こっそり被災現場に侵入した私は、津波の現実を目の当たりにして愕然とした。あまりに変わってしまった風景に足が震えた。そこにあったはずの家々も道路も、美しい砂浜も、緑の松原も、すべて消え去ってしまっていた。そして時間の経過とともに、返ってこない人たちがいることがわかってきた。その中には、私とかかわりのある人たちもいた。

 だから私には震災についての大きな衝撃はあるが、津波そのものに対するリアリティーがない。ずっと後で、停電がおわってから、You Tube などで津波の映像を見たのだが、作り物のようにしか思えない。そこにあるはずの、太く大きな轟くような音や、温度や臭いの感覚がないのだ。生死を分けるような恐怖や海水が肌に触れる感覚ももちろんない。津波の翌日見た被災地の信じられない現実と、You Tubeの映像とが、自分の中できちんとつながって整理されないのだ。だからだろうか。私は時間が空くとできるだけ自分の周りの被災地の状況を見ておこうと考え、実際そうしてきた。最初は、津波というものに対する単純な興味もあったと思う。けれども、それは次第に苦痛な作業になっていった。どこを見ても同じなのだ。どこを見ても瓦礫の風景が際限なく続くだけだ。そこには希望というものがない。

 これから何回かにわけ、いくつかの写真を掲載しようと思う。すべて私が携帯電話やビデオカメラの撮影機能で撮ったものだ。メディアの流す衝撃的な映像を見た人は、もはやこの程度で驚きはしないかも知れない。けれども、これらはまぎれもなく私自身が目撃したものであり、そのたびに足が振るえ、恐怖におののいた風景である。そこには写真だけでは到底伝えきれない、温度や臭いやそれらすべてが醸し出す独特の皮膚感覚があった。それが、この震災の、私のとってのリアルだ。

 今回は、津波の翌日、私の住むH地区でとった写真だ。

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 全漁連の建物だけが残っているが、それも中はめちゃめちゃである。

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 海水の水溜りがいたるところにできている。家々が軒をつらねていた面影すらなく、瓦礫の風景が一面に続く。

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 遠くに地元の高校が見える。4階まで津波は押し寄せ、中には何も残っていないとのことだ。


悪臭 ~メディアが伝えない震災現場のもうひとつの現実~

2011年04月10日 | 大津波の現場から

 震災から1ヶ月が過ぎ、私の周りでも少しずつだが生活が落ち着いてきている。もちろん、家族や家を失った人にとってその現実に何の変わりもないが、全国の善意のおかげで多くの物資が集まり、避難所の生活も物質的には軌道にのっている。我々在宅者も電気・水道が復旧し、日常の生活を取り戻しつつある。ガソリン不足もかなり解消され、自衛隊などのおかげで道路も応急的な復旧がなされている。また、瓦礫が続く風景に変わりはないが、震災直後に比べれば瓦礫の撤去作業が進んできていることがわかる。

 地震や津波の惨状をはじめ、被災者たちの生活などについては、多くのマスコミが伝えるとおりであり、その内容自体には大きな誤りはないと思う。ただ、メディアの性質上、報道されにくい現実もある。それは例えば、以前少し触れた災害現場での略奪行為や倒壊家屋等から金品の物色・窃盗行為である。また、災害現場における「悪臭」の問題もそうだ。三陸海岸には多くの漁業の基地があり、そのため冷凍会社も数多くあったが、今回の津波でそれらが破壊され、冷凍していた魚や釣り餌が流出してしまったのである。これらの冷凍物はものすごい量にのぼり、災害現場は魚や釣り餌だらけだ。それらが腐敗して辺りにものすごい悪臭を撒き散らしているわけでだが、その匂いは日増しに強まっている気がする。災害現場はもちろんのこと、災害現場から1km程度の距離にある私の自宅でも、戸外に出るのがつらいほど強烈な匂いであり、これにはホトホトまいっている。吐き気をもよおすほど強烈な悪臭である。

 幸い今日はいつもより異臭が弱いようだ。天気も良いので、しばらくぶりに窓をあけ、ビル・エヴァンスを聴きながら家の片づけだ。午後からは時間が空きそうなので、また災害現場の視察にいってみようかと思っている。歴史学を学んだものの一人として、このような事件の教訓はきちんと後世に伝えなければならないと思っている。

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これはマグロですかね。


また地震だ!

2011年04月08日 | 大津波の現場から

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 昨日の深夜、また大きな地震があった。津波警報もでて、夜中に高台に避難したため、今日は一日寝不足気味だった。余震にはもう慣れっこだが、昨日のやつは3・11を思い出させるような大きな地震だった。2階のベットで眠りにつく寸前だったのだが、家がこのまま倒壊してしまうんじゃないかと思うほどだった。重いタンスや本棚が1m程もずれ動き、食器棚のグラスは割れ、本やCDが棚から落ちて床に散乱している有様である。(ただ、3・11の地震の際は棚の書籍・CDが一つ残らず下りたが、昨日のは少しだが棚から落ちなかったものもあり、その意味では地震の規模は3・11程ではなかったのかも知れない)

 ついこの間、やっとの思いで3・11の後片付けが終わったと思ったばかりだったのに、またこれを片付けるのかと思うと絶望的な気分になる。ところで、CDのプラスチックケースはなぜにこうも壊れ易いのだろうとしみじみ思う。3・11と昨日の地震でCDケースの多くが破損してしまった。小さな破損で済んだものもあるが、大きなひびがはいったり、ケース自体が割れてしまったりしたものも多く、ちょっとショックだ。家族や家を失った人も多い中、CDケースの破損を嘆くなど自分のせこさが恥ずかしいく大きな声でいうのが憚られるが、何か自分の世界のある種の完全性が損なわれてしまったような気がして、落ち着きが悪いものだ。

 余震には慣れっこと書いたが、一方で地震に対して過敏になっている部分もある。地震の前兆を認識でき、少しの揺れでは驚かなくなった反面(震度4程度ではどうってことないという感覚がある)、ベットに寝ていると、ずっと揺れているような気がして、落ち着いて眠れない。一晩に何度も起きてしまう始末である。

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レコード一枚夢残す……

2011年04月02日 | 大津波の現場から

 昨日は午後から時間が空いたので、ちょっと思い立って岩手は陸前高田市まで行ってみた。突然思い立ったのは、昨日の『河北新報』にジャズ喫茶「h.イマジン」店主の冨山勝敏さん(69)についての記事が載っていたことがきっかけだ。新聞は「レコード一枚夢残す」「心癒やし集える場必ず」という見出しで、瓦礫の中から拾った一枚のレコードをもって立ち尽くす富山さんの写真が掲載されていた。この街の状況をこの目で見ておきたくなったのだ。

 天気がよく、青い空と海が溶け合い、透き通るように美しかった。この美しい海が我々に暴威を振るったとは信じられない。陸前高田市は、報道の通り、街がひとつ消滅したといっていい程の壊滅的状況だった。予想どうりだ。予想以上とは書かない。震災以来、私の街の周辺のいろいろな場所を見たが、もうどこも同じなのだ。瓦礫と泥と悪臭。場所によっては焼け跡。それだけだ。けれども、そこにはやはり人間がいる。この狭い土地にへばりついて生活してきた人々がいる。復興を願う人々がいる。私はそれがいとおしい。

 陸前高田市にはかつて日本ジャズ専門喫茶「ジョニー」があり、私も何度も足を運んだものだ。「ジョニー」が盛岡に移転して以降、この街に足を運ぶ頻度もめっきり減っていたのだが、知らないうちにこんなジャズ喫茶が出来ていたのですね。新聞によると、冨山さんは東京の大手ホテルの会計システム責任者やベンチャー企業の役人などを経て、2003年岩手・大船渡に店を開いたそうだが、昨年2月に火事で全焼、昨年12月にこの陸前高田市に移り、再出発をしたばかりだったという。店は旧高田町役場庁舎を改装した、「柔らかい線と赤の外壁、広いテラス、欧風の内装」の建物だったとのこと。このジャズ喫茶を訪問したことがなかったことが、今となっては何としても悔やまれる。けれど、冨山さんは、「昔の建物だから土台は大丈夫だ。これが私の元手。木材を集めて堀っ立て小屋を建て、そこからまた始めるよ」といっており、再起の折には是非ともいってみたい。「東京にはなかった人の情が何よりの財産になった。しばらく、みんな苦労の日々が続く。心を癒しに集える場をつくるのが、次の仕事だ」という冨山さんの言葉に救われる。

 昨夜、知人の家が火事になった。全焼である。電気が通ったその日だったという。漏電ではないかという噂だ。そういえば、最近火事が多い。最近といえば、余震が活発化している。ここ数日、毎日のように震度4や5クラスの揺れがある。揺れ方や揺れの方向が前とは変わってきているような気がするのだが……。心配だ。

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