WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

ロング・ロード・アウト・オブ・エデン

2007年12月19日 | 今日の一枚(E-F)

●今日の一枚203●

Eagles

Long Road Out Of Eden

Watercolors  ちょっと前、たまたま見ていたNHKの夜7時のニュースが、イーグルスが約28年ぶりにニューアルバムをリリースして話題になっている、と報じていた。NHKの夜7時のニュースでだ。これはちょっとした事件ではないか。しかも、結構な時間が割かれていたのだから驚きだ。何でも、社会的なメッセージが含まれているということだった。

 社会的なメッセージに期待して購入したこのアルバムだったが、私を魅了したのはそのサウンドだった。何なのだろう、この安らぎの感覚は。何なのだろう、平穏な心の奥底から込み上げてくる熱いものは。こんなロックが聴きたかったのだ、心の中で私はそうつぶやいた。

 グレン・フライ、ドン・ヘンリー、ジョー・ウォルシュ、ティモシー・B・シュミットの4人によるイーグルス28年ぶりの2枚組みスタジオ録音作品だ。ドン・フェルダーはどうした、ランディ・マイズナーはどうしたという声が聞こえてきそうだし、事実私もそう思ったものだが、聴き込めばそんなことはどうでもいい。そう思わせるほどにしっかりとした大人のための良質のロック・ミュージックだ。

 心が躍り、思わず笑みがこぼれるような曲がいくつもある。ほとんどすべての曲がそうであるといってもいい。オヤジロックという言葉がある。世間は、もしかしたらこの作品をそのカテゴリーに押し込めるのかもしれない。けれども、私はこの作品を聴いて確信したのだが、少なくとも私にとって、オヤジロックとは「良質のロック」と同義である。ロックがロックとして成立しているようなロックのことである。

 アルバムの宣伝文句には、「カリフォルニアがまだ遠かった僕らの青春時代。僕らはイーグルスを聴いて大人になった。」とある。中年をターゲットにした回顧趣味的で凡庸な文章だ。我々の心の奥底を揺さぶるようなこの作品に、この宣伝文句はふさわしくはない。中年諸君は、もっとはっきりと、《 私は本当のロックを知っている。そして今でも我々にはイーグルスがいる 》、というべきだろう。


しばらくぶりの酒井俊に感動!

2007年12月07日 | 音楽

Watercolors0003  先日、しばらくぶりに酒井俊のLIVEにいってきた。僕の住む町の小さなJAZZ喫茶でのLIVEである。これまで1~2ヶ月に一度の割合でJAZZを中心としたLIVEをやってきたこの店だが、事情があってしばらくLIVEができなくなるという。そのこともあってか、いつになく満席だった。

 良いライブだった。高木潤一・桜井芳樹という2人のギタリストを従えたしばらくぶりの酒井俊はまた大きく変化しているようだった。約一年半前に見た酒井俊は、ややアヴァンギャルドな方向に傾倒していたのだが、その傾向は影を潜め、誠実に歌の心を表現しようとする姿勢が印象的だった。(アヴァンギャルドだったのは酒井の服装だ。ピンクのピカピカパンツとひらひらシャツはちょっと「衝撃的」だった。正直いって、これにはちょっと引いてしまった。)。といっても、その表現はより演劇的になってきており、その意味では「前衛的」だともいえる。これは近年の酒井の一貫した方向性なのだと思う。MCをほとんどいれず、ただひたすら音楽空間の創出に没頭する「寡黙な」LIVEの構成はそのことを示している。

 ただそのような方向性を示しながらも、演奏全体が歌を歌うことの喜びと、音楽を奏でることの喜びに満ち溢れているのは、さすがだ。それは恐らくは酒井の人柄からにじみ出るものなのだろう。特に、「ヨイトマケの唄」から自身のオリジナル、さらには懐かしのオヤジロックナンバーにまでおよぶ今回の選曲は、彼女の歌を歌うという行為に対する誠実さと音楽的な幅の広さを表すものだった。それは、ある年代の聴衆にとってはニヤッとした笑みを浮かべざるを得ないような内容であり、実際、私も「アい・シャル・ビー・リリースト」が歌われた時には、ほくそえみをかくせなかった。

 いずれにせよ、より深い「表現者」たらんとする酒井俊の近年の活動は注目に値する。今回のLIVEはそのことを強く感じさせるものだった。しばらくLIVEを行えないという私の住む街のJAZZ喫茶だが、復活の折には是非また酒井俊を聴きたいものである。

 PS. アンコールでしばらくぶりに聴いた生の「満月の夕べ」は、やはり感動的だった。誰がなんと言っても、「満月……」はいい。