先日発見したシングルレコード(45回転)の中にジョン・レノンの「イマジン」があった。なぜあるのかよくわからない。買ったような記憶もあるのだが、「イマジン」はLPで聞いていたような気がする。事実同名のLPを所有している。ただ、シングル版のこのジャケットはかすかに記憶にあり、買ったような気がしないでもない。いずれにせよ、シングル版の「イマジン」は結構めずらしいのではないだろうか。
かつてジョン・レノンをすごく好きだった。ご多分に漏れず、尊敬あるいは崇拝していたといってもいい。「思想」的なものとか、「哲学」的なものとか、音楽以外の過剰な何かに夢中だったのだと思う。ジョン・レノンではなく、「ジョン」と呼んでいた程だ。彼がニューヨークのダコダアパートの前でマーク・デヒッド・チャップマンに殺された時のことは今でも鮮明に覚えているし、彼の死の翌年、東京の九段会館で行われた追悼集会では、数千人の聴衆を前にスピーチもした。けれどもそれは僕だけではなかったはずだ。ジョン・レノンはlove and peaceのことばとともに、平和運動や社会運動においてそれなりの影響力をもつていたのだ。
今はどうだろう。もちろん好きだ。けれども尊敬や崇拝はしてはいない。ひとりのミュージシャンとして、すごくいい曲もあるといった位置づけだ。例えは、「ジェラス・ガイ」は好きだ。「スタンド・バイ・ミー」はベン・E・キングのものよりすぐれていると思う。最後のアルバム『ダブル・ファンタジー』もオノヨーコさんの歌がなければとてもいい作品だと思う。いまでも時々、すごく聞きたくなることがある。しかし、崇拝はしていない。哲学的・思想的に尊敬すべき人物は他にたくさん存在する。ジョン・レノンのことばは、思想や哲学と呼ばれうるものではない。もちろん文学的でもない。
それがまっとうな聞き方だろう。ジョン・レノンが死んだ時、世界が大きく変わってしまうのではないかと思ったが、セックス・ピストルズのジョン・ライドンは「何も変わりはしないさ、ひとりのミュージシャンが死んだだけだ」と語った。その通りだった。ジョン・レノンが死んでも次の日の朝はやってきたし、その次の日の朝もやってきた。そうして僕たちは大人になったのだ。あの時代の、思春期のあの時期、ジョン・レノンのような存在が、きっと僕たちには必要だったのだろう。
あのころ、ジョン・レノンへの崇拝のあまり、ポール・マッカートニーをあまり評価しなかった。でも本当は結構すきだったのだ。『バンド・オン・ザ・ラン』はロック史に残るいい作品だ。ある意味では『ジョンの魂』以上にだ。最近、もう一度聞いてみたくなって『バンド・オン・ザ・ラン』をCDでを購入した。やっばりいい作品だった。名作だ。
発見されたシングルレコード「イマジン」にはこのようなコピーが記されている。
これがジョン・レノンの真実
これが名作
これを聞かずしてレノンを語るべからず
やはり、ちょっといいすぎだと思う。確かにいい作品であるが、いいすぎである。僕はマスコミやコマーシャルに踊らされていたのだなとも今は思う。
けれども、ときどき(毎年12月あたりに)、ジョン・レノンの曲をを聞きたくなるのはどうしてだろうか。過ぎ去った日々へのノスタルジーなのだろうか。あるいは、失ってしまったアドレッセンスへのレクイエムなのだろうか。