WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

T-BOLANという名前

2006年08月12日 | エッセイ

 亀田世界戦の君が代については、以前に感想を述べたところだが、なんでもT-BOLANとかいうグループのボーカリストなのだそうだ。おじさんの私は、そんなグループ知らなかったのである。

 しかし、T-BOLANとはどこかで聞き覚えのある名前だ。まさか、T-Rexとそのボーカルのマーク・ボランをたして2で割ったのだろうか。そうだとしたら、何と安直な名前……。わたしも若い頃聞いたT-Rexがかわいそうだ。このような名前をつけること自体、この歌手さんはロックの素人というべきだろう。「ずうとるび」の方がまだ潔いと思うがいかがだろうか。

 基礎ができていないのだ、ロックの基礎が……。ただ適当に歌をつくり、歌いたいように歌う、いわば歌の垂れ流しが横行している。とりあえず、きもちよければいい、というところからは何もうまれはしない。ストーンズもツェッペリンももちろんT-Rexもロックの歴史をふまえ、あるいはそれを批判的に乗り越えるべく、「歴史」と格闘したのである。その意味で、T-BOLANなる名前は、アイドルの追随者の域を少しもでていないように思われ、残念である。

 ところで、前稿において、「あのようなぶざまで、へたな歌で『君が代』が歌われたことを、国粋主義者や国家主義者はもっと批判すべきであろう」と書いたが、未だ日本の国粋主義者や国家主義者が激しい批判や抗議を行ったという話は聴いていない。一体、彼らにとって「君が代」とは何なのだろうか。彼らにとって天皇をたたえる厳粛な歌をあのように歌われたことについて、何も感じないのだろうか。まったく、日本の右翼はまがいものである。実際、日本のナショナリストで「思想」と呼びうるものを考え抜いた者はほとんどいない。私見によれば、「思想」と呼びうるものを語った日本のナショナリストは、北一輝と石原莞爾の2人のみである。

 「思考」なき人々によって、右傾化していく今日の日本社会は悲惨だ。未来を思考したナショナリスト、北一輝や石原莞爾は、今日の日本社会の右傾化や保守化をどう思っているだろうか。

http://blog.goo.ne.jp/hiraizumikiyoshi/d/20060807


上田知華+KARYOBINのレコード

2006年07月30日 | エッセイ

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 休日だというので、レコード棚を覗いていたら、上田知華+KARYOBINの古いレコードが出てきた。本当はジャズのレコードを聴くつもりだったのだが、あんまり懐かしいのでターンテーブルにのせてみたら、これがなかなかいい。思わず聴き入ってしまった。上田知華+KARYOBIN[3]というレコードだ。

 1980年の制作とあるので、もう26年前だ。そういへば、こういうグループがあったなと、感慨に浸った。当時としては(今でも)めずらしい、弦楽四重奏+ピアノの弾き語りという構成だ。斬新な発想である。上田知華のボーカルがややでしゃばりすぎという感じがしないでもないが、今聴いてもなかなか新鮮なサウンドだ。ヒット曲のA-① パープル・モンスーンは、やはりなかなかいい旋律と詩をもっている。

     とりたての陽射しこぼれる (パープルモンスーン) 

     新しい朝に目覚めて

     曇った心の窓をあけてごらん

     昨日よりステキになれるわ

という詩がなかなか新鮮ではないか。実に80年代的だ。女性が自分を解放して、元気になりはじめた時期の雰囲気が伝わってくる。思えば、80年代前半とは、女性がどんどん自己主張をはじめた時期ではなかったか。渡辺美里のマイ・レボリゥーションなどもこの系列に入るものだろう。そういえば、いまはなき朝日ジャーナルも「元気印の女たち」という連載をしていたではないか。この後、女性はどんどん強くなり、80年代後半のバブル経済の時代には、ジュリアナ東京のお立ち台でパンツを見せながら踊るようになり、1990年代になると、言葉遣いもまるで男のように粗雑なものになるわけだ。

 これはやはり、女性の解放なのだろう。女性の社会進出に異存があるわけではないが、粗雑になりすぎた女性たちを見るのは残念だ、と私は思うのだが、そのような考え方自体が女性蔑視だと、田嶋陽子先生に怒られそうである。フェミニストのみなさんはどう考えるだろうか。

 いずれにせよ、1980年代前半のこのレコードは、これから始まるであろう女性の解放を予感させ、女性たちが自分の心の窓を開いていこうとしていることを感じさせる点で爽快である。


保立道久による「網野善彦『日本中世に何が起きたか』解説」を読んだ

2006年07月28日 | エッセイ

網野善彦『日本中世に何が起きたか』(洋泉社MC新書)は、網野さんにとってのひとつの「総括」のような作品だ。これまでの論考より一歩踏み込んだ考え方を提示しており、これまで明言してこなかったことについて述べている箇所もある。

 

しかし、保立道久による「解説」はさらに感動的だった。保立によれば、本書で提示された網野さんの「展望」は、第一に原始社会-奴隷制社会-封建農奴社会-資本主義社会というロシア・マルクス主義の世界史の4段階図式に対する否定であり、第二に「無縁」の原理の中から商品の交換そして「資本主義」が出てくるという発想の2点である。

 

第一の点については、世界史の4段階図を留保しながら一方で「無主・無縁」の原理によって歴史を捉える見方を主張していた網野さんが、大きく一歩踏み出したという点で重要である。これは、従来、「二元論」などと悪口を言われてきた点であり、私なども、なぜ網野さんが世界史の4段階図にいつまでもこだわるのか理解できなかった点である。

 

また、第二の点については、文化人類学者らによってはすでに説かれてきた事柄ではあるが、歴史家・保立道久をして「衝撃的」で、とても「網野さんの発想についていけなかった」と言わしめる事柄である。保立さんは、これまで先鋭的な網野批判を繰り返してきたが、数々の実証的・理論的研究と網野理論との格闘の末、「理論史の理解という点では、他の誰より網野さんが正解であったことを確認せざるを得なくなった」と網野さんへの「降伏」を宣言したのである(もちろん、無条件の降伏ではなく、発展的な「降伏」だ)。

 

私はここに真摯な歴史家の誠実な態度を見ないわけにはいかない。感動的な文章だ。これまで、多くの人が網野批判の文章を書いた。しかし、私には説得的な主張とは思われなかった。例えば、高名な歴史家・永原慶二さんの網野批判なども、マルクス主義という前提からの批判であり、政治的・イデオロギー的な感をぬぐいきれなかったのである。マルクス主義という枠を超えて、日本の歴史はどう理解すべきなのかという問題が、本当に学問的に誠実な態度で、真摯に論じられているようには思われず、どこか、ヒステリックな「網野たたき」のように見えて仕方なかったのだ。おそらく、こう思っていたのは、私だけではないはずである。事実、私の知人の中には、同じような感想を持っている人が少なくない。

 

その意味で、今回の保立さんの「降伏」には、真の歴史家の真摯な姿を見せつけられた思いだ。保立さんの姿勢は、私に勇気と元気をくれた。かつて、マルクス主義解釈でがんじがらめの中世史に網野さんが投じた一条の光が、若い我々に勇気と元気をくれたように……。

 

しかしそれにしても、網野さんがなくなったことは残念だ。保立さんには是非網野さんの姿勢を受け継いでもらいたい。

 


雨を見たかい?

2006年07月15日 | エッセイ

 今日、用事があって車を運転していて、たまたまあった古いカセットテープをカーステレオに挿入したところ、流れてきたのは、なんとCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)のwho'll stop the rain ? だった。なつかしくてききいってしまった。しばらく聞いていると、同じCCRのHave You Ever Seen The Rain ? がはじまった。今となっては、ちょっとドン臭いサウンドだが、悪い曲ではない。私は同時代にこれらの曲に触れたわけではない。私がこれらを知ったのは、それから10年近くたった70年代末~80年代初頭にかけてだ。けれども、それでもまだ10年前の時代のなごりや燃えカスのような気分は残っていたように思う。(だからどうということはないが……)

 《雨》……。そういえばこの頃の時代の曲には 《雨》の語がよく出てくる。ボブ・ディランは「激しい雨が降る」と歌い、ジェームス・テーラーも「ファイヤー・アンド・レイン」を歌っていた。よく言われることだが、この雨はベトナム戦争が背景となっているのだろう。すなわち、それはベトナムで降るスコールの雨であり、爆弾の雨である。それは、ある場合には反戦の歌であり、ある場合には大儀の薄い戦争をベドコンの恐怖にさらされながら戦わねばならない兵士たちの歌である。またあるいは、当時燃え盛っていた学生運動に対する機動隊の放水の雨なのかも知れない。

 くわしく調べたことはないが、日本の音楽にもこの時代のものには《雨》の語が多いような気がする。《雨》は意外と、60年代から70年代初頭の時代の気分を表す語なのかもしれない。


偽善的なサイモンとガーファンクル

2006年06月15日 | エッセイ

 ずいぶん前に読んだのだが、村上春樹の小説の中に「偽善的なサイモンとガーファンクル」ということばが出てくる。私が持っているサイモンとガーファンクルに対する印象にあまりにピッタリだったので、ずっとあたまに残っていたのだ。さっきなぜだかそのことばが思い浮かんだので、我慢できずに何という作品に出てきたのか調べてみた。まさか全部の著作を読み直すわけにもいかず、調べは難航したが、「文学界」臨時増刊の『村上春樹ブック』がたまたま手元にあり、その中の「ミュージック・ミュージック・ミュージック」の項を使ってやっとわかった(村上作品に登場する音楽を列挙し、でてくる作品とページが掲載されている)。その言葉がでてくるのは、『ダンス・ダンス・ダンス』という作品で、主人公の「僕」がティーンエイジャーだった頃の下らない音楽を列挙した中に出てきたのだった。

 ところで、ビル・クロウ著(村上春樹訳)『さよならバードランド』(新潮文庫)には、著者ビル・クロウがポール・サイモンのレコーディングに参加したした時のエピソードがおさめられている。巨額の制作費を消費するために、スタジオ使用時間を増やし、ミュージシャンを雇うが、無駄な時間を費やす。結局は、「サイモンとガーファンクルの次のレコードがでたとき、そこには僕らが吹き込んだものはひとつも使われていなかった」という話だ。ポール・サイモンいわく、巨額の制作費を使えば、レコード会社は真剣に売り込みをするのだそうだ。著者は正面きって批判的なことを述べるわけではないか、ポール・サイモンが他者の気持ちを理解できない高慢な男であるというニュアンスで書かれている。

 この文章を読んで何か腑に落ちたような気がした。サイモンとガーファンクルのメロディーとハーモニーは確かに美しいものだが、まるで誠実さを売りにしているようなその姿勢からか、どうしても素直に感動できない部分があったのだ。彼らは、ビジネスや自分の音楽への姿勢に対しては誠実だったのだろうが、他者に対してはそうではなかったのではないか。まあ、私自身が素直でないことが、素直に感動できない本当の原因なのかもしれないが……。それにしても、

 「あの偽善的なサイモンとガーファンクル

 なかなかキャッチーな表現だと思う。


いつからか、音楽をちゃんと聞かなくなったような気がする

2006年04月30日 | エッセイ

 レコードやCDを何枚所有しているのかはっきりわからない。正確に数えようとExelに入力を試みたことがあったが、結局挫折してしまった。1000枚以上はあるとは思うが、Jazzファンとしては決して多い数字ではないだろう。学生時代以来、毎月2~5枚程度のペースで購入してきたが、ここ数年増加傾向である。考えるに、インターネット・ショップがいけない。私のように地方に住んでいるものにとっては、わざわざ都会にレコード・CD探しにいかなくとも良いとても助かるシステムである。何でも揃っているし、一部の視聴もでき、おまけに家までとどけてくれる。便利である。今月もすでに16枚も買ってしまった。雑誌の紹介記事で欲望を刺激され、HMVのホームページでウィッシュ・リストに登録して眺めているうちに、つい、購入ボタンを押してしまう。ああ、金がない。

 数日後、宅配便でCDが届く。ジャケットを眺めて満足。別に後悔はしない。けれどもよく考えてみると、そんなに買っても聞く時間がないのだ。結局、BGMとして聞くことになる。演奏の質が耳に残らない。何となく耳ざわりのいいメロディーだけが残る。狂気や熱い鼓動や胸をかきむしられるようなあの感覚に出会うことがないのだ。いまもこの文章を書いているむこうでArt Pepperの「Modern Art」がスピーカーから流れている。……(かつては本当に感動した作品だ)……スピーカーから流れている、そう感じるのだ。

 思えば最近、音楽をちゃんと聞かなくなっているような気がする。これは、何時ごろからだろうか。レコードやCDを大量に買うようになってからはもちろんだが、どうもCDというやつが出現してからそういう傾向が出てきたような気がする。簡単にトレイに乗せ、ボタンを押せば、曲が流れる。気に入らない曲はとばすこともできる。気に入った曲だけ編集することもできる。けれども、レコード時代のように面倒な作業をして聞かない分(ジャケットから袋を取り出し、袋からそっとレコードを取り出してターンテーブルにのせ、聞き終わったらクリーナーで埃をとって、慎重にジャケットに戻すという作業だ)、音楽に対する集中力が無くなったような気がする。気に入らない曲を飛ばすため、トータルアルバムとしての作品の価値を感じられなくなったような気がする。実際、当初気に入らなかった曲でも、アルバム全体を聴き続けるうちに、そのすばらしさがだんだんわかってきたという例もしばしばあったものだ。

  大体にして、昔はお金がなかった。友達と違うLPを買いあって、それぞれカセットテープに録音したり、FMからエアチェックしたり(最近の若者はエアチェックという言葉を知らないということを知ったときは驚きであった)、あるいは出始めのレンタルレコード店で借りたものをカセットテープにおとしたりしたものだ。そうして聞いた音楽は、不思議に今でもアドリブのすみずみまで口ずさんだりできてしまうのだ。ラジカセや安いミニコンポのような装置で聴いた音楽の鼓動が今でも蘇ってくるのだ。

 CDの出現で、音楽はわれわれの生活の一部として定着した。それはきっとすばらしいことなのだろう。けれども同時に、その作品がもつ狂気や胸を揺さぶるビートは、水で薄められてしまったのではないだろうか。音楽を頭でっかちにならず、より手軽に楽しむということと引き換えに(あるいはそのおかげでというべきなのだろうか)、われわれは、音楽によって人生を変えられることも、そして人生を狂わせられることもなくなったのだ。

 多くの人は(特に若者は)、しばしばこのように語る。すなわち、「いいものはいい」「それでいいじゃないか」と。けれども、わたしはいつも思う。いいとはどのような現象なのか、そしてなぜ自分はそれをいいと感じているのか。

わたしは、それが知りたい。