WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

パーカー・イディオム

2013年11月30日 | 今日の一枚(C-D)

◎今日の一枚 361◎

Charlie Parker

Now's The Time

 先日アップした、『渚にて』という記事で、「瓦礫焼却場の周囲には広大な瓦礫分別場もあり、かつて美しい渚があったこの海辺の地区は、夜になると辺り一面に照明が点灯され、まるで巨大な要塞都市のようになってしまった」と記したのだが、その風景を記録しておこうと思い立ち、数日前の仕事帰りに写真を撮ってみた。たまたま持っていた ipad  mini で撮影したため、手がぶれてあまりよく撮れなかったが、こんな感じだ。ここは海に近い被災エリアなのだが、瓦礫焼却場と瓦礫分別場があり、24時間体制で稼働している。夜になると、360度こんな風景が見えるわけである。

     ※     ※     ※     ※

 チャーリー・パーカーの1952~53年録音盤『ナウズ・ザ・タイム』、晩年の「最後の偉大なレコーディング」といわれる作品だ。

 同時代にパーカー体験をしたわけでもなく、ジャズを歴史的に研究しているわけでもなく、1980年代からジャズを聴きはじめ、ただジャズを横に並べて超時代的に聴いているに過ぎない私にとって、「ビ・パッブ革命」や「パーカー芸術」の衝撃をリアルに感じることは不可能なのかもしれない。できるのは、ただ頭で理解することだけだ。

 パーカーを基準にジャズを聴くという、「いーぐる」の後藤雅洋氏は、『Jazz of Paradise』(JICC出版局:1988)の中で、「僕はモダン・ジャズの本質はジャズ的即興演奏にあると思う」とした上で次のように述べる。

ジャズではビ・パッブ革命において、即興演奏ということがきわめてラジカルにつきつめられたが、たまたまその時出現したチャーリー・パーカーという一人の天才によって、アッという間に人間のなしうる限界と思われるところまで即興性が昇りつめられてしまった。だからモダン・ジャズの本質を即興性とするならば、その歴史の始まりにおいて、もっとも重要な部分はもうそれ以上発展させようがないところまで行ってしまっていたのだ。

 すごい結論である。だとすれば、パーカー以降のビ・バップは、そして恐らくはハード・パッブも、演奏者の個性を加味したパーカー・イディオムのバリエイションにすぎないということになってしまう。実際、後藤氏は、即興演奏に焦点を絞ってみた場合、「ジャズに"進歩・発展"はあったのか」と挑発的に問いかけ、次のように語る。

パーカー以降のミュージシャンには、仕方なしにパーカーがやり残した部分を一つずつ埋めていくしか、もはややるべきことが残されていなかった。

 恐らくは、後藤氏のいう通りなのだろうと思う。だからこそ、後藤氏もいうように、若い頃にパーカーと行動をともにした、「頭のいい」マイルス・デイビスは、「クール・ジャズ」といわれる構成的な音楽にシフトし、さらにはモード手法を模索していったのだろう。

 もちろん、「パーカーのバリエイションにすぎない」と考えるのではなく、そのバリエイションの中で加味される「個性」こそが重要なのだとする立場もありうるだろうし、音楽を聴く立場からすれば、その方がずっと豊かな聴き方であろう。ただその場合でも、演奏のイディオムを完結させたパーカーの偉大さは否定すべくもない。

 けれども、後から来た私は、そのように考えてビ・パッブを聴いたことは一度もない。1980年代にジャズを聴きはじめた私にとって、ビ・パッブはすでにそこにある音楽だった。パーカーは、ビ・パッブ期の多くの演奏家の中のひとりであり、パーカー自身がそのバリエイションのひとりだった。ビ・パッブ期の多くの演奏家の中で、私がパーカーの音楽に感じるのは、音の輪郭がはっきりしていて、一音一音がすごく明瞭だということ。アドリブが流麗で力強いこと。そして、流麗な演奏にもかかわらずそこに、荒々しさや激しさをいつも感じることである。

 私は、そんなパーカーが好きだ。

 


どこにもいけない人

2013年11月23日 | 今日の一枚(A-B)

◎今日の一枚 360◎

The Beatles

Rubber Soul

 先日、図書室で村上春樹『雑文集』(新潮社)という本をたまたま手に取り、ぱらぱらとページをめくっていたら、ビートルズのNowhere Man を「どこにもいけない人」と訳した一節に出合い、ちょっと考えてしまった。Nowhere Man の日本でのタイトルは「ひとりぼっちのあいつ」であり、それが一般に流布しているが、その訳についてはよく考えたことがなかったのだ。帰宅後、その歌詞を見直してみたわけだが、よくわからないようで、なんとなく気持ちのわかる歌詞だった。何というか、人間の独我論的状態について歌ったものなのではないだろうか。社会的な通念や常識に対して、Nowhere man だということをいっているのではないか。そう考えると、「ひとりぼっちのあいつ」より「どこにもいけない人」の方が確かにしっくりくるような気がする。そういえば、誰の訳だったか、「ここにあらざる人」という訳をみたことがある。「ここにあらざる人」・・・。いいじゃないか。私にはそれが一番共感できる。「ひとりぼっちのあいつ」は、確かに日本語として爽やかでお洒落な感じの語感だが、歌詞をもう一度読み返してみると、やや皮相な表現のように思える。この歌のもつちょっと屈折した内省的な面を考えると、やはり「どこにもいけない人」とか、「ここにあらざる人」とかがいいのではないだろうか。

 というわけで、この一週間は、通勤の車で、ザ・ビートルズ の1965年作品『ラバー・ソウル』を聴き続けた。この作品に触発されたブライアン・ウィルソンが『ペット・サウンズ』をつくり、『ぺット・サウンズ』に影響されて『サージェント・ヘパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』がつくられたとされるいわくつきの一枚である。

 数年前に購入した、ビートルズ黒ボックスの中の一枚で聴いている。黒ボックスを時代順に聴いていくと、その連続性と変化とが本当によくわかる。何といったらいいのだろう。前作『ヘルプ』の延長線上にありながら、後のトータルアルバムの世界につながるような芸術性のようなものが、確かに顔を見せている。曲作りはもちろんのこと、コーラスにしても、録音の手法にしても、曲の配列にしても、より考え込まれ、練られている。渋谷陽一氏は、この作品を、「内省期に入ったビートルズの大きな転換点を示す作」と位置づけ、

このアルバムでビートルズは日常的なラヴ・ソングを総括し、決別したのである。そして「Love」という言葉の概念を今までになかったものへの広げる作業へ、彼らはかかったのである。

と示唆に富んだ文章を書いている。(『ロック ベスト・アルバム・セレクション』新潮文庫)

 ④Nowhere Man 、いい曲だ。クルマの中でいつもハモってしまう。それにしても、この至福の時間がなぜ2分42秒で終わってしまうのだろう。CDで聴くようになってから、必ずリピートしてしまう。⑪In my Life 、ああやはり最高だ。中学生の頃から大好きだった。わずか2分25秒で終わってしまうこの曲を聴くと、今でもなぜだか心が落ち着いてくる。不思議だ。"There is no one compares with you" というところが何ともいえず好きだ。

 小林慎一郎という人は、「滋味と哀感」がこの作品の本質だと述べているが(『Beat Sound No.13』2009)、まことに的を得た表現だと思う。 


渚にて

2013年11月17日 | 今日の一枚(I-J)

◎今日の一枚 359◎

Joe Sample

Carmel

 近所にある瓦礫焼却場での焼却作業が終了しいたらしい。数日前までは24時間もうもうと見えていた煙も、昨日からはもう見えない。瓦礫焼却場の周囲には広大な瓦礫分別場もあり、かつて美しい渚があったこの海辺の地区は、夜になると辺り一面に照明が点灯され、まるで巨大な要塞都市のようになってしまった。施設は12月中には解体されるということだ。そのあと、かさ上げ土地整理事業が始まるのだろう。美しい渚は復活するのだろうか。

     ※     ※     ※     ※

 ジョー・サンプルの1979年作品、『渚にて』である。学生の頃、ジョー・サンプルに熱病のようにハマり、毎日何度も聴き続けたことがある。といっても、後から振り返れば、熱病はわずか数週間でさめ、聴いたアルバムも結局、『虹の楽園』と、この『渚にて』の2つだけだったのだが・・・・。

 ずっとレンタル・レコードから録ったカセットテープで聴いていたのだが、カセットデッキが故障したこともあり、輸入盤の安いやつを買ってみた。しかし、こんなジャケットだったろうか。構図は記憶している通りだが、もっと、品のいい、お洒落でセンチメンタルな雰囲気のジャケットだと思っていた。ジョー・サンプルの顔がデカすぎる。そのデカくてゴツすぎる顔が、センチメンタルな構図を裏切っている。

 美しく気品のあるアコースティック・ピアノだ。いまでも耳が憶えている。リズム隊がしっかりしているのだろう。美しいだけでなく、サウン全体にメリハリがある。とても良い演奏だ。しかし、とても良い演奏だが、やはり聴きあきしてしまう。何というか、何度か聴いているうちに、予定調和的な感じがしてしまうのだ。結果的に私は、ジョー・サンプルのアルバムによって、フュージョンは聴きあきするということを学んでしまったようである。それは「先入観」なのかもしれない。けれども、その後の人生で私が出会ったフュージョン・ミュージックのほとんどは、やはり聴きあきするものだったような気がする。それでも、数年に一度聴いてみようかと思ってしまうのは、やはり音楽の力なのだろう。あるいはそれとも、若き日々への憧憬にすぎないのだろうか。

 アメリカ西海岸の地名である、タイトルの"Camel" を、『渚にて』という日本語に置き換えたのはいいセンスだと思う。ちょっと古風な感じもして私は好きだ。ただ、核戦争をテーマにした小説/映画の『渚にて』("On The Beach") との関係がいまひとつ不明である。小説『渚にて』は1957年に書かれ、映画は1959年に公開されている。このジョー・サンプルのアルバムに『渚にて』と命名した人物の念頭には、小説/映画があったはずであり、それとの関係が私には興味深い。


立原正秋箴言集(11)

2013年11月11日 | 立原正秋箴言集

ものがいっぱいあり、それを思うままに使いはたしてしまう敏江の内面が、彼にはこわかった。ものがなくなったらどうするのか・・・・・。いや、ものはなくならなくとも、それを使う精神が疲れてきたらどうするか・・・・・。(『春のいそぎ』)

 思うところがあり、数十年ぶりに『春のいそぎ』を読み返しています。上の文章にハッとさせられました。数十年間、ずっと頭の隅にあった言葉です。宮本憲一『昭和の歴史⑩経済大国』(小学館)は、経済大国の光と影が投影された文学として、司馬遼太郎とともに立原正秋を取り上げています。すなわち、「司馬文学は、日本文化のもつ進歩への希求をえがくことによって、経済成長のもつ英雄的な躍動感と共鳴する。他方、立原文学は日本文化のもつ滅びへの共感をえがくことによって、経済大国の影の部分と共鳴しているのである。」上記の文章などはよくそれを表しているのではないでしょうか。


ふたつのジャケット

2013年11月10日 | 今日の一枚(A-B)

◎今日の一枚 358◎ 

Al Haig  

Jazz Will-O-The-Wisp

 楽天イーグルスが日本シリーズを制した先週の日曜日、バスケットボール女子日本代表チームが43年ぶりにアジア大会で優勝した。私はそれを見るためにわざわざフジテレビnextに加入したのであるが、楽天の優勝もあって、マスコミではほとんど取り上げられなかったようだ。今朝の「サンデー・モーニング」ではほんの少し紹介されたが、バスケットボールの注目度はまあそんなものなのだろう。

     ※     ※     ※     ※

 アル・ヘイグの1954年録音、『ジャズ・ウィル・オー・ザ・ウィスプ』である。録音は決してよくないが、いい演奏だ。ゴージャスでありながら端正なタッチが印象的である。ステレオの音量を大きめにして聴いてみたのだが、昔のジャズ喫茶の雰囲気が部屋に充満してきて、なんだがとても嬉しくなってしまった。

 私のCDは随分前に買った「SJ蒐集CLUB」の日本盤で、ジャケットは左側のものなのだが、そのブックレットの裏側には右側のブルーのジャケットが印刷してある。webで検索すると、現在は同じタイトルで右側のジャケットのものも売られているようだ。いったい、どっちが本物なのだ。

 寺島靖国氏のライナーノーツによれば、右側のブルーの方がエソテリック原盤の「ファースト・ジャケット」と呼ばれるものであり、左側の方はカウンターポイント・レーベル発売の「セカンド・ジャケット」なのだそうだ。ただし、寺島氏は「間違っていたらごめんなさい」としつつも、日本盤イシューにおいて「ファースト・ジャケット」が使われた記憶はない、としている。

 ところで、この作品には同日に録音されたピリオド原盤の『アル・ヘイグ・トリオ』という姉妹盤がある。私は、2つの異なるジャケットはこの同日録音の作品の存在に関係しているのではないかと短絡的に考えたのだが、どうも違うようである。寺島氏のライナーノーツはこれについて、

 1954年3月14日にアンリ・ルノーのプロデュースでこのセッションの録音がNYで行われた。この日全部で21曲がマスターテープに収まったわけである。しかしそれらがどういう経緯で分割されたのか。つまり、エソテリックとピリオドという二つのレーベルに分断されたのか。さらに詳しく調べてゆくとピリオド以前にスイングなるレーベルがその前身として存在している。ご存知のようにスイングはフランスのレーベルであるからいったんはマスターが持ち帰られフランス発売されたのだろうか。

と疑問点を提示され、「どなたかこのへんの世界を探究、発表してくれないものだろうか」と書き記している。 

 ビル・クロウ(村上春樹訳)『さよならバードランド あるジャズ・ミュージシャンの回想』(新潮文庫)には、寺島氏の疑問点を解消するような、この時の録音の経緯が記されおり、とても興味深い(p252-254)。ビル・クロウはこのアルバムの録音にも参加したベーシストだ。

 同書によれば、録音エンジニアのジェリー・ニューマンの仲介で、フランス人のアンリ・ルノーが制作するアル・ヘイグのアルバムのために、ミュージシャンたちが集められ、一本のマイクで全8曲すべてをワンテイクで録音したという。ところが、ジェリー・ニューマンが「どうだい、僕のレコードのためにあと8曲やってみる気はないかな? 僕の持っているエソテリック・レコードからアメリカで発売することになるけど」といい出し、アル・ヘイグたちはそれに応じてスタンダード曲を演奏したというのだ。

 この話には後日談がある。ニューマンがアルバム1枚分のギャラの小切手しか送ってこなかったので、ビル・クロウが2枚目のアルバムの分のギャラはどうなったのかと聞くと、「ああ、あれはひとつぶんだよ。そのことはわかっていると思っていたんだけどな。もしセカンド・セッションの分も払わなくちゃいけないとなったら、もう一枚のアルバムの話なんて始めからなかったさ。そんな予算ないもの」と答えたという話である。

 寺島氏やビル・クロウのいうことが正しいとすると、総合的には次のようになろう。すなわち、この『ジャズ・ウィル・オー・ザ・ウィスプ』は、1954年3月14日に追加で録音された方の音源であり、それはエソテリック・レーベルからリリースされた。その際のジャケットは右のブルーのものである。事実、このジャケットには"ESOTERIC RECORDS" と記されている。これがのちにカウンターポイント・レーベルから再発売され、この時に左側のジャケットに変わった。日本で発売されたものは、当初このカウンターポイント盤をモデルにしていた。

 なお、姉妹盤の『アル・ヘイグ・トリオ』については、「スイング」、「ピリオド」を経て、のちに「プレスティッジ」レーベルから発売されている。ジャケットは、まったく違うもののようである。

 


クール・ジャズ(加筆)

2013年11月08日 | 今日の一枚(K-L)

◎今日の一枚 357◎

Lee Konitz

Subconscious-Lee

 楽天イーグルスが日本シリーズを制した。素直にうれしい。良かった。王手をかけていた第6戦で敗れて嫌な感じだった。第7戦の日の日中は、私が住む街でも、何か街全体がそわそわしたような雰囲気だった。私の家族も、テレビの前で応援グッズをもって応援した。思えば、家族全員でひとつのテレビ番組を見るなど、近頃珍しいことである。「被災地のため」とかいった言説がとかく強調されるが、リップサービスだとしても嫌な感じはしない。彼ら自身が何度か被災地に足を運び、球団も少年野球教室などで地元の人たちと交流を続けているからだ。

     ※     ※     ※     ※     ※

 クール・ジャズの名盤。リー・コニッツの1949,1950年録音作品、『サブコンシャス・リー』である。

 リー・コニッツは、若い頃、よく聴いた。わかったような顔をして聴いていた。本当はよくわからなかった。難しい音楽のように思えた。ジャズを学習的に頭で聴いていたからだろう。最近また、なぜかよく聴くようになった。ジャズ史的、理論的にどうのこうのではなく、単純に音が、サウンド全体の雰囲気が好きだ。特にこのアルバムは好きだ。人を拒絶するようなところがまったくない。よく解説にある、「孤高な」「冷たい青い炎」のような印象はもたない。何か寂しげな、人恋しいようなサウンドに共感を覚える。鬼気迫る即興演奏などとも思わない。ただ身体にすんなり入ってくる感じはする。きっと、「正しい」聴き方ではないのだろう。けれど、頭で聴いていた若い頃より、音楽をずっと近くに感じる。

 菊地成孔+大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー(東大ジャズ講義録・歴史編)』によれば、Subconscious-LeeというタイトルはSubconsciously=「無意識的なリー・コニッツ」という駄洒落的な意味なのだそうだ。同書は、この時期のリー・コニッツは凄いと評価しながらも、このアルバムを、このセッションでピアノを弾いているレニー・トリスターノの音楽だと断定している。周知のごとく、盲目のピアニスト、レニー・トリスターノは、リー・コニッツの師匠であり、トリスターノ理論といわれるジャズの新しい方法論をうちたてた人物である。このトリスターノ一派の音楽が「クール・ジャズ」と呼ばれていくことになる。

 クール・ジャズについては、≪ビバップに対抗する形で生まれた、理知的でアンサンブルを重視するようなサウンド≫であるとなんとなく理解していた。マイルスの『クールの誕生』などはそんな感じもするが、リー・コニッツについてはその定義はしっくりこないような気がしていた。先の『東京大学のアルバート・アイラー(東大ジャズ講義録・歴史編)』は、「クール・ジャズ」について次のように述べる。

「クール・ジャズ」は音楽的内容から言えばビバップと殆ど一緒。パッブからアングラ臭を抜いてさ、ちょっとリラックスした雰囲気を前面に押し出して、でも、不良のクールな音楽っていうイメージはキープ。みたいな感じで、以後、黒人音楽を白人層が取り込む際に常識的となるパターンがここでもはっきりと現れています。

 こういわれた方が何となくフィットする気がする。クール・ジャズはビバップと同等の概念ではなく、そこから派生的に展開した音楽のスタイルのひとつということなのだろう。

 もう少し、何人かの文章を引用してみよう。大和明という人も「パッブの発生からモダンジャズの黄金時代へ」(『ジャズの辞典』冬樹社1983)という文章の中で、

 これはパッブのコンセプションを基盤としながらも、聴感上は静的で知的感覚に彩られたソフトな透明感を思わせるサウンドや抑えられた躍動感とヴィブラート、そして内省美と流麗美に溢れたフレージングを特色とするものであった。

と述べている。内藤遊人『はじめてのジャズ』(講談社現代新書1987)も、

それは、ジャム・セッションの一発勝負的発想をやめ、アレンジをしっかり決める、少ない編成でオーケストラの多彩なサウンドを出せないものか、大きな広がりのあるサウンド空間を作り出したうえで、ジャズ(ビ・パッブ)の方法論を展開したインプロヴィゼイションをやりたい、という三つを大きな柱としたものだった。

述べている。やはり、「クール・ジャズ」とは、大きな見取り図の中では、ビ・バップの派生的形態と考えてよさそうである。


これがあれだったのか

2013年11月02日 | 今日の一枚(G-H)

◎今日の一枚 356◎

Grover Washington Jr.

Come Morning

 

 これこれ、これがあれだったのか。グローヴァー・ワシントン・ジュニアの1981年録音盤、『カム・モーニング』だ。リアルタイムで聴いていたアルバムなのだけれど、カセットテープでいくつかのアルバムを並列的に聴いていたせいか、グローヴァー・ワシントン・ジュニアの作品はアルバム名と内容が一致しない。どの曲がどのアルバムに入っているのかも曖昧だ。カセットデッキが故障したこともあり、1000円の「完全限定盤」を購入してみた。1000円といっても、一応24bit盤だ。

 一聴、これこれ、これがあれだったのか、とつぶやいてしまった。安物のカセット・ヘッドホーンステレオで、本当によく聴いたアルバムだったのだ。渋谷の街を闊歩する私の耳元でいつも鳴っていた曲たちだ。どの曲も耳にこびりついている。聴きながら鼻歌を歌ってしまう始末だ。③ Be Mine のボーカルはあの歌うドラマー、グラディ・テイトだ。といっても、当時はグラディ・テイトの名前など知らなかったが・・・・。

 グローヴァー・ワシントン・ジュニアの作品は、いつも「都会的に洗練されたサウンド」とか、「メローでソフトでロマンチック」とか形容される。もしかしたら、当時の私もそう感じていたのかもしれない。でも、今はちょっと違う。何というか、サックスの音色が好きなのだ。音に人間的な暖かみを感じる。特に、都会的とは感じない。時代が変わって、都会的なもののイメージが変化したということもあるのだと思うが、都会的なイメージよりむしろ人間的な優しさや暖かさを感じる。

 ここ1年程、ときどきグローヴァー・ワシントン・ジュニアを聴く。考えてみると、約30年ぶりだ。カーステレオのHDDにも何枚か入れてある。単なる懐古趣味ではない。その優しく暖かな音が、何か無性に恋しくなるのだ。


なるほど・・・・

2013年11月02日 | 今日の一枚(A-B)

◎今日の一枚 355◎

Art pepper

Art Pepper Meets The Rhythm Section

Photo

 楽天イーグルスが日本一に王手。すごい・・・・。信じられない。金満球団、王者ジャイアンツを相手にこれまでの全試合が緊迫する接戦だ。パリーグを制したのはまぐれじゃなかったのですね。特に、一昨日のゲームは感動した。辛島の好投、則本の熱投、藤田の涙・・・・。今日からが本当の勝負。本拠地仙台で本当の勝負だ。星野監督が「仙台で宙に舞いたい」とか浮ついているのが気にかかるが・・・・。 

     ※     ※     ※     ※     ※ 

 アート・ペッパーの1957年録音作、『ミーツ・ザ・リズム・セクション』。マイルス・ディヴィス・コンボのリズム・セクションと共に吹き込んだ、ワンホーン・セッションである。名盤の誉れ高い作品だ。

 この作品に熱狂的にはまっり、聴きこんだ記憶はない。私の中では、普通のいい作品という評価だった。冒頭の、①You'd Be So Nice To Come Home To の印象が強すぎたせいだろうか。何となく哀愁の旋律というイメージが頭の中にあった。何気なくページをめくった村上春樹さんの文章に出合ってもう一度聴いてみようかという気になった。随分違った印象を受けた。コペルニクス転回というやつか。村上さんは、「チャーリー・パーカーを奇跡の翼を持った天使とするなら、アート・ペッパーはおそらくは変形した片翼を持った天使だ。彼は羽ばたく術を知っている。自分が行くべき場所を承知している。しかし、その羽ばたきは、彼を約束された場所へとは連れて行かない。」(和田誠・村上春樹『ポートレイト・インジャズ』新潮文庫)といい、次のように続ける。

彼の残した数多くのレコードを聴いていると、そこには一貫して、ほとんど自傷的と言ってもいいほどの苛立ちがある。「俺はこんな音をだしているけれど、俺が本当に出したいのは、これじゃないんだ」と、彼は我々に向かって切々と訴えかけている。

 なるほど・・・・。さすが作家、かつてジャズ喫茶を経営し、ジャズと長く付き合ってきた人物だ。鋭敏な感性だ。そう思って、彼の推奨する⑤Straight Life を聴いてみると、まったくその通りに思えてしまう。アルバム全体もまったく違った印象になってしまうから不思議だ。昨日からもう3回も繰り返して聴いている。

 私は感化されやすいのだろうか。