WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

Blues In The Closet

2009年02月15日 | 今日の一枚(A-B)

◎今日の一枚 233◎

Bud Powell

Blues In The Closet

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 美しいジャケットだ。秀逸である。印象的なJazzアルバムのジャケットはいくつもあるが、これほどまでに美しく素敵なものはなかなかない。この際、内容はどうでもいい。ジャケットをじっと見ていたい。ジャケットの素晴らしさゆえに、敢えて紙ジャケCDを買ったが、できればLPが欲しい。レコードの大きなサイズでこのジャケットをじっと見ていたい。黒と青のコントラストが素晴らしい。黒い部分の艶やかさがこのジャケットの美しさを際立てていると思う。だから取り扱いの際には、指紋がつかぬよう細心の注意をしている。

 バド・パウエルの1956年録音盤、『ブルース・イン・ザ・クローゼット』だ。ジャケットのあまりの素晴らしさゆえに内容はどうでもいいなどといったが、演奏の方もどうして悪くはない。十分に歌心のある演奏であり、何よりビートにのっている感じがいい。紙ジャケCDの帯にも「一期一会のリズム・セクションと共に滋味溢れるプレイを繰り広げる、バド・パウエル好調期の姿を捉えた快演集!!」と書かれている。正直言えば、今ひとつスピード感が感じられないところにやや物足りなさを感じるのであるが、ジャケットの素晴らしさと、ベースのレイ・ブラウン、ドラムスのオジー・ジョンソンのハッスルぶりがそれを補っている……、としよう。


民衆の歌

2009年02月14日 | 今日の一枚(G-H)

◎今日の一枚 232◎

Giovanni Mirabassi

AVANTI !

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 フランスで活躍するイタリア人ピアニスト、ジョバンニ・ミラバッシの2000年録音澤野工房盤『AVANTI !』である。ピアノソロアルバムだ。以前記したように、ジョバンニ・ミラバッシを知ったのは、半年ほど前に澤野工房の懸賞で粗品ライブアルバムを手に入れてからである。以来、ずっと気になっていたのだが、今回やっと購入することができた。

 しみじみとした静かな感動に心が満たされる。付属のやや厚いブックレットには、世界各地の兵士や民衆、あるいは農婦やゲリラや革命家の写真が写されている。アルバムに収められた曲は、革命歌や反戦歌であり、民衆の生活の歌である。ジョバンニ・ミラバッシは、それらをただ淡々と、しかし静かな愛情を込めて奏でていく。各曲はみな短い、世界各地の歌である。しかし、そこには不思議な統一感がある。それは、民衆的世界の何がしかのイメージなのだろうか。あるいは、ジョバンニ・ミラバッシの個性なのだろうか。

 北見柊氏による付属のライナーノーツに次のような箇所がある。

「ここに集められた歌たちは時と場所こそ違え、多くの人々に『人生の一部』として歌われたものだ。人は苦しいにつけ悲しいにつけ歌うのだな、としみじみ思うが、逆境にあっての歌ほどにシンプルな美しさ、切なさを秘めている。きっそこにはやむにやまれぬ『こころ』が込められているからだ。おそらく、立場や思想を超えたところにあるその『こころ』をミラバッシは表現しようとしたのだろう。そう考えてブックレットを眺めるとき、彼の想いは更に染みてくるようだ。それは何か祈りに似ている。」

 なかなか考えさせられる一文である。


WATARASE

2009年02月13日 | 今日の一枚(I-J)

◎今日の一枚 231◎

Fumio Itabashi(板橋文夫)

WATARASE

(板橋文夫アンソロジー WATARASE)

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 興奮している。昨日届いたCDを聴いている。まだ通して聴いていないのに、もうこの文を書いている。それほどまでに興奮しているのだ。聴いているのは、板橋文夫の『板橋文夫アンソロジーWATARASE』という作品だ。発売されたのは2005年、2枚組みCDである。DISK1は板橋のベスト集、DISK2は名曲「WATARASE」の異なるバージョンが7つ入っている。DISK2に収録されているのは、なんと「WATARASE」だけだ。「WATARASE」はDISK1の冒頭にも収録されているから、「WATARASE」だけでなんと8バージョン入っていることになる。繰り返すが、「WATARASE」だけで8バージョンだ。一体、こんなアルバムを誰が買うのだろうか。よほどの板橋文夫ファンか「WATARASE」ファンであろう。そして、私はそれを買ったということだ。3150円だった。迷うことはなかった。そして、それを買い、聴いた今、私は興奮している。

 以前にも記したことではあるが(→『WATARASE』、『一月三舟』)、10年程前、隣町の小さなホールで見た板橋のコンサートは、衝撃的だった。板橋の演奏を聴いたのはその時がはじめてだった。板橋の演奏はすざまじかった。左手が創り出すうねるようなビートの中で、右手のメロディーが自由自在にかけめぐっていく。時折使用するピアニカ(鍵盤ハーモニカだ)の演奏がまた凄かった。ブルースフィーリング溢れる響きだ。魂が入ると、ピアニカなどという楽器があれほどまでに輝かしいサウンドをつくりだすとは、はっきりいって信じられなかった。金子友紀という若い民謡歌手が一緒だったが、彼女の歌う「WATARASE」が実に感動的だったのだ。民謡歌手の歌にあれ程の感動を受けるとは予想だにしなかった。それ以来、この民謡歌手の歌う「WATARASE」をずっと探していたのだ。10年もの間だ。そして、このアルバムには民謡歌手の歌う「WATARASE」が入っている。DISK2-⑥ 「交響詩『渡良瀬』~ピアノと民謡と交響楽のための」がそれだ。歌っているのはもちろん、金子友紀だ。

 10年ぶりに聴く、民謡歌手の歌う「WATARASE」いや「渡良瀬」は、私の期待を裏切らなかった。私の聴いたコンサートの時のものより、ずっと声が伸びやかで透き通っているように思う。この演奏を聴いて、「ああ、やはり私も日本人なのだ」などという感慨を私は持たない。そんな奴は下劣な人間なのだと私ははっきりと確信をもって思う。「日本」や「日本的」なものなどというものは、アプリオリに存在するものではない。はじめからあるものではないのだ。「日本」などという偏狭なもの以前のもっと土着的な感受性がそこにはある。重要なのは、そういったビートや旋律がそこにあるということだ。死んでしまった網野善彦にならっていえば、それは日本列島に育った音楽なのであり、「日本的」なものなどでは決してないということだ。

 このアルバムには他にも魅惑的な「WATARASE」が数多く収録されている。何せ、繰り返すが、「WATARASE」だけで8バージョン入っているのだ。ひとつひとつの「WATARASE」を聴くたびに、驚きと発見の連続である。「演奏」とは、これほどまでに曲に魂を吹き込むものなのか。そのどれもが、個性的で、刺激的で、感動的である。「WATARASE」が8バージョンも収録され、しかもDISK2はすべて「WATARASE」だけであるという異常事態にもかかわらず、恐らく私は、これからもこのアルバムを、とくにそのDISK2を何度も再生装置のトレイにのせるだろう。それほどまでにこのアルバムは感動的であり、そして私は、「WATARASE」という曲が好きなのだ。


Forest Flower

2009年02月12日 | 今日の一枚(C-D)

◎今日の一枚 230◎

Charles Lloyd

Forest Flower

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 チャールス・ロイドの『フォレスト・フラワー』、1966年のモントルー・ジャズ・フェスティバルの実況録音盤だ。1960年代中期以降、ジャズの伝統にのっとりながらも、それまでのジャズが持ち得なかった様々な新しい要素を取り入れ、斬新な演奏を行った「新主流派」と呼ばれるムーブメント。チャールス・ロイドもその時代の空気をいっぱいに吸い込んだ、中心的音楽家のひとりだ。実際、このアルバムは当時の若きジャズファンの間では、一種のバイブル的存在になっていたようで、かなりのセールスを記録したようだ(『名演!Modern Jazz』講談社:1987)。

 また、キース・ジャレット、セシル・マクビー、ジャック・ディジョネットという、80年代のジャズ界を代表する面々の、若き日の大胆で奔放な演奏が聴けるのも、この作品の魅力のひとつだ。このアルバムにおけるキースは、どこかつっぱっていて自分のテクニックをひけらかすような背伸びしたところを感じるが、やはり流れるような指づかいと斬新な音づかいは、溢れ出んばかりの才能を感じさせる。私がこのアルバムを聴いたのは、録音されてから約20年もたった1980年代の後半だったが、ピアノを弾いているのがキースとは知らず、「何だ!この斬新で才能溢れるピアニストは……」などと興奮気味に思ったものだ。

 けれど、私が今でも時々このアルバムをターンテーブルにのせるのは、大好きなキースのピアノを聴くためではない。目的は、チャールス・ロイドその人である。彼の浮遊感のある、アンニュイな感じのサックスが何ともいえず、味わい深いのだ。ちょっとかすれぎみの、時に消え入りそうな静けさを湛えつつ、しかもしっかりと自己主張して存在感のある、ロイドのサックスを聴いていると、ジャック・ディジョネットのちょっとうるさいドラミングにもかかわらず、不思議な癒しの感覚を憶える。近年の傑作、『The Water Is Wide』につながるような、深淵で静謐な世界を垣間見ることができるのだ。


アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ

2009年02月11日 | 今日の一枚(M-N)

◎今日の一枚 229◎

Neil Young

After The Gold Rush

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 今日は古いロックを聴いてみようと決め、CD棚から偶然手に取ったのがこの作品だった。そういえば、最近、二ール・ヤングはどうしているのかなと思いwebを検索してみると、Wikipediaには、1990年のの湾岸戦争の際には、コンサート会場でボブ・ディランの「風に吹かれて」を歌い、2001年の「9月11日事件」直後には、放送が自粛されていたジョン・レノンの「イマジン」を敢えて歌い、そしてイラク戦争後は、ブッシュ政権打倒の姿勢を鮮明にするなど、アメリカ国内の保守化や右傾化に対して「異議申し立て」の姿勢を貫いている、とあった。すごい人だ。さすがニール・ヤングだ。

 ニール・ヤングの1970年作品『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』、初期の傑作というべきだろう。二ール・ヤングの最大の魅力は、例えば渋谷陽一氏が「率直な表現と粗ずりな曲構成」「ゴツゴツとした洗いざらしのジーンズみたいなものに例えられる」(『ロック ベスト・アルバム・セレクション』新潮文庫:1988)というように、その素朴さ、シンプルさ、直截さにあるのだと思う。実際曲を聴いていると、メロディーの展開が「えっ、ほんとうにそっちへ行っちゃうの」「それではあんまりシンプルすぎるんじゃ……」と思うことがよくある。歌詞にしても、例えば南部の黒人差別を唄ったSouthern man の「南部の人よ、落ち着いたほうがいいよ 聖書の教えを忘れちゃだめだ 南部もとうとう変わるんだ あんたの十字架も凄い勢いで燃え落ちて行く 南部の人よ」という具合に直球勝負だ。

 しかし、私が今ニール・ヤングを聴いて感じるのは心地よさだ。暖かい毛布で包み込まれたような心地よい感覚だ。社会的なメッセージを直截的な言葉で歌うニール・ヤングを聴く姿勢としては正しいものではないのかもしれない。私は二ール・ヤングの良い聴き手ではないのだろう。私がこのアルバムをはじめて聴いたのは、アルバムが発表されてから10年程経過した1980年代の初頭だった。この心地よい感覚は当時からあり、その後ますます強まっていくように思う。時代がかわってしまったということなのだろうか。過ぎ去ってしまった時代へのノスタルジーなのだろうか。けれど、この心地よさはどうしようもないのだ。天気の良い休日の午後、私は陽のあたるテラスで、コーヒーを淹れ、古い小説を読みながらニール・ヤングを聴く。


血の轍

2009年02月11日 | 今日の一枚(A-B)

◎今日の一枚 228◎

Bob Dylan

Blood On The Tracks

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 今日は古いロックを聴くことにした。1960年代のディランもいいが、70年代のディランは音楽的にもその詩の世界においても、より成熟を感じさせていい。

 ボブ・ディランの1975年作品、『血の轍(Blood On The Tracks)』、ディランの70年代最高の作品ともいわれるアルバムである。ザ・バンドとの共演よってロック色を強めた70年代のディランだったが、ここではアコースティックギターをも導入した穏やかなフォークロックのサウンドにのせて、さまざまな人間関係が歌われている。1970年代の、正確にいうな60年代後半以降のディランの詩の世界は、例えば北中正和氏が「フォークソングのドキュメント調の歌や"われわれ"を主語にしたものから、"私"を主語にして個人の内面のあつれきや感情の複雑な動きやドラッグ体験のイメージを語るものへと変化していた」(『ロック スーパースターの軌跡』講談社現代新書:1985)と語るように、より独我論的な方向性を示していた。そこには、怒りや悲しみ、憎しみ、恨みなどの激しい感情が渦巻き、時に辛辣で冷酷なものでさえある。比喩的な表現が多く使われる詩の世界ではあるが、時折あまりに直截的言葉が使われたりしてドキッとすることもある。

 アルバム全体に、詩的にも、サウンド的にもどこか不思議な統一感のある作品だが、やはり70年代のライク・ア・ローリング・ストーンともいわれる名曲「愚かなる風」が印象的だ。前奏なしでいきなり始まるサウンドは衝撃的であるが、その後につづくのはリズミカルで美しいメロディーである。その詩の世界については、ピート・ハミル氏によるオリジナル盤ライナーノーツの卓越した論評があるのでその一部を紹介しておく。

「これは生存者の怒りを唄った激しい、血も涙もない詩で、いまだかつてレコードには表されたことがないほど個人的なものである。だが、これは同時に、侵略され、操られ、捕らえられ、パッケージ詰めにされたと感じているすべての人々、つまり、ペストとの戦いを一度は経験したすべての人々、そして、憎悪という屈辱に一度は足を踏み入れたすべての人々に捧げる哀歌なのである。……」

 ところで、このアルバムを名盤たらしめているのは、最後の「雨のバケツ」という曲の存在ではないかと思えてならない。アコーステックギターひとつで「生きることはかなしいよ 生きることはさわぎだよ」と唄われるシンプルなサウンドを聴いていると、不思議に穏やかで優しい気持ちになってくるのだ。


聖なる館

2009年02月09日 | 今日の一枚(K-L)

◎今日の一枚 227◎

Led Zeppelin

House Of The Holy

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 先日、NHKで「ロック黄金時代」なる番組の3話分一挙放送をみた。ゲストコメンテーターや一般参加者が自分たちの好きな60~70年代のロックについて語り合うという趣向だった。内容はいまいち濃いものではなかったが、ある時期同じような音楽を共有したいわば"共犯関係"のような奇妙な連帯感を楽しむことはできた。冒頭から、ピンク・フロイドが話題の中心になるあたりがなかなか良かったが、第2話のスーパーロックギタリスト特集でしばらくぶりにジミー・ペイジの名を聞き、無性に聴きたくなった。

 レッド・ツェッペリンは好きだった。少なくとも、ディープ・パープルなどより遥かに音楽性が高いと考えていた。ただ、ギター少年としてジェフ・ベック派を自認していた私は、ジミー・ペイジの良い聴き手ではなかったかも知れない。しかし、印象的でかっこいいリフやギターソロのドラマチックな構成など、ペイジのギターには魅了されたものだ。 番組中、萩原健太氏がペイジはベックやクラプトンに比べてギターテクニックとしてはワンランク落ちる旨の発言をしていたが、そうなのだろうか。よくわからない。ただ、ペイジの企画力・構成力・発想力が優れているという点は納得できる。また、ツェッペリンでの成功が強烈な印象となり、その後のギタリストとしての展開・発展のさまたげになったという点もその通りだろう。それほどにまで、ツェッペリンにおけるペイジのギター・プレイは印象的である。

 ツェッペリンの多くの名盤の中から私がターンテーブルにのせたのは、1973年作品、『聖なる館』だ。ペイジのギターを思い起こして真っ先に頭に浮かんだのは、「レイン・ソング」だったからだ。「レイン・ソング」……。美しい曲だ。全編がペイジの印象的で美しいギターを中心に構成されている。アコースティックギターをも駆使したペイジのプレイが曲の骨格となり、演奏を引っ張っていく。ボーカルは完全に脇役である。少なくとも、サウンドを構成する1パートに過ぎない。聴き終って、耳に残り口ずさみたくなるのは、ボーカルではなくペイジのギターだ。このようなギターを弾くペイジが私は好きだ。リッチー・ブラックモアには決して弾くことができないギターだ。ベックやクラプトンにも無理だろう。

 ロックを聴かなくなって数十年だが、「レイン・ソング」の美しいサウンドは今も私の耳に残っている。ギターの展開を今でもほぼ正確に口ずさめるほどだ。しばらくぶりに聴いた「レイン・ソング」だが、やはり私の期待を裏切らなかった。最初の一音を聴いただけで、心がとろけそうになる。いいものはいい、などという感情的な物言いは私の性には合わないのだが、少なくとも、いいものは決して色褪せないということを証明するような一曲である。