WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

リカード・ボサノヴァ

2007年05月26日 | 今日の一枚(G-H)

●今日の一枚 169●

Harry Allen

Recado Bossa Nova

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 昨日の雨が嘘のように晴れ上がった。気持ちの良い朝だ。今日は長男の少年野球の試合である。仕事で応援にいけないのが残念だが、健闘を祈っている。息子が鈍くさく、チームが強いこともあって、昨年暮れまでは補欠であったが、息子も彼なりにがんばったのだろう、この春からはファーストのポジションをもらい、5番を打っている。守備や打撃はそれなりだったのだが、足が遅かったので使ってもらえなかったのだ。足が遅いことは今でも変わらないが、少なくとも一生懸命走る気迫が感じられるようになった。先日の運動会では生まれて初めて一番だった。走ったメンバーにすごくはやい子どもがいなかったのが幸いしたわけだが、これまで下から2~3番目ぐらいが定位置だった彼にとっては大躍進だ。父親の私にとってはコペルニクス的転回といってもいいほどの驚きだった。今日はローカル大会、明日は別の大会で全国大会につながる各地区の代表同士の戦いらしい。野球経験者の私は、息子の野球をみていると太田裕美の「パパとあなたのかげぼうし」を思い出す。まったく、親ばかである。

 今日の一枚は、ハリー・アレンの『リカード・ボサノヴァ』。スタン・ゲッツに大きな影響を受けたハリー・アレンにしてみれば、ボサノヴァが得意なことは自然なことなのであろう。2006年録音のこの作品は、彼のボサノヴァ・アルバムとしては6つ目の作品である。そのジャケットからみると、良く売れた前作『アイ・キャン・シー・フォーエヴァー』の二番煎じ的印象が強い。けれど、内容には前作との違いを感じる。良くも悪くも演奏がはじけているのだ。前作が夏のよそ風を感じさせたのに対して、本作はギラギラした夏を感じさせる。奔放な演奏だ。ギターのジョー・ベックという人はやはりうまい人なのだろう。ギターが全体をあおり、アレンのサックスがそれに応える。演奏がしだいに熱を帯びてくる。

 ちょっと暑苦しいサウンドだが、息子の試合の朝に聴くには悪くない。


ダブル・レインボウ

2007年05月25日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 168●

Joe Henderson

Double Rainbow

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 陽気のせいか、近頃ボサノヴァづいている私であるが、今日の一枚もボサノヴァがらみ……。ジョー・ヘンダーソンの1994年録音作品『ダブル・レインボウ』、アントニオ・カルロス・ジョビン曲集である。「ダブル」とは前半がブラジルのミュージシャンによる編成、後半はアメリカのジャズミュージシャンによる編成と、タイプの違う2つの編成からなっているところからきていると思われる。ジョビンの楽曲をボサノヴァ的な演奏とよりジャズにひきつけた演奏との2つの視点から取り上げたものだが、もしかしたらLPのA面B面を意識したものでもあるのかも知れない。

 好きな一枚である。ジョーヘンの穏やかで温かみのある音色は、ボサノヴァには結構あうのではなかろうか。スタン・ゲッツの影響を受けたジョーヘンであれば当然のことなのかもしれないが、実際彼は次のように語っている。

「実は自分に、ボサ・ノヴァに敏感な一面があると感じている。実に柔らかな一面だ。……柔らかな雰囲気というのは私のとって格別のものだ。そうした曲をレコーディングしている時の私は、自分自身にも周りの世界にも、実に平和なものを感じていた。」

 ところで、この作品はジョビンの追悼アルバムとして発表されたようだ。雑誌やブログの多くの紹介記事もそういっており、タイトルにも「ジョビンに捧ぐ」とある。しかし、CDの帯に「ジョビンへの深い敬愛と哀悼を込めてブロウするジョー・ヘンダーソン最高の快演」とあるのはどうだろう。ちょっといただけない。Wikipediaによれば、アントニオ・カルロス・ジョビンが亡くなったのは1994年12月8日だ。それに対してこの『ダブル・レインボウ』は1994年9月19~20日と1994年11月5~6日に録音されている。つまり、ジョビンの死以前に録音されているわけだ。それを「哀悼を込めてブロウする」とは言えないだろう。いい加減なことをいわないでもらいたい。おとなげない言い方だが、宣伝はまっとうに行ってもらいたいものだ。この作品は、ジョビン追悼アルバムとして《 発売 》されたが、ジョビンを《 追悼 》する演奏ではないということだ。

 最近知ったことだが、ジョーヘンは1970年代にはブラス・ロックの雄、あのブラッド・スウェト & ティアーズに在籍していたのですね。ちょっと意外だ。


打ち棄てられた庭

2007年05月22日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 167●

Michael Franks

Abandoned Garden

Watercolors0001_14  1995年に録音されたマイケル・フランクスのアントニオ・カルロス・ジョビンへのトリビュートアルバム『アバンダンド・ガーデン』である。ジョビンが心臓発作のために亡くなったのが1994年12月8日なので、約半年でこのアルバムをつくりあげたことになる。そうせずにはいられなかったのだろう。ジョビンは、マイケルにとってそれ程に重要な存在だったのだ。1970年代の名盤『スリーピング・ジプシー』に収録された有名曲「アントニオの歌」のアントニオとは、もちろんアントニオ・カルロス・ジョビンである。「アントニオの歌」でマイケルはこのように歌う。

 

  アントニオは自由に生きている男  

 

  アントニオは真実のために祈る

 

  アントニオは言う「僕たちの友情は100%真実だ」と

 

 さて、『アバンダンド・ガーデン』である。全編ボサノヴァ調に味付けされた良質のAORだ。お洒落でセンチメンタルで気分の良い曲が満載である。ジーンとくる曲、思わず身体を揺らせてステップを踏みたくなる曲、そよ風に吹かれたように気持ちの良い曲、深い詩の意味を考えさせられてしまう曲など、全編退屈せず一気に聴きとおすことができ、聴きあきすることがない。何より品がいい。中でも、最後の曲「アバンダンド・ガーデン」は、マイケル・フランクスのジョビンに対する思いがストレートに表現された感動的な詩である。穏やかで優しく温かなマイケルの声がかえって哀しみをつのらせる。

 

  あなたの打ち棄てられた庭に

 

  陽光は今も溢れて

 

  ジャスミンが芳ばしくトレリスに絡みつき

 

  ジャカランダの木が大きく揺れている

 

  あなたの手でひとつひとつ植えられた花たちは

 

  あなたが急に僕たちの前から姿を消したといっても

 

  そんな話を信じはしないだろう

 

  サンバが終わってもわかるんだ

 

  その声、そのピアノ、そのフルートの

 

  音の中にあなたはいるのだと

 

  そしてあなたの中の音楽は流れ続ける

 

  悲しくも今は亡きアントニオ

 

 「打ち棄てられた庭」ということばがいい。どうしようもない喪失感を感じさせる。失ってしまった後の空虚さの前に彼はただ立ち尽くし、その空虚さの中に失ってしまったものの面影を捜し求めている。生きるということは、いろいろなものを喪失していく過程でもある。40代も半ばをすぎると、しばしば喪失するということについて考えてしまうことがある。


最後の一葉……青春の太田裕美⑮

2007年05月21日 | 青春の太田裕美

Cimg1559_2    名作『12ページの詩集』収録の太田裕美を代表する名曲のひとつであり、6枚目のシングルとして1976年に発表されている。テレビでは、太田裕美のピアノがフューチャーされ、単なる歌謡曲アイドルではない、アーティーストとしてのイメージが強調された曲だった。「木綿のハンカチーフ」のヒットの後、「アーティストのテイストを加味したアイドル」の路線を進んだ太田裕美を考えるにあたって重要な作品である。アメリカの作家オー・ヘンリの短編小説『最後の一葉』をもじった詩はたいへん、ストーリー性のあるドラマチックなものであり、詩を聴かせるという点においては、「木綿のハンカチーフ」と同様の戦略なのかも知れない。 

  ※     ※ 

この手紙書いたらすぐに お見舞いに来て下さいね 

もう三日あなたを待って 窓ぎわの花も枯れたわ  

街中を秋のクレヨンが 足ばやに染めあげてます  

ハロー・グッバイ 悲しみ青春  

別れた方が あなたにとって  

倖せでしょう わがままですか 

  ※     ※ 

木枯らしが庭の枯れ葉を 運び去る白い冬です 

おでこにそっと手をあてて 熱いねとあなたは言った 

三冊の厚い日記が 三年の恋をつづります  

ハロー・グッバイ さよなら青春  

りんごの枝に 雪が降る頃 

命の糸が 切れそうなんです 

  ※     ※ 

生きて行く勇気をくれた レンガべいの最後の一葉 

ハロー・グッバイ ありがとう青春 

ハロー・グッバイ ありがとう青春 

凍える冬に 散らない木の葉  

あなたが描いた 絵だったんです 

  ※     ※ 

 感化を受けやすい高校生の私は、この曲によってO・ヘンリという作家を知り、ペーパーバックと辞書とラジカセを抱えて、よく裏山に出かけたものだ。青空の下でO・ヘンリを読むことが、私の英語の勉強だった。この後、私は英文でO・ヘンリの他の作品を読み、その興味は次第に他の作家にも広がっていった。ウィキペディアのよく整理された作品紹介(あらすじ)を参照しておこう。 

  ※     ※ 

ワシントン・スクエアの芸術家が住む古びたアパートに住むジョンジー(ジョアンナ)は、肺炎で寝込んでしまい生きる気力を失っていた。親友で同居人のスウはジョンジーを励まそうとするが、ジョンジーは窓の外の蔦の葉が落ちきると同時に自分も天に召されると信じ込んでおり、生きる気力を取り戻そうとしない。同じアパートに住む貧しい三流絵師のベアマン老人は、酒浸りのだらしない生活をしているぶっきらぼうな男だが、スウにジョンジーの病状を聞いてから何故か姿を現さなくなった。嵐の次の朝、二人の娘は壁にただ一枚残る蔦の葉を見つける。その葉は次の朝も壁に残っていて、ジョンジーはそれを見て生きる気力を取り戻した。実は、最後に残った葉はベアマン老人が嵐の中命がけで書いた最後の傑作であったが、ジョンジーは老人が肺炎で死んでから事実を知り泣き崩れる。 

  ※     ※ 

懐かしくも美しい話である。庶民の哀歓と生活の中の小さな幸せを描く作風は、今考えれば日本の1970年代の時代の雰囲気にマッチしていたのかもしれない。


ボッサ・アンティグア

2007年05月17日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 166●

Paul Desmond

Bossa Antigua

Scan10011_1  1964年録音のボッサ・ジャズの傑作、ポール・デズモンドの『ボッサ・アンティグア』。ポール・デズモンドといい、スタン・ゲッツといい、この時期にボサノヴァに接近したのは、黒くファンキーなジャズから、白人としてそれとは異なるスタイルを模索する過程でのことだったのではなかろうか。かなり昔のものだが、小野好恵との対談における村上春樹の次の発言は示唆的である。

 

「というか、結局イミテーションでしょう、当時のね。そういうのはわりに昔から好きなんですよ。内在的な必然というのが、黒人の場合には、歴史的というか人種的なものが一応あるわけですよ。白人の場合には借りものという感じがあるんですよ。やっぱりアーティフィシャルなものが好きだというかね。ナマのままのものというのはもうひとつしっくりこない。」(『ジャズの事典』冬樹社1983)

 つまり、黒人のジャズが歴史的人種的に内在的な必然性をもっているのに対して、白人のそれはいわば「借りもの」であり、イミテーションであるというのだ。村上自身は、白人のジャズをアーティフィシャルなものとして、好きだといっているわけである。

 

 ポール・デズモンドのアルトの特徴といえば、優しさ溢れるソフト&メロウな音色、都会的な軽い孤独感、誠実な人柄がにじみ出た雰囲気ということになろうか。ポール・デズモンドのプレイを聴いていつも感じるのは、「ファンキー」や「黒い」ということとは無縁の、あるいはその対極にある音の響きだということだ。パーカーの影響からすら、もっとも遠いところにあるといえるかもしれない。それはしいて言えば「白人的」といえるのかも知れないが、そういうことが憚られるほど、オリジナリティーに溢れる響きである。

 

 ポール・デズモンドの音は、誰が聴いてもポール・デズモンドの音なのだ。

 

[関連記事] ポール・デズモンド・カルテット 『ライブ』


彼女はカリオカ

2007年05月16日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 165●

Joao Gilberto

Ela E' Carioca

Watercolors_14  先日Liveでボサノヴァを聴いて以来、ボサノヴァがマイブームである。5月も中旬、わが東北地方もだいぶ陽気がよくなってきた。ボサノヴァ日和である。

 というわけで、今日の一枚は、ボサノヴァのオリジネイター、ジョアン・ジルベルトがメキシコ滞在中の1970年に録音した『彼女はカリオカ』である。心にしみる美しい作品だ。耳の側でささやくようなジョアンの声がたまらない。鳥肌が立つ。

 Bossa Novaはポルトガル語で「新しい感覚」、「新しい傾向」といった意味らしく、1950年代後半に、リオ・デ・ジャネイロの海岸地区に住む中産階級の学生やミュージシャンたちによって生み出された音楽だ。ボサノヴァの創始には、作曲家のアントニオ・カルロス・ジョビンや作詞家のヴィニシウス・ヂ・モライス、そして歌とギターのジョアン・ジルベルトの功績が大きい。特にジョアンは、、「ボサノヴァの神様」と呼ばれることもあり、バスルームに一日中閉じこもって、クラシックギターを弾きながら歌を歌い続け、サンバのリズムをギターだけで表現する独特の「ボッサ・ギター」の技法を発明したという伝説をもつ男だ。

 ボサノヴァのサウンドからはいつも涼しげな風が吹いてくるように感じる。だから私は、夏が近づくといつもボサノヴァを聴く。陽気のせいか、先日のLiveのせいか、今年はいつもより早くボサノヴァのシーズンがやってきたようだ。

[過去の記事] ジョアン・ジルベルト 『声とギター』


渋谷毅 & 平田王子

2007年05月14日 | 音楽

Watercolors0003_10  昨夜、しばらくぶりにLIVEに行ってきた。渋谷毅 (p)& 平田王子(g,vo) のデュオだ。たった2000円の入場料だったのだが、しばらくぶりに本格的なボサノヴァの生演奏を聴いた気がした。演奏曲は、平田のオリジナル(これが結構良かった)から「コルコヴァード」「波」「おいしい水」「イパネマの娘」などの有名曲にまで及び、平田が客のリクエストに答える一幕もあった。

 それにしても、渋谷毅は特異な存在感を放っていた。ジーンズによれよれのシャツとジャンパーを着た渋谷は、地元のさえないおじさんと区別するのが困難な風貌だった。実際、開演前に狭い会場の客席をうろうろしていた渋谷は、よく注意しなければおよそ音楽家であるとは誰も気づかなかっただろう。しかも、開演直前にマスターから日本酒(コップ酒だ)をもらって、それを飲みながら寡黙にピアノに向い、一曲終わるたびに、ピアノの上にぐちゃぐちゃに散乱した楽譜から次の曲目を探す姿は、何というか、デカダンスの香りのする独特の何ものかを感じないわけにはいかにかった。

 しかし、そんな渋谷の指先が奏でるピアノからは、流麗で端正な音色が響くのだから不思議なものである。平田が演奏しはじめても、渋谷はピアノの前に立ったままで、髪の毛をかきあげながらじっと楽譜を見つめている。これから展開する構想を考えているのだろうか。そのうち彼はおもむろに椅子に座り、平田の演奏に合わせていくのだが、これが抜群なのだ。端正で美しいオブリガードだ。ボサノヴァのピアノはかくあるべしみたいな演奏だった。目をつぶって聴いていると、もしかしたらスタン・ゲッツのサックスがアドリブを吹くのではないかと錯覚するほどだった。

 平田王子というミュージシャンは今まで知らなかったのだが、有名な人なのだろうか。「王子」はキミコと読むらしい。中々いい演奏をする人である。もう一度聴いてみたいと思わせる人だった。

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たそがれのベニス

2007年05月13日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 164●
The Modern Jazz Quartet

No Sun In Venice

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 ロジェ・ヴァディム監督の映画『大運河』のためにジョンルイスが書いた作品集である。といっても、サウンドトラックではなく、ちゃんとMJQがアルバムとして録音したものである。録音は1957年。『大運河』という映画は、残念ながらというべきか、見たことはないが、かつてかの筑紫哲也さんがこの映画について、映画はつまらなかったが音楽だけがすごく良かった旨の発言をしているのを読んで、映画を見る気をなくしてしまった。

 そういえば、最近まともに映画を見ていない。学生時代は三軒茶屋にあった名画座にほとんど毎週のように通い、映画通を自認していたのだが……。下宿のあった三軒茶屋には映画館が3つあり、新しいラインナップになるたびに通っていたので、数年間で相当の数の映画を見た計算になる。就職をして忙しさに振り回されるにつれて、いつしか映画を見る機会が少なくなり、気がついたらまったく見なくなっていた。十年ほど前、そんな自分にやるせなさを感じて、妻に内緒で毎週隣町の映画館に通っていた時期もあったのだが、その映画館も閉館してしまい、今ではたまに家族で、『クレヨンしんちゃん』や『ドラエもん』などのこども映画を見に行くのみである。DVD等のメディアで視聴する方法もあるのだろうが、根っからのせっかちと落ち着きのなさで、家では2時間もじっと座っていることができない。たまにケーブルテレビで見るぐらいである。人間とはそうして若い日々の大切なものを失っていくのだろうか……。

 さて、MJQはあまり好きではなかった。LPやCDも数枚所有するのみである。何というか、退屈なのである。それはもちろん、ジョン・ルイスやミルト・ジャクソンのこと、じっくり聴けば刺激的な部分もあるのだが、やはり室内楽的で格調の高い全体の雰囲気が、どうもおとなしすぎて退屈な感が否めなかったのだ。もう十数年前だろうか、仙台で秋吉敏子とジョン・ルイスのピアノ・デュオを聴いて、もう一度MJQを聴いてみようかという気になり、それ以来たまにではあるが、トレイにのるようになった。名盤の誉れ高いこの『たそがれのベニス』は中でも好きな作品だ。② 「ひとしれず」の静謐な感じがたまらない。


ピース・ピース

2007年05月09日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 163●

Everybody Digs Bill Evans

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 アルバムジャケットに、署名入りで4人のミュージシャンの賛辞の言葉が記されている。新進気鋭の若手ピアニストに対する言葉としては異例である。直訳すると次のようになるのだろうか。

「私はビル・エヴァンスから本当に多くのことを学んだ。彼はそれが演奏されるべきようにピアノを演奏するのだ。」(マイルス・デイヴィス)

「ビル・エヴァンスは最近私が聴いた最も新鮮なピアニストのひとりである。」(ジョージ・シアリング)

「私は、ビル・エヴァンスは最高の1人だと考える。」(アーマッド・ジャマル)

「ビル・エヴァンスは類稀な独創性と味わい、そしてプレイすべき最終的な方法と思えるような曲の着想を作れる本当に稀有な能力を持ってる。」(ジュリアン・キャノンボール・アダレイ)

 ビル・エヴァンスの1958年録音盤『エブリバディ・ディグス・ビル・エヴァンス』。大好きな一枚だ。極私的名盤といっても良い。もちもんそりなりの世間的評価を得ている作品ではあるが、私としてはまだまだ十分な(正当な)評価を得ているとは思わない。ビル・エヴァンスの諸作品は多くの場合、スコット・ラファロ入りのリバーサイド諸作品との関連で語られ、この作品にしてもそれへのステップのひとつとして論じられがちである。この作品のすばらしさは、キャノンボール・アダレイのいうように類稀な独創性と味わい深さ、そして稀有な構想力にある。油井正一『ジャズ ベスト・レコード・コレクション』(新潮文庫)は主な作品を録音年順に並べて紹介している本であるが(この本に『エブリバディ・ディグス・ビル・エヴァンス』が紹介されていないのは本当に残念である)、この作品が録音された1958年ごろの他のミュージシャンの作品と比べてみると、エヴァンスのこの作品が革命的な新しさをもっていることは歴然としている。何せ時代はハードバップの花盛りなのである。そしてそれは、あの伝説的な翌1959年の諸作品と比べても少しも色褪せることはない。特に「ピース・ピース」をはじめ何曲かのゆっくりとしたテンポの曲たちは、のちのエヴァンス作品と比べても(もちろん他のミュージシャンの演奏とくらべても)、勝るとも劣らない素晴らしい出来である(トリオ演奏もなかなかであるが……)。そこには、のちの60年代メインストリームジャズへの影響が見て取られ、1950年代と1960年代の切れ目を感じされる演奏でもある。「ピース・ピース」の優雅でたおやかな左手の流れを聴いていると、そのあまりの浮遊感に、どこか知らない場所に連れて行かれたようなt感覚に包まれる。そこは、本当に知らなかったような、穏やかな時間が流れる場所だ。私は、身も心も音楽にゆだね、思いはその見知らぬ場所を駆け巡る。


モンクの鼻歌

2007年05月06日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 162●

Thelonious Monk

Solo Monk

Watercolors_13  GWも今日でおしまいなのですね、といっても、私は昨日だけがオフであとは仕事、今日もこれから仕事です。それでも、普段よりはずっと時間的にも精神的にも余裕があったわけで、それなりにリラックスはしたわけです。

 リラックスということで、1964-65年録音のセロニアス・モンク『ソロ・モンク』。モンク晩年の作品で、最後のソロ・アルバムらしい。とてもリラックスした、親しみ易く、聴きやすい一枚である。平均律の呪縛から脱出しようとした孤高のピアニストなどという難しいことを想起する必要はまったくなし。「ズンチャ、ズンチャ」というラグタイム風の左手のスライド奏法にあわせて、右手からは素朴でほほえましく、どかこか懐かしいメロディーが聴こえてくる。これはモンクの鼻歌だ。我々はその鼻歌にあわせて、これまた鼻歌をハミングすればよし。

 しかし、考えてみれば平均律の呪縛からの脱出などといったって多くのファンには大きな問題ではなく、モンクの音楽の背後にはいつも鼻歌が流れていたのではなかろうか。それが一見小難しい音楽に見えながら、多くの人がモンクに魅せられる理由なのではなかったか。むしろそのオリジナルな鼻歌に「平均律からの脱出」が必要だったからモンクはそれをやろうとしたのだろう。私がモンクを聴いていていつも共感するのは、演奏の背後に通低音のように流れる鼻歌の部分なのだ。

 


しーそー

2007年05月05日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 161●

渋谷毅 & 森山威男

See - Saw (しーそー)

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 今日の二枚目。たまには日本のジャズもいい。渋谷毅(p) & 森山威男(ds)の2001年録音盤『しーそー』、ピアノとドラムスという異色のデュオ作品だ。

 帯の宣伝文句に「懐かしいけど刺激的」とあるとおりの作品だ。曲目にはスタンダード・ナンバーあるいは日本の懐かしの曲が並び、原曲のイメージを大切にした演奏が展開される。それでも退屈しないのは、森山威男の意表をついたドラミングである。渋谷は作編曲家らしく、原曲の雰囲気を損なうことなく、美しく、懐かしい旋律を奏でていく。そのピアノに森山のドラムがちょっかいをだしていくという展開だ。森山のドラムはもはやリズム楽器ではなく、それ自体が芸術的な表現の手段であるかのように旋律に割り込んでいく。それは時に渋谷を挑発し、時に絶妙のアクセントをつける。あるいは時にピアノの前に立ちはだかり、そして時にピアノと合流して溶け合う。渋谷のピアノは、森山を受け止めながらも、まるでそのちょっかいを気にしていないかのように自然にあくまで自然に流れ続ける。まったく、不思議な演奏である。

 ドラムという楽器の、あるいは表現手段としての打楽器の《 力 》 を見せつけられたような一枚である。

[追記]

 近々、私の住む街の小さなジャズ喫茶に渋谷毅が来るらしい。5/13(日)とのことだ。時間があったら是非いってみたいものだ。何と入場料は、たったの2,000円だ。


再会

2007年05月05日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 160●

Art Pepper

Among Friends

Watercolors0012_1  悪いが気持ちの悪いジャケットだ。全体の構図はすっきりしてお洒落なのだが、何といってもラス・フリーマンがアート・ペッバーにチューしているのがいけない。若い頃のハンサムなペッパーならまだしも、すっかり姿形が変わってしまったおじさん二人である。よく見ると、さらに気持ち悪い。(興味のある方は写真をクリックして拡大してください)

 1978年録音のアートペッパー『再会』。1950年代の若き日々に何度も競演したラス・フリーマン(p) とフランク・バトラー(ds) を迎えての録音作品だ。そのジャケットのせいもあるのだろうか、私はこの後期ペッパーの快作といわれるアルバムを数度聴いたきりでCD棚の片隅にずいぶん長い間放置してきた。刺激されることの少ない退屈な作品と思われたのである。選曲が有名曲ばかりであることや、ペッパーの演奏があまりに快調でわかりやす過ぎたということも原因したのかもしれない。

 しばらくぶりに聴いてみた『再会』はずいぶん違った印象だった。ローリー夫人は、録音当時「このアルバムはアートのカムバック後のベスト・アルバムになるわよ」といったそうだが、その言葉もうなずけるものだった。たまたま妻や子が不在ということもあり、音量を上げて比較的至近距離で聴いたのだが、ベースのドライブ感がすごい。当時新進気鋭の若手ベーシストだったボブ・マグヌッセンがかなり自己主張している。当のペッパーも絶好調で、旧友たちを迎えてやる気満々な感じが伝わってくる。アルトの音色は弾けるように張りがあり、アドリブも滞ることなくスムーズである。そして何より、よく歌っている。麻薬によって失われた長い長い日々を取り戻すかのように、ペッパーのアルトはいつになくエキサイティングだ。

 なぜ、こういう作品を見逃していたのだろうと考えたりもするのだが、年齢とともに嗜好が変わり、あるいは見えなかったものが見えてくる、聴こえなかったものが聴こえてくるというのもジャズ聴きの醍醐味のひとつだとも思う。

 今日は「こどもの日」。仕事もオフだ。これからクルマで一時間ほどの妻の実家に妻や子を迎えに行き、そのまま日帰りの家族サービスだ。二日酔いのお父さんも辛いが、子ども達と遊べることは何より楽しみだ。


サキソフォン・コロッサス

2007年05月04日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 159●

Sonny Rollins

Saxophone Colossus

Watercolors0011_1  ソニー・ロリンズ畢生の名演にして誰もが最高傑作と疑わない1956年録音盤『サキソフォン・コロッサス』。

 信じられないことだが、私はこの大名盤を所有していなかった。ジャズをおぼえたての頃、何十回と繰り返し聴き、その後も折に触れて聴いてきたのだが、LPもCDも所有していなかったのだ。貧しい学生時代、貸しレコード屋(レンタルCDショップではない)で借りたLPをカセットテープ(TDKのADだ)に録音したものをずっと聴き続けてきたのだ。後藤雅洋『新ジャズの名演・名盤』(講談社現代新書)にはこの「サキソフォン・コロッサス」について次のような話が載っている。

「……しかし、これだけその存在が喧伝されてしまうと、"通"を気取るマニアはかえって手を出しかねて、何千枚ものコレクションを誇りながら、いまだにこの一枚を買いそびれているというウソのような話もある。確かにジャズファンにとっての「サキコロ」は、いい年をしたオジサンが漱石の『坊ちゃん』を買うような気恥ずかしさがついてまわる。」

 私もこのうちのひとりなのだろうか。"通"を気取っているつもりはないのだが、ブログにジャズの話題など書いているのだから、そう思われても仕方ない。ただ、実際には限られた資金でLPやCDを買うのだから、まだ聴いたことのないものを買いたかったというのが、本当のところだと思う。実は私にはそのようなアルバムが他にもいくつかあり、今回、ユニバーサル・クラシックス&ジャズからジャズ・ザ・ベスト超限定¥1,100 がでたということで、HMVのポイントも有効に使って、10枚ほど購入してみた。

 さて、CDで聴くしばらくぶりの『サキソフォン・コロッサス』。マックス・ローチのドラムの音が鮮度が良い。あれっ、マックス・ローチの存在はこんなにおおきかったっけ、と思わせるほどだ。そして酌めども尽きぬロリンズのアドリブ。昨日届いたばかりのCDなのだが、もう4回も通して聴いている。たまたま妻や子が実家に行っていることもあって、大音響だ。ジャズをおぼえたての学生時代のように、音の洪水に酔いしれる。音楽を聴くことの原初的な喜びが身体から溢れ出てきそうだ。友人と飲みにいくまでまだ1時間程ある。もう一回通して聴いてみようか。


Tiger In The Rain

2007年05月03日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 158●

Michael Franks

Tiger In The Rain

Watercolors0010_2  今日からGW後半の4連休、といっても私は仕事だが……。けれども、世の中が休日だということで、心はかなりリラックスしている。今、朝の5時だ。昨日の雨も上がり、爽やかな太陽が顔をだしている。わが東北地方でももうそろそろ田植えが始まるのだろうか、家の側の水田も代掻きをおえ、農家の人たちが忙しそうに田植えの準備をしている。牧歌的な光景だ。そんな風景は私を穏やかな気持ちにしてくれる。

 そんな穏やかな朝には、AORの推進者、マイケル・フランクスの1978年作品『タイガー・イン・ザ・レイン』。印象的なジャケットと優しさ溢れるサウンドで、数あるマイケル・フランクス作品の中でも五指に入る(?)アルバムである。しばらくぶりに聴いたが、やはりいい作品だ。時折聴こえる印象的で瑞々しいピアノは何とケニー・バロン、参加ミュージシャンをよく見るとベースもロン・カーターだ。他にもジャズ・ミュージシャンが多く参加している。

 1970年代後半からAORが登場したことは、やはり社会の変化を反映しているのであろう。ロック・ミュージックも、それまでのカウンター・カルチャーを背景にした「肉体的な」ロックから、音楽自体が価値をもつようなあるいはそれが生活のクオリティーを上げる装置のひとつへと変化したのだ。それはおそらくは、到来した「ゆたかな社会」が人々に「選択の自由」をもたらしたということと無関係ではあるまい。

つづく


To The Little Radio

2007年05月02日 | 今日の一枚(G-H)

●今日の一枚 157●

Helge Lien

To The Little Radio

Watercolors0009_2  最初から何と優しい響きなのだろう。① Grandfathers Waltz 、温かく優しい音色の歌心溢れる演奏だ。何か懐かしさを感じさせる旋律に、ああ、私はこういう優しいメロディーを聴きたかったのだ、などと感慨に浸り、忘れ物を見つけたような妙な自己満足をしてしまう。② Look For The Silver Lining は一転して音の隙間をうまく使った静謐なサウンド。キース・ジャレットのスタンダーズを思わせる。時間がゆっくりと流れていくように感じられる。

 ヘルゲ・リエンの2006年録音盤『トゥ・ザ・リトル・ラジオ』である。ヘルゲ・リエンは1975年ノルウェー生まれのピアニストで、ピンク・フロイドから最初の音楽的影響を受け、16歳でクラシックに転向、オスカー・ピーターソンを聞いてJazzの世界に進んだという人だ。私は、比較的はやい時期にたまたまヘルゲ・リエンを知り、日本でのデビューアルバムからフォローしてきた。彼のピアノの特色は、繊細なタッチと深遠な響きだ。たまにちょっと難しい世界を描こうとするのが気がかりだが、決して難解な音楽ではない。多くの人が認めるように、すごく才能のある人で、これまでにもいい作品を発表してきたが、このスタンダード集におよんで溢れんばかりの歌心を披露した。

 CD帯の宣伝文句、「ピアノ・トリオの傑作。ヘルゲ・リエンのスタンダード&ジャズ・ナンバー集。溢れ出る旋律美。そして溢れ出る涙。」

 異存はないが、ちょっと大げさだ。けれども、このことでこのアルバムの価値が下がるものではない。

  ※一部に過去の記事を転載しました。