WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

眠れちゃった

2021年10月02日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 549◎
Lee Ritenour
Dreamcatcher
 
 入院中である。
 日曜日に退院できる見通しとなった。ステロイドの副作用で、入院中は不眠に悩まされた。けれども、kindleでの読書を知り、不眠の夜は豊饒な夜へと変わった。何を読み、何に思いを巡らせるかが楽しみな夜に変わった。そんな夜もあと2日となった昨夜、ベッドに横たわり目をつぶった。いつもの行動である。ところが、そのまま深く眠ってしまったのである。薬疹がひどく、数日前から眠剤を使用していないにも関わらずだ。ちょっと、損した気分だ。昨夜は、ジェリー・ケーガン『「死」とは何か』を読もうと楽しみにしていたのだ。深夜2時間程目を覚まして読んだが、昨夜は目をつぶると、結局また深く眠ってしまった。不思議なことである。

 今日の一枚は、リー・リトナーの2020年リリース盤『ドリーム・キャッチャー』である。意外だが、彼のキャリアの中で、初のソロギターアルバムとのことだ。コロナ禍だからこそ制作されたアルバムなのだろう。入院中ということで、今日もapple musicで聴いている。ソロギターアルバムとはいっても、オーバー・ダビングにより、複数のギターが使用されている。けれども、小うるさくない。シンプルさを失わず、静謐な趣を湛えたサウンドだ。リー・リトナーという人は、ずっと若い頃、数枚聴いたことがあるきりで、以来聴いたことがなかった。このアルバムは悪くない。真夜中の、kindleの読書の休憩に、是非とも聴きたい一枚だと思う。

Kindleはなかなかいい

2021年09月19日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 544◎
Larry Carlton
Alone / But Never Alone
 入院中である。今回は廉価なkindleを購入して病室にもちこんだ。入院にはkindleはなかなかいい。病室に居ながらにして本を手に入れることができる。実際使ってみてわかったことだが、本を読むことに集中できるのだ。読書を妨げるような余計な機能が付属していないこともあるが、文字の大きさを変えることでページの字数が少なくなるところがいい。少ない字数のページを次々めくっていくことで、いつのまにか読書が進んでいく。本を所有するということから自由になれるところもいい。物欲から解放され、形のない本の内容だけを求めるようになる。入院してから、日本近代史の本を一冊、中世史の本を二冊読み、昨日は村田沙耶香『コンビニ人間』を読んだ。今日は、しばらくぶりにカート・ヴォネガットの作品を何冊か読み返そうと思い立ち、とりあえず『スローターハウス5』と『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』をダウンロードした。余裕があったら、村上春樹訳のレイモンド・チャンドラーの作品も読んでみたいなどと目論んでいる。

 今日の一枚は、ラリー・カールトンの1986年作品、『アローン/バット・ネヴァー・アローン』である。自宅のレコード棚のどこかに、きっと今も眠っていることだろう。Apple musicで聴いて、身体にしみ込んできた。そんな意識はなかったのだが、相当聴き込んだのかもしれない。フレーズの一つ一つが、サウンドの細部の濃淡が、私の中で鮮やかに蘇った。335を封印し、全編アコースティック・ギターを使ったそのサウンドは、優しい、乾いた哀感に溢れている。ハードで苦しいこともあったその時代の私を癒したそのサウンドが、今、病室の私を癒してくれる。
 退院したら、その秀逸なジャケットを玄関ホールに飾ろうかと考えた。

今日からまたApple Music生活

2021年09月14日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 541◎
Kenny Burrell
At The Five Spot Cafe
 昨日、入院した。ステロイドパルス療法を行うための予定された入院である。入院するのは、7月末から3度目である。そんな訳で、今日からまたApple  Music生活である。今回は、これまでの反省から、レンタルで無制限のポケットwifiを用意した。Apple  Musicもいちいちデバイスに保存しなくても、思う存分聴けるという訳だ。
 前回の退院から18日間自宅で生活した。仕事にも復帰し、これまでのたまっていた事務的なことを片付け、これからのことを同僚に任せられるように段取りをつけた。毎日残業だったが、我ながらテキパキとよく働いたと思う。仕事というものは、一旦復帰すると次々にやるべきことができ、なかなか抜けられなくなるものだ。病気の進行もやや早いかもしれないということで、思い切って入院に踏み切った。
 今日の一枚は、『ファイブスポットのケニー・バレル』である。1959年録音のライブ盤だ。こういうケニー・バレルは好きだ。しばらくぶりに聴いたが、1曲目からノリノリだ。あんまり気もちよくて、思わず顔がほころんでくる。身体がというより、細胞が音楽に同化している感じなのだ。アート・ブレイキーのドラムが、いい感じのノリを作り出している。
 最近、ジャズギターを学びたいと思うようになった。若い頃、結構まじめにギターを弾いていた。ブルースギタリストを自認していた。ジャズのイデオムはわかるようでわからない。ある意味単純なブルースに比べると、かなり難しそうだ。古いエレクトリックギターもあるが、とりあえずは先日買ったエレガットで弾いてみたい(→こちら)。年齢とともに飽きやすくなってきておりいつまで続くかわからないが、軽い気持ちで練習したいと思っている。ケニー・バレルは、真似してみたいギタリストの一人だ。
 [パーソネル]
Tina Brooks (ts, 1~4)
Kenny Burrell (g)
Bobby Timmons (p, 1~4)
Roland Hanna (p, 5~8)
Ben Tucker (b)
Art Blakey (ds)

バスケ女子日本代表が決勝Tへ

2021年08月02日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 524◎
小関佳宏
久石譲ギター・ソロ・アレン
 明日の手術を前に、いろいろな説明を受けた。お陰で、バスケ女子日本代表のナイジェリア戦の主要部分を見ることが出来なかった。接戦だった序盤は見たが、帰ってくるとすでに20点以上リードしていた。
 それにしても見事だ。ディフェンスの連携ミスがやや目立つが、長身プレーヤーの渡嘉敷を欠き、サイズでの圧倒的な劣勢を、インサイドプレーヤーの身体を張った守りと、アウトサイドプレーヤーのタイトなディフェンス、そして驚異的な3点シュートで対抗していく。オフェンスにおける連携プレーも随所に見られ、この点は男子チームと対照的である。応援したくなるバスケットである。
 次のゲームは明後日のようだ。手術後の回復が順調であれば、見れるかもしれない。

 今日の一枚は、仙台出身のクラシックギタリスト、小関佳宏の2014年作品、『久石譲ギター・ソロ・アレンジ』である。知らない人だった。入院という状況が無ければ、聴くことも無かったかもしれない。ベッドの上でアップルミュージックをいじっていて目に止まったのだった。
 このアルバムが目に止まったのは、最近またギターを弾くようになったからだ。意外なことだが、ガットギターの音色に魅了されている。若い頃はエレクトリックギターなどスチール弦一辺倒で、ナイロン弦など眼中になかったが、最近はクラシックギター、といっても例のジャパニーズ・ビンテージのダイナミックギターにナイロン弦を張って弾いている。ソロギターを弾くのだ。ソロギターで1番弦を単音で弾く場合、スチール弦だと響きが貧相に思える。やはり、ナイロン弦の優しくふくよかな響きがいい。
 小関という人のこのアルバムには、ナイロン弦の魅力がいっぱいに詰まっている。美しく、表現力豊かな響きである。こんなに豊かな音が出るのかと感嘆することもしばしばである。
 退院したら、新しいガットギターを手に入れたいものだ。



バスケ男子日本代表敗れる

2021年08月02日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 523◎
Keith Jarrett & Charlie Haden
Last Dance
  入院4日目である。明日はいよいよ検査のための開腹手術である。今日はいろいろと手術前の予定があるようだ。初めて身体にメスを入れるので、もちろん恐怖感はある。
 昨日、オリンピックのバスケ日本代表のゲームを見た。史上最強の代表といわれ、強化試合でも期待される結果を残していたので、一勝もできなかったのはやはり残念だ。
 全体としては、やはり、まだチームになっていない。バスケットになっていないのだと思った。突出した実力と自信をもつ八村、渡辺のNBA組が、個人能力で突撃と自爆を繰り返した。バスケットに向かおうとする姿勢は素晴らしいと思うが、それはやはりスタンドプレーなのだ。ボールが回らず、そこでボールが止まってしまった。
 相手のアルゼンチンのシュート力は凄かった。長身プレーヤーが次々とスリーポイントを決めた。これが、本気の世界レベルなのだと思った。富樫選手のサイズではまったく歯が立たなかった。すでにマッチアップしたそのままの状態でフリーなのだ。その意味では、HCのフリオ・ラマスの目指したサイズの大型化の方向性は正しいといえるのだろう。であれば、なぜ田中選手をガードにコンバートしたにもかかわらず、実際の試合で富樫選手のプレータイムを伸ばしたのか疑問が残る。
 オフェンスのシステムの中で個の力を発揮させるとともに、ディフェンスでは女子の代表のように、前からプレッシャーをかけるバスケットが見たかった。

 今日の一枚は、キース・ジャレットとチャーリー・ヘイデンの『ラスト・ダンス』でる。『ジャスミン』の続編のようだ。発表は2014年だが、録音は2007年だ。
 チャーリー・ヘイデンは、1990年代以降、優れたデュオアルバムを数多く録音したが、この作品もその一枚である。チャーリー・ヘイデンは、演奏の方向性を示し、コンセプトを明示するが、演奏ではあくまで脇役に徹してサウンドを支え、メインの演奏者の個性を引き出している。このアルバムでも、楽曲のイメージを抽出し、歌心溢れるアドリブに変換するキースの個性が全開である。とても聴きやすく、手術前のちょっとだけ不安な心を優しく包むような一枚である。




ガトーとヴァンガードを忘れていた!

2021年06月27日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 516◎
Lee Morgan
Sidewinder
 人の噂は『おかえりモネ』である。
 前回、「おかえりモネ」に出てくるジャズ喫茶はどこかという不毛な話題について記した(→こちら)。
 とりあえず、私の思い付きの結論を次のように記した。
結局、ベイシーを念頭に置きつつも、「エルヴィン」や「ジャキ」に、「コロポックル」のイメージを加味したものではないか、というのが私の結論である。
 ところが、記した後、頭に浮かんだのだ。番組では登米に存在することになっているが、気仙沼のジャズ喫茶の方がイメージが近いのではないか。気仙沼のジャズ喫茶のイメージを登米に設定したということは、十分にありうるのではないか。気仙沼のジャズ喫茶とは、かつてあった「ガトー」と、今でも細々と営業している「ヴァンガード」のことである。
 「ガトー」には、高校生の頃に行ったことがある。移転前だったように思う。ところが、そこで先生方と会い、「おまえら俺たちの憩いの場所を荒らすんじゃない」といわれ、足が遠のいた。大学生になってジャズに目覚め、帰省のたびに訪問するようになった。10回以上は行ったと思う。知的な雰囲気のある店だった。今はもうない。
 「ヴァンガード」の亡くなったマスターにはお世話になった。ライブがあるたび葉書をいただき、酒井俊や渋谷毅をはじめ、村田浩、大西順子、かれーどすこーぷ、平田王子など全部思い出せないほど多くの日本人の演奏を目撃した。外国人についても、ジェリー・ヴェモーラやジェフ・ヒットマンという無名のジャズマンからマル・ウォルドロンなどの歴史的な人物にいたるまで、いろいろな人の演奏を聴いた。自宅の火事や大津波での被災を乗り越えて、「ヴァンガード」は復活したが、マスターの昆野さんが2017年に亡くなり、今は常連客だった人2人が時間限定営業で続けている。

 今日の一枚は、リー・モーガンの1963年録音盤の『ザ・サイドワインダー』である。ジャズロックという言葉とともに大ヒットしたアルバムのようた。ジャズを聴きはじめたばかりの学生時代、よく聴いたアルバムである。けれども、何かしっくりこず、いま一つのれないアルバムだった。何度も聴いたのは、演奏を理解したかったからだ。教養的にジャズを聴いていたのだろう。ただ、8ビートのジャズというのは、聴き飽きするようで、そのうち聴かなくなってしまった。昨日聴いた『VOL.3』の隣にあったので、ちょっとかけてみたが、やはり何となくのれない。不完全燃焼である。私とは相性の良くないアルバムのようだ。ジョー・ヘンダーソンは若い頃から、流麗なソロを吹いていたことを確認できたので良かったが・・・。
 

おかえりモネのジャズ喫茶

2021年06月25日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 515◎
Lee Morgan
Vol.3
 人の噂は、「おかえりモネ」である。舞台は、気仙沼と登米。私は気仙沼、妻は登米の出身である。長男は登米で生まれて、気仙沼で育った。毎日、ビデオ録画して、夜に一杯やりながら見る始末である。
 ところで、気仙沼や登米のほんの一部のジャズフリークの間では、「おかえりモネ」に登場するジャズ喫茶のモデルはどこかが議論されているらしい。もちろん、あれは架空のジャズ喫茶であり、モデルを探すのは無意味化かもしれない。けれども、無意味と知りつつも、空疎な議論をしてみたくなる気持ちはよくわかる。
 「おかえりモネ」のジャズ喫茶の名は"Swifty"。一関の「ベイシー」を意識していることはわかる。「ベイシー」のマスター菅原さんの愛称が"Swifty"だからだ。けれども、モデルではなかろう。「おかえりモネ」のジャズ喫茶は、「ベイシー」のように広くはないようだ。店の雰囲気も、スピーカーも全然違う。「おかえりモネ」のジャズ喫茶は窓があって明るいが、「ベイシー」はそうではない。
 現在、登米にあるジャズ喫茶は、「エルヴィン」のみだが、これも違うだろう。店の広さは同じくらいだが、「エルヴィン」は暗く、アングラ的な雰囲気、というか汚い。スピーカーも無骨なアルテックである。「おかえりモネ」のジャズ喫茶とは雰囲気が正反対である。登米の隣町の栗原市若柳の「ジャキ」や「コロポックル」も候補にあがるだろう。「ジャキ」は店の規模は同じぐらいだが、蔵を改造した雰囲気に、「おかえりモネ」のジャズ喫茶の明るさはない。「コロポックル」は窓が多く、明るい雰囲気だ。眺めも良い。けれども、おかえりモネ」のジャズ喫茶より若干広いだろう。スピーカーもJBLのハイエンドDD67000である。
 結局、ベイシーを念頭に置きつつも、「エルヴィン」や「ジャキ」に、「コロポックル」のイメージを加味したものではないか、というのが私の結論である。

 「おかえりモネ」のお父さんがトランぺッターということなので、今日の一枚はリー・モーガンの1957年録音盤『VOL.3』である。ベニー・ゴルソンの「アイ・リメンバー・クリフォード」の名演で我々の胸に決定的な印象を残した名盤である。しばらくぶりに聴いたが、胸が震えた。名曲にして名演である。

今日もかつおが美味い

2021年06月12日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 512◎
Leon Russell
Leon Russell & The Shelter people
 先日も記した通り(→こちら)、今年はかつおが豊漁で価格も安く、味もいい。最近は、大葉とミョウガを刻んだものを上にのせ、ショウガ醤油で食べている。港町気仙沼生まれの私は、一週間毎日刺身でも全然構わないが、内陸部の登米出身の妻は頻繁にかつおを買ってくる私に辟易気味である。気仙沼と登米、「おかえりモネ」である。先週は妻に気を遣ってほとんどかつおは食べなかったが、それもそろそろ限界とばかりに、今日は帰りにかつおを買ってきた。妻も快く食べてくれた。
 今日の一枚は、レオン・ラッセルの1971年作品『レオン・ラッセル・アンド・シェルター・ピープル』である。レオン・ラッセルのセカンドアルバムだ。本当にいい作品だ。
 レオン・ラッセルは大好きだ。聴くたびに、ああ、やっぱり、私はレオン・ラッセルが好きだと思ってしまう。泥臭くて、人間的で、ずっと奥の、細胞の深いところまで届くブルージーなサウンドがいい。しかも、美しい。かつて「洋楽」という言い方があった。一番好きな洋楽は、と問われれば、迷うにきまっているし、一つになんか選べないに決まっている。けれども、レオン・ラッセルは間違いなくその候補にあがるだろう。おそらくは、一番最初に名前があがるかも知れない。私にとって、レオン・ラッセルはそういう存在だ。
 もういつの事か忘れてしまったが、だいぶ前に、ちょっと年老いたレオン・ラッセルのライブを見たことがある。おそらく、ブルーノート東京でのライブだったように思う。レオン・ラッセルは杖をついていたが、そのフィーリングは、往年の彼を彷彿させるのに十分だった。
 ①Stranger In A Strange Land 、一曲目からレオン・ラッセルの魅力全開である。

キース・ジャレット

2021年04月11日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 492◎
Keith Jarrett
Death And Flower
 ずっと心配している。キース・ジャレットのことだ。2018年に脳卒中を2回発症して麻痺状態となり、ピアノ演奏に復帰できる可能性は低いということだ。思えば、90年代に慢性疲労症候群を発症し、それを克服して復帰したばかりだった。けれども、キース・ジャレットの演奏の映像を見て、さもありなんと思ってしまう。精神を、エネルギーを集中し、一音一音を奏でているのだ。血管がはち切れそうだと思う。
 私は、キース・ジャレットが好きだ。アルバムも相当な枚数を所有している。何故好きなのかは、うまく整理がつかない。言語化できないのだ。ただ、ものすごい吸引力で引き付けられる。不可抗力といっていい。
 回復と健康を願いつつも、身勝手なことをいえば、音数は少なくていい、もう一度エクスタシーのピアノを聴かせてほしいと思う。

 今日の一枚は、キース・ジャレットの1974年録音盤、『愛と死の幻想』である。パーソネルは、
キース・ジャレット(p, ss, fl, per) 
デューイ・レッドマン(ts, per) 
チャーリー・ヘイデン(b) 
ポール・モチアン(ds, per) 
ギレルミ・フランコ(per) 
である。通称、《アメリカン・カルテットの作品である。学生時代、気が狂ったように聴いた。もう、40年も前のことだ。アメリカンなのに、深遠な作品だ。しばらくぶりに聴いたが、心がざわめき、思考がぐるぐるかき混ぜられ、想像力の翼が羽ばたくのを感じる。チャーリー・ヘイデンとのデュオ② 「祈り」、凄い。圧倒的にすごい。

発掘狂騒史③

2021年04月10日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 491◎
Kenny G
Gravity
 「発掘狂騒史①」(→こちら)と、「発掘狂騒史②」(→こちら)の続きである。
 旧石器捏造事件で捏造発覚に大きな役割を果たした、角張淳一君についての話だ。角張君とは同じ大学の史学科3組の同期だった。専攻も違い、親しい関係ではなかったが、顔と名前ははっきりと憶えている。卒業後のことは、上原善広『発掘狂騒史』と、同級生からの若干の伝聞によって知るのみである。角張君は同じクラスだったが、いろいろな事情で私より2歳年上だった。
 すでに、小田静夫や竹岡俊樹が藤村らの石器を批判する論文を発表していたが、考古学界からはほとんど無視されていた。角張君は、もともと藤村とは友人だったようだが、石器の発掘状況に疑問をもち、竹岡俊樹に相談、旧石器形式論の指導を受ける中で、捏造に確信をもつにいたった。友人と真実の間での葛藤、また発掘を請け負う遺跡調査会社の立場もあり、身を引き裂かれる思いをしながら、2000年7月に代表を務める発掘調査会社アルカのHPに「前期・中期旧石器発見物語は現代のおとぎ話か」と題する論文を発表する。この論文が、考古学界や考古ファンの間に静かな波紋となって広がった、と『発掘狂騒史』は記す。そうした中で、考古学に詳しい知人から電話で情報を受けた毎日新聞記者が動き、藤村が石器を埋めている決定的瞬間を映像で捕らえたのである。
 『発掘狂騒史』によれば、角張君は苦学の末、5~6年かけて大学院を出たものの、結局、博士論文は出さなかったという。一度は提出したのだが、「岩宿の前期旧石器」に触れた個所が、委員会で問題にされて駄目になったらしい。「岩宿の前期旧石器」とは、相澤忠洋や芹沢長介が発見した石器のことで、学界でもその真偽が問題視されていたが、角張君はそのほとんどを否定し、さらに1949年に杉原荘介が岩宿で発掘したハンドアックスさえも捏造の可能性があるなどとしたため却下されたらしい。角張君はこのとき、「教授が絶対というのが嫌でたまらない、議論は学生であっても平等であるべきなのに、考古学界はまるで白い巨塔だ」といって憚らなかったようだ。結局、角張君は学閥至上主義の考古学界に嫌気がさし、郷里で遺跡発掘調査会社を立ち上げたのだった。学問的な批判精神と厳密さを追究するまなざしをもっていたのだろう。

 今日の一枚は、ケニーGの『愛のめざめ』だ。1985年作品である。スムースジャズの快作である。本当に懐かしい。ジャズ的な演奏とはちょっと違うが、何を隠そう当時は結構聴いた。安物のAIWAのヘッドホンステレオにカセットテープを入れ、夜の渋谷の街を歩いた日々がよみがえるようだ。⑤ Japan はやはりいい曲である。今聴いても、心がちょっとざわめく。何十年も聴いていなかった作品であるが、カセットテープが目につき聴いてみた。貸しレコード屋で借りたLPをダビングしたものだ。このアルバムを聴いていた頃、馬場壇A遺跡から発見された「旧石器」にナウマンゾウの脂肪酸が付着していたことが大きな話題となっていた。数年後、高校教師となった私は、郷里宮城県のこの遺跡を授業で大きく取り上げていた。

地震でめちゃめちゃだ

2021年03月21日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 480◎
Rickie Lee Jones
Pop Pop
 昨日の地震は結構すごかった。ちょっとだけ、「3.11」を思い出した。私の書斎は、CDや本が棚から落ちてめちゃめちゃの状態だ(とはいっても「3.11」の時に比べれば3分の1程度か)。今日はほぼ一日中片付けだ。ちょうどよいと思って、ほとんど見ない書類関係をシュレッターにかけ廃棄した。おかげで書斎はしばらくぶりにすっきりした。しかし、「3.11」以来、大きな地震があるたびにCDが棚から落ち、そのたびにケースが破損していく。ストッパーを付けているのだが、大きな地震には効果はないようだ。大体、CDが増殖しすぎたのだ。こんなにあっても、実際よく聴くのは100~200枚程度だろう。根本的な解決策を模索する時期かもしれない。すべて電子データ化するとか、プラスチックケースを廃棄てファイルケースにするとか考えてみようか。しかし、とんでもない時間がかかりそうだ。いつか「終活」を考え始めたときには処理しなければならないだろう。
 今日の一枚は、リッキー・リー・ジョーンズの1991年作品『ポップ・ポップ』である。これはジャズである。参加ミュージシャンや取り上げられた楽曲のためではない。そのスピリットが正真正銘のジャズなのだ。そういえば、少し前に取り上げたリッキー・リー・ジョーンズのトム・ウェイツに関する言葉の中にもこんな一節があった(→こちら)。
私たちは同じ通りの周辺を歩いているの。私たち2人にとっては、主にジャズのためにこういう状況になったのだと思うわ。私たちは人生のジャズ側を歩いているのよ。 
 今、片付けの終わった書斎で聴いている。いいアルバムだ。


一風ラーメン

2020年12月14日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 448◎
Wynton Kelly
Piano
 ラーメンは好きだ。よく食べる。震災後、私の住む街のラーメン屋はかなり変動したと思う。地震や津波で、多かれ少なかれ、多くのラーメン屋が被害を受けた。もちろん懐かしい味を復活させてくれた店もあるが、そのまま廃業してしまった店、再建したが味が落ちてしまった店もある。また、若い世代により新陳代謝がはかられた店や、被災地貢献の名のもと、鳴り物入りで他の地域からやってきた店もある。鳴り物入りでやってきた店の中には、メディアに露出し、有名になった店も多い。けれども、実際に行ってみると、これが本当に美味いのかな、と首を傾げたくなる店もある。TVレポーターが絶賛し、観光客らで賑わっているのを見ると、被災地に来てくれた負い目も手伝って、なかなか本当のことを言えないものだ。あるラーメン屋は、都会で板前修業をした人が開いたということで有名になったが、私にはまったく美味しくなかった。ある時、職場の知人とそのラーメン屋の話になったとき、恐る恐る美味くなかったといってみると、その知人も「そうですよね。美味しくないですよね。」と大きな声で相槌を打ってくれたことがあった。やはり、「王様は裸だ」とはなかなか言い出しにくかったようだ。
 ここ10年ぐらい、私がよく行くラーメン屋は、「ラーメン・一風」という店だ。同じ市内といってもかなりはずれの方にあり、車で20分以上はかかるが、それでも月2回以上は行く。先週も土曜日に訪問したばかりだ。一見、昔ながらのしょうゆラーメンだが、味のバランスがきちんとしており、意外に奥行きがある。また食べたくなるラーメンだ。炭焼きのチャーシューは本当に美味い。私は必ず、一風ラーメンと半ライスを注文する。ほとんど浮気はしない。それで過不足ないのだ。
 もともと家族で働いている小さなラーメン屋だが、コロナ騒ぎで席を間引きして営業している。心配だ。それでも、昼食時には並んで待たなければならない状況だが、私にはちょっとぐらい待っても食べたいラーメンだ。

 今日の一枚は、ウィントン・ケリーの『ウィスパー・ノット』である。1958年の録音だ(Riverside)。『ウィスパー・ノット』は邦題である。ジャケットに小さな文字で「PIANO」と記されているが、これが本当のタイトルらしい。Wynton KellyがPianoだということを示す表記かと思っていたが、とするとタイトルは何なのだろう。「WYNTON KELLY」がタイトルなのだろうかなどと考えてしまう。まったく紛らわしい表記の仕方である。
 昔から好きな一枚である。LPも持っていたがだいぶ前にCDも購入した。ちなみに同じくケリーの『ケリー・ブルー』はLPは持っているが、CDは未だに購入していない。多分これからも買わないだろう。ウィントン・ケリーのピアノは、音が軽く、ノリが軽妙なところがいい。ファンキーだが、必要以上に粘っこくないのだ。このアルバムの聴きどころは、ケニー・バレルのギターとの掛け合いである。いや掛け合いというより、協力関係といったほうがいいだろうか。ウィントン・ケリーのピアノにケニー・バレルが絶妙のアクセントをつけ、ケニー・バレルのギターソロにはウィントン・ケリーがお洒落で哀歓を湛えたバッキングをするのだ。
 ①Whisper Not、④Strong Man が私の大のお気に入りである。ウィントン・ケリーもケニー・バレルもなんだか楽しそうだ。
Wynton Kelly(p)
Kenny Burrell(g)
Paul Chambers(b)
Philly Joe Jones(ds)


宮城オルレ奥松島コース踏破

2019年07月28日 | 今日の一枚(K-L)
◉今日の一枚 437◉
Karel Boehlee Trio
Dear Old Stockholm
 昨日は、妻と連れ立って宮城オルレ奥松島コースにチャレンジした。1周約10kmの中級者向けコースで、オリエンテーリングのように目印を探しつつ歩くのはなかなか楽しかった。
 風景が次々変わり、随所に切通しなどもある起伏にとんだコースだった。しかし、ラスト3kmは地獄のようだった。雨が上がった後ということもあり、ドロドロ、グジャグジャで、グダグダの足場の悪い,およそ道とは思えないようなアップダウンの激しい急斜面が続き、身体的にも精神的にもかなりきつかった。膝が痛み出した妻は、もうこのコースには来たくないと訴える始末だった。ただ、終盤の大高森から見る眺めは、疲れが吹き飛ぶほどに美しいものだった。

 14時頃から歩き始め、コールしたのは17時半過ぎ。約3時間半のウォーキングとなった。足湯施設があるレストハウスなどの施設もすでに閉まった後だった。さて、奥松島コース踏破の後は、いよいよ宮城オルレ唐桑コース(上級者向け)へのチャレンジが現実的なターゲットとなってきた。


 今日の一枚は、オランダのピアニスト、カレル・ボレリーの2004年リリース作品「ディア・オールド・ストックホルム」である。このピアニストについては、以前「ラスト・タンゴ・イン・パリ」という作品を取り上げたことがあったが(今日の一枚113)、近年のピアニストの中ではすごく好きな人のひとりである。

 カレル・ボレリーは、ヨーロピアン・ジャズ・トリオの初代ピアニストであり、ジャス・ハーモニカの巨匠トゥース・シールマンズのピアニストとしても活躍した人のようだ。ライブも基本的にヨーロッパのみ、しかもオランダ周辺でしか行わないとのことである。透明感に溢れ、水を打つような静謐さが漂うピアノの響きは、まさにヨーロッパ的だ。以前は、オンマイクの録音があまりに明快できれいすぎることが気になっていたが、最近は、CDをかけると、いつも目をつぶって聴き入ってしまう。その気取らない気品のある響きにはいつも惚れ惚れするのみだ。表題作の②Dear Old Stockholm は本当にいい演奏だ。原曲の哀愁メロディーを生かした、透明で静寂な響きがたまらなくいい。

大島ウォーキング

2019年07月14日 | 今日の一枚(K-L)
◉今日の一枚 433◉
Keith Jarrett
Still Live
 そういえば、先週の日曜日には、突然思い立って、妻と大島ウォーキングに行った。今年の4月に待望の大島大橋が開通して、気軽に行けるようになったのだ。
 大島にはいくつかのウォーキングコースがあるが、歩いたのはもちろん初心者コースだ。距離は短いが、リアス式海岸の海岸線を歩くため、アップダウンが多く、意外に難コースだった。風が強く、ちょっとハードなウォーキングだったが、遊歩道からの海の眺めは本当に素晴らしいものだった。もう少し脚力を付け、近いうちに他のコースにも是非とも挑戦してみたいと思った。
 今日の一枚は、キース・ジャレットのスタンダーズトリオによる『枯葉~スティル・ライブ』である。録音は1986年。若いころ、リアルタイムで聴いた作品だ。もちろん、ドラムスはジャック・ディジョネット、ベースはゲイリー・ピーコックだ。スタンダーズトリオのライブ盤としては、『星影のステラ』に続く、2作目ということになる。

 キース・ジャレットのファンを自認する私は、キースの作品は現在に至るまで基本的に購入し続けている。ところが、いつのころからか、購入はするものの熱心には聴かない状態が続いている。トリオが成熟し、三者のインタープレイ濃度が増してより緻密な音楽世界が表出されるようになるにしたがって、音楽が難しいものになったように思う。

 このアルバムに代表される1980年代のスタンダーズトリオでは、インタープレイの中にも素朴な歌心が息づいており、肩の力を抜いて安心して聴くことができる。明晰で透き通ったキースのピアノの響きが大好きだ。



「友の湯」のきちんと熱いお湯

2015年01月06日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 402●

King Crimson

Red (30th Anniversary Edition)

 銭湯についての話だ。スーパー銭湯ではない。昔ながらの銭湯である。その名を「友の湯」という。震災の時の数週間は風呂に入るのが困難だった。「友の湯」は震災直前にその長い歴史を終え廃業した銭湯だったが、多くの人が風呂に入ることのできない状況の中、市から委託を受け数週間という限定で復活した。支援物資のタオルを無料で配り、身一つでいけば入ることができた。私も、その時期に世話になった一人である。「友の湯」が限定的に復活するという情報を得て、文字通り「一族郎党」を率いて入浴しに行った。多くの人でごった返す、超満員の状況であったが、そのお湯は本当にきちんと熱く、涙がでるほど気持ちよかった。停電と断水の、凍えるような3月の冷えきった身体を芯からか温めることができた。震災という特異な状況の中で、そのきちんと熱いお湯に風呂屋の気概を感じたのは私だけではあるまい。あの時の「友の湯」を恐らくは一生忘れないだろう。・・・・凍えるような3月と、きちんと熱いお湯。

 今日の一枚は、プログレッシブ・ロックの愛聴盤である。キング・クリムゾンの1974年作品の『レッド』である。第一期キング・クリムゾンの最後の作品であり、ファンの間ではえらく評価の高いアルバムである。私の中では『クリムゾン・キングの宮殿』が一番だが、もちろんこのアルバムも好きだ。複雑なアレンジ、サウンドでありながら、構想や曲想が非常にシンプルなものに思える。そこに共感する。サウンドの背後に流れる不思議な叙情性に魅了される。今、② Fallen Angel が流れている。いい・・・。たまらなく好きだ。

 年齢を重ねるにしたがって、どんどんプログレッシブ・ロックへのシンパシーが深まっていく。どうしたことだろう。