WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

AOR

2006年09月29日 | 今日の一枚(various artist)

●今日の一枚 59●

The Best Of AOR  ”Melodies”

Scan10012_9  たまにはこんな音楽を聴くのもいいのではないか。懐かしのAORだ。AORとは、Adult Oriented Rock = 大人向けロックのことだ。

 コンピレーション・アルバムである。私はコンピレーション・アルバムをほとんど買わない。主義というほどのものではないが、演奏者が意図したちゃんとした作品を聴きたいと思っているからだ。にもかかわらず、このアルバムを購入したのは、数年前の長期出張の際、あまりの退屈さに辟易して、ふと見たスポーツ新聞にこのCDの宣伝が載っていたことがきっかけだ。マイケル・フランクス、クリストファー・クロス、アル・ジャロウ、シカゴ、ボビー・コールドウェル、リー・リトナー、ドナルド・フェイゲン、J.D.サウザー、TOTO、エア・サプライ、ボズ・スキャックス、アース・ウインド&ファイアー、プレイヤーズ……、懐かしく魅惑的な名前がならんでいた。すぐさま夜の街に飛び出し、CDショップを探し、このCDを手にいれた。そのCDは、主張中、パソコンのCDドライブでかけられることになった。

 私がAORに出会ったのは、ちょうどロックやブルースからジャズを聴き始める過度期だ。もしかしたら、AORがなければ、私の音楽生活はロックやブルースなど重くて暗いタイプの音楽に塗りつぶされていたかもしれない。硬直した思考や感性からも脱出できなかったかもしれない。その意味ではAORは「恩人」である。今、AORを聴くことはほとんどないが、だからこそAORは私にとっての青春の音楽なのかもしれない。今でも私の中では、AORは、ほらもっと肩の力をぬいて感じていいんだよ、といっているようだ。

 それにしても、プレイヤーズの「ベビー・カムバック」。いいですねえ……。


グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲

2006年09月29日 | 今日の一枚(G-H)

●今日の一枚 58●

Glenn Gould    

Bach : Goldberg Variations

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 グレン・グールドが脳卒中のため亡くなったのは、1982年だった。この作品はグールド最後のアルバムである。奇しくも、1955年に録音した彼の初アルバムと同じタイトルだ。周知のように、グールドは人気の絶頂期である1964年一切のコンサートの拒否宣言を行い、以後レコーディングに専念することになる。「客の咳払いやくしゃみ、ヒソヒソ声が気になって演奏に集中できない」ので、より演奏に集中するためという理由らしい。

 私がグールドの演奏に惹かれるのは、その演奏が「歌心」に支えられていると思うからだ。クラシックに精通しているわけではないので適切な表現ではないかも知れないが、どんなに高度な演奏をしようと、彼の演奏の底流に独特の歌が流れているのを感じることができる。例えば、彼独特の「鼻歌」だ。グールドはピアノを弾きながら(まるでキース・ジャレットのように)、恐らくは彼の心の中に生起するメロディーを口ずさむ。多くの評論家はそれに対して批判的であるが、私の中にはその「鼻歌」が「鼻歌」としてすんなり入ってくるのだ。その素朴なメロディーに魅了され、つい一緒に口ずさんでしまうこともしばしばだ。

 「歌心」を感じることができるのは、恐らくは独特のタイム感覚のためだ。例えば、この晩年の『ゴールドベルク変奏曲』の冒頭部分はどうだろう。初録音の同じ曲の演奏はもちろん、他のどのピアニストも、このようなゆっくりとしたスピードの演奏をしたことがあっただろうか。このゆっくりと、本当にゆっくりとしたスピードの演奏が、すんなりと私の身体の中に入ってくるのだ。生理的なリズムに合致しているのだろうか、身体の中で旋律とビートが私の中の何ものかに同化して溶け合うのがわかる。音楽に身をゆだね、大げさに言えば、無我の境地になるような気さえする。

 クラシックという音楽を批評するほど聴きこんでいるわけではないが、「音楽」として稀有な一枚であることは、恐らくは間違いないであろう。

 間違いない。

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↓ここで晩年の『ゴールドベルク変奏曲』が聴けます↓

http://windshoes.new21.org/classic-gould.htm

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↓このページの グールド紹介は、結構面白い↓

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/gould.html


立原正秋箴言集(2)

2006年09月27日 | 立原正秋箴言集

組織と制度に真っ向からぶつかっていくほど愚劣なことはなかった。それは悲惨のリアリズムに終わるだけであった。人間の情念をあんな風に粗末にあつかってはいけない……。(『はましぎ』)

組織と制度は愚劣だったが、人間の情念が生み出した掟は美しかった。(『はましぎ』)

多くの人が社会秩序に縋って生きていると同じく、あの女衒は自分の苛酷な正義に縋って生きていけるだろう、……(『恋人たち』)

 何というか、アウトローのあり方、反権力ではなく、非権力的な生き方のしなやかさを教えてくれる言葉です。

                                         


ポール・デズモンド・カルテット/ライブ

2006年09月27日 | 今日の一枚(O-P)

●今日の一枚 57●

Paul Desmomd Quartet Live

Scan10008_13  ポール・デズモンドに熱狂したことはない。けれども、好きか嫌いかと聞かれれば、迷わず好きと答えるだろう。そして年齢を重ねるたびその傾向は強まっていく。

 『Swing Journal』2006-10月号によると、あのフィル・ウッズは、「ポールのアルト・サックスの音色がわたしは好きなんだね。あんなにウォームでクリアな音色を持っているアルト・サックス・プレイヤーは珍しい。考えてみれば、テクニックや音楽性よりも、あの音色に私は魅了されているのかも知れない。トーンのカラーをあまり意識しないプレーヤーもいるけれど、わたしはまずそこに耳が向う。個性的な音色や美しい音色を身につけているひとが羨ましいんだ。その中でトップクラスのひとりがポールだよ。」と語ったらしい。

 フィル・フッズの言を待つまでもなく、ポール・デズモンドの聴きどころは「音色」である。ウォームで優しくしかもどこか孤独を匂わせるような音色。実際、ポール・デズモンドは孤独を愛する多少変わった人物のようだ。ジェームス・ジョイスを愛するこの男はライブの自分の出番が終わると先にステージを降りてレストランに行ったり、楽屋で本を読んだり、あるいは、ジャズ関係者とはあまり付き合わずに演劇や映画やバレエの関係者と付き合いが多いようなタイプだったようだ。

 1975年録音のこの作品は、そんなポール・デズモンドの特質が最良の形で現れているようにおもう。アット・ホームでくつろいだライブの雰囲気が伝わってくる。ポールのアルトはどこまでも優しく、どこまでも温かい。そしてどこか寂しげで人恋しいような音色に共感する。鬼気迫るデーモニッシュな演奏も素晴らしいが、時にはこういう音楽を聴いて人間性を回復したい。ポール・デズモンドの音楽を聴いていると、なぜだか人間を信じてみようという気になってくる。不思議なことだ。


青春のしおり……青春の太田裕美⑨

2006年09月26日 | 青春の太田裕美

1_3   太田裕美の3rdアルバム『心が風邪をひいた日』……。ジャケット写真とアルバムの内容が違いすぎる。明るくかわいいジャケット写真にくらべて、内容は70年代ノスタルジーそのものである。大ヒット曲「木綿のハンカチーフ」を含むこのアルバムは、概して内向的な曲が多く、どちらかといえば「暗い」内容である。 

 「青春のしおり」は、このアルバムの中でも支持者の多い曲らしい(もちろん私も気に入っている)。実際、歌詞の中に「若い季節の変わり目だから 誰も心の風邪をひくのね」とあり、アルバムタイトルの『心が風邪をひいた日』はここから名づけられたと推定される。 

「赤毛のアン」や「CSN&Y」や「ウッドストック」など具体的なことばがかえって抽象度を高める効果をだしており、聴くものは時代をイメージし、自己を投影しやすい構造になっている。 

 歌詞は、「若い季節の変わり目」、すなわち無邪気な時代を過ぎ、大人になっていく過程の喪失感や心の空虚さをうたったものだが、これも1970年代という焦点の定まらない時代を抜きにしては考えられない。喪失感や空虚感は1970年代の時代の雰囲気といっていい。 

 高度成長や若者の反乱も終わり、はっきりとした目標を見出せず、熱くなれるものもなくなってしまった若者たちには、喪失感や空虚感だけが残ったのである。共通の目標やともに熱くなれるものが無くなったということは、それだけ個人の自由度が増したということでもあるが、社会や他者とのつながりを喪失していくということでもあった。若者たちはしだいに自閉するようになり、他者の心をつかむことができないという苦悩に陥ることになる。他者がつかめないということは、自己の輪郭もつかめないということなので、当然人々はアイデンティティの危機におちいるわけだ。例えば、初期の村上春樹はそれをテーマにしていたし、以後もその克服が村上文学の底辺には流れていると思う。若い頃に読んだエッセイだが、三浦雅士『村上春樹とこの時代の倫理』は村上春樹の作品の中に、1970年代後半の時代の気分を読み解いた好論である。  

 しかし、そんなわかったようなことを口にしながらも、この「青春のしおり」を聴いた瞬間、胸がしめつけられ、心がかぜをひいたようになってしまう。空虚でむなしかったが、いとおしきは、1970年代である。 

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阿部薫 Solo Live At Gaya vol.9

2006年09月26日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 56●

Kaoru Abe      

Solo Live At Gaya vol.9

Scan10007_15  阿部薫には昔からなんとなく興味があった。音楽的というよりは、文学的興味といったほうがいい。ものの本や雑誌などで語られるその天才的といわれるアルト・サックスと頽廃的で破滅的な人生に興味があったのだ。10年程前、中古CD店でこのCDを見つけ購入したが、トレイにのせることなく今日まで放置してしまった。

 今日、阿部薫を初めて聴いた。すんなり身体にはいってきた。こういう音楽を聴きたかったのだと思った。フリージャズの演奏なのに、どこかに叙情的なものが感じられる。それも日本的な叙情性だ。この作品は初台のライブハウス「騒(ガヤ)」でのライブの実況録音盤であり、10枚セットのうちの vol.9 のようだ。1978.7.7 の録音とあるが、阿部薫がブロバリン98錠を飲んで死んだのが1978年の9月なので、死の2ヶ月前の演奏ということになる。このCDでは、Lover Come Back To Me 一曲のみが38分24秒にわたって演奏される。曲の原型はほとんどぶち壊されているのに、曲の芯にある叙情性だけが漂っている。不思議な演奏だ。

 阿部薫については、妻の鈴木いずみとの関係も含めて興味が尽きない。この2人については『エンドレス・ワルツ』という映画にもなっているようだが、もちろんまだ見ていない。webで阿部についてのいくつかの知見を得たが、興味は増すばかりである。恐らくは、CDやレコードをもう少し集めることになりそうだ。

 webページで阿部薫のライブ映像を発見したので紹介しておく。   http://tatsu001.blog50.fc2.com/blog-date-20060729.html


立原正秋箴言集(1)

2006年09月25日 | 立原正秋箴言集

 先日、このブログで立原正秋の『恋人たち』及び『はましぎ』を話題にしたが、立原の作品にはところどころに意味ありげな箴言がちりばめられている。一時期熱心な読者だった私は、少なからず影響を受けたものだ。今となっては、その多くを忘れてしまったが、かつて熟読した文庫本をひっくり返し、いくつか紹介してみたい。

キリスト教では、希望のつぎには、つまり希望が達成された後は、愛が一切となる、ということになっているらしいが、冗談じゃない、それでは人間は窒息してしまう。(『はましぎ』角川文庫)

 この言葉は、F・ニーチェの『道徳の系譜』『善悪の彼岸』とならんで、私がキリスト教に関心をもちつつも、それを相対化できる根拠のひとつとなっている。簡明な言葉だが、意味は多岐にわたって解釈することが可能であり、その意味で「深い」。


木綿のハンカチーフ……青春の太田裕美⑧

2006年09月24日 | 青春の太田裕美

Cimg1561  太田裕美サイン入りLPである。「82,9,1」と日付も記されているが、私がサインしてもらったわけではない。たまたま買った中古レコードにサインがあったのだ。私は田舎の静かで控えめなファンだったので、サイン会はおろか、コンサートにさえいったことがない。生きて動く本物の太田裕美には、現在にいたるまで会ったことがない。それは、恐らくは、今後も変わらないだろう。それで不足ないと考えている。太田裕美的世界にこそ関心があるのだから……。 

 このベスト・アルバムの帯には「今、まぶしい青春。ヒロミフィーリングを経験してみませんか!」と記されている。今という地点から見ると、ちょっと恥ずかしい宣伝文句だが、当時太田裕美はそのようなイメージでPRされていたのだ。しかし、多くのファンにはもう少し異なるイメージで受容されてきたように思われる。少なくとも太田裕美的青春とは「まぶしい青春」ではないだろう。また「ヒロミ・フィーリング」という表現にも違和感がある。太田裕美は、もっと内向的で感傷的な何ものかにかかわるイメージで受容されてきたように思う。それが現在にいたるまで根強いファンをもち、アイドルを脱皮して生き残っている理由であろう。 

 ところで「木綿のハンカチーフ」である。いわずと知れた大ヒット曲であり、一般的には太田裕美の代名詞といっても過言ではあるまい。しかし、あれ程の大ヒットでありながら、この曲はチャートの1位にはなれなかった。同時期に、まったく同時期にあの「およげたいやきくん」が存在したからだ。1位にはなれなかったが、「木綿のハンカチーフ」はその後も青春の歌として歌い継がれ、人々の記憶に残る歌となったわけだ。 

  「木綿のハンカチーフ」が、人々の記憶に残る歌となったのは、メロディアスで受け入れ易い旋律であることとともにやはり歌詞の力が大きいのであろう。ストーリー形式で展開する歌詞は、1番、2番、3番と男女の対話で構成され、その心の変容が語られるとともに、最後の4番まで聴かなければ「木綿のハンカチーフ」というタイトルの意味がわからないしくみになっている。このことこそが他の凡百のヒット曲と異なり、オーディエンスが曲全体の歌詞をきちんとふまえて感情移入することができる秘密であろう。そのことによって、この曲は単なる一過性のヒット曲ではなく、人々に歌い継がれる曲となったといえはしまいか。 

 ところで、このブログの他の記事のところで「くま田なおみ」様から、「『木綿のハンカチーフ』の女の子は何故彼のもとにいかなかったのか。何故帰ってこない男の子を咎めなかったのか。不思議に思ったものでした」というコメントをいただいた。そういわれてみれば、その通りだ。くま田様の疑問はもっともだと思う。もっとも、この女の子が彼のもとへいってしまったら、この曲特有のセンチメンタルな雰囲気は成立しないわけだが……。 

 ただ、思い返すに、全体としてみればそういう時代だったのではないか。つまり、女の子というものが、文化として今よりずっと「内気」で「奥ゆかしく」(フェミニストに糾弾されそうな表現だが……)、いい意味でも悪い意味でも自分を解放できないあるいはしない時代だったのだろう。積極的であることは排され、消極的で受身であることが、女性として「かわいく」「けなげ」だとみなされたわけだ。以前このブログのほかの記事でも述べたことがあるが、その後80年代に入って以降、女性はどんどん自分を解放し、自己主張をするようになっていった。『木綿のハンカチーフ』で「ハンカチーフください」と哀願した女の子は、例えば、あみんの『待つわ』では、「待つ」という行為によって自己主張を行い、石川ひとみの「まちぶせ」ではまちぶせて「あなたをふりむかせる」という積極的な行動をとるようになるのである。その後、80年代後半のバブルの時代をへて90年代に入ると、女性はどんどん積極的になり、「木綿のハンカチーフ」的メンタリティーはほとんど失われてしまった。現代では、男女関係において女性が主導権をとることはまったくめずらしいことではないのは周知の通りである。 

 興味深いのは、女性性の解体とともに男性性も急激に解体したということである。「女らしさ」とともに「男らしさ」も急激に消え去ったということだ。男女の文化的性が相対的なものであることを考えれば当然のことなのかもしれないが、私は女性解放に際して「物語」という「形」があたえられずに、ただアナーキーに行われていったことが大きな原因であると考えている。自らを「どのように解放してどのような素敵な女性になるのか」というお手本になるべき物語が欠落していたのではないか。私は、女性解放に否定的なわけではまったくないが、フェミニストの糾弾をおそれずに思い切っていえば、アナーキーで無節操な「物語」なき女性解放によって、世間はますますつまらないものになってしまったような気がする。もはや、現代では男も女も入り乱れてしまった。CMの大滝秀治にならって、「つまらん」と叫びたいところだ。 

 こう考えるのはやはり、「男性中心主義」なのだろうか。

 

 

 


白いアサガオ

2006年09月24日 | 写真

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 遅咲きのアサガオなのですかね。今年は、いろいろな種類のアサガオの種をまいたので、結構楽しめましたね。 ほとんどのプランターはもう終わってしまったのですが、このプランターだけ、最近咲きはじめました。白いアサガオは、なかなかきれいです。


セロニアス・モンクのミステリオーゾ

2006年09月24日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 55●

Thelonious Monk     Misterioso

Scan10020  有名盤である。例えば、たまたま手元にある『ジャズ喫茶マスター、こだわりの名盤』(講談社+α文庫)の中で新宿 JAZZ PUB MICHAUX 店主の御正泰さんも自分の好きなモンクのベストレコードとして紹介している。ところがなぜか私のモンクコレクションにはなく、やっと最近購入した一枚だ。わたしが買ったのは、Jazz紙ジャケ十八番シリーズ。

 一聴して、私も自分の好きなモンクのベストレコードといいたくなった。1958年録音のこの『ミステリオーゾ』は、ファイブ・スポットでのライブを収録したもので、くつろいだライブの雰囲気がよく伝わってくる。

 モンクの個性的な訥々としたピアノに、ジョニー・グリフィンの流麗なテナー・サックスがよくマッチしている。モンクの音楽は、モンクの音楽としかいいようのない個性的な語り口のため、中には敬遠するむきもあるが、この作品なら多くのファンが自然体で聴くことができ、しかもモンクの個性を十分に味わうことができるのではなかろうか。

 不協和音と独特のタイム感覚が特徴のモンクの音楽は、いったん好きになるとクセになってしまうらしく、かつて私もモンクばかり聴いていた日々があったことを思い出す。またモンクを集中的に聴いてみようかなどと思わせる一枚である。


かれいどすこーぷ

2006年09月23日 | 音楽

2_10  今夜、「かれいどすこーぷ」というユニットのコンサートに行ってきました。私の街にある小さなジャズ喫茶にやって来たのです。

  「かれいどすこーぷ」は、ボーカリストの前田祐希さんとマルチ・インストゥルメンタリストの松井秋彦さんのデュオです。「かれいどすこーぷ」とは「万華鏡」の意味で、その名のとおりいろいろに変化するサウンドが持ち味とのことでした。

 今回は、前田祐希さんが喉の調子を悪くしたようで、本領は発揮できなかったようですが、後半には実力派の片鱗を垣間見ることのできる部分もありました。ただ、前田さんの歌唱は元気溌剌という感じで、表現に陰影が乏しかったのではというのが正直な感想です。喉の調子が良かったなら、もっとすごかったのかもしれません。

 一方、松井秋彦さんは、主にアコースティック・ギターとピアノ、そしてサイド・ボーカルを担当していましたが、ギターワークには目をみはるものがありました。また、編曲も松井さんが担当しているようなのですが、斬新なアレンジも随所にみられ、きっと才能のある人なのだろうなあ、と思いました。ただ、ギターもピアノもバッキングにおいてベースランニングを多様していたため、ややワンパターンという印象を受け、正直言ってしだいに辟易しました。数曲演奏するうちの何曲かがそうならば、目先が変わって面白かったのでしょうが、ほとんどがそれ一辺倒だったので飽きてしまったわけです。はっきりいって、曲の本質部分を破壊したり、ボーカルを邪魔しているのではないかと思われるような箇所もありました。

 今回のライブは、正直なところ、私は不完全燃焼でしたが、HPの視聴コーナーで聴くと印象的な演奏もありました。もう一度Liveを見たいと思っています。是非、今度はベスト・コンディションの「かれいどすこーぷ」を聴きたいですね。

 なお、私は見逃していたのですが、Swing Journalの2006-6月号(p166)に「かれいどすこーぷ」のアルバムが紹介されていました。

かれいどすこーぷ のHP  → http://kaleidoscope.modalbeats.com/


ズート・シムズのプレイズ・ソプラノ・サックス

2006年09月23日 | 今日の一枚(Y-Z)

●今日の一枚 54●

Zoot Sims     Soprano Sax

Scan10019  熱狂的にハマったことがあるわけでもないのに、何故かCDの数が増えてゆくミュージシャンがいる。

 ズート・シムズは私にとってそんなプレーヤーだ。実際、名手であることは間違いないし、コンスタントに質の高い作品を発表するが、「深みがない」とか「鬼気迫るものがない」とかいうのが大方の評論家たちの意見のようだ。

 にもかかわらず、私はズートの作品を買ってしまう。確かに彼は「呪われた部分」のミュージシャンではないかもしれないが、彼の音楽からはもっと身近な何かを感じるのだ。それはアット・ホームな何かであり、ウォームな何かだ。

 1976年録音のこのプレイズ・ソプラノ・サックスは、そんなズートの資質をよく表している。同じソプラノ・サックスを使っても例えばコルトレーンとはまったく違って、温かくデリケートで優しい音が我々の心を包み込む。②のバーモントの月を聴いてもらいたい。優しく美しいこの曲の心を大切にしながら、ズートはリリカルで感銘深い演奏を繰り広げる。ソプラノ・サックスがか細く伸びる響きは、筆舌に尽くしがたいほど美しく、胸をしめつけられるようだ。

 忙しかった一週間を終えた土曜日の夜、天窓から見える黄色い月を眺めながら、私はこのアルバムを聴く。バーモントの月はどんなものなのだろうかと考えながら……。


立原正秋の『恋人たち』

2006年09月23日 | 立原正秋箴言集

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 若い頃、立原正秋という作家にはまったことがあった。もう二十数年も前の話だ。文学表現的に、あるいはテーマ的にはどうということはない作家だと思うが、そのあまりにもできすぎたストーリーテーリングにはまったのだ。当時文庫本で入手し得る作品は、すべて読んだという感じだ。

 立原にはあまた秀作はあるが、ストーリーテーリングという点ではこの『恋人たち』とその続編にあたる『はましぎ』がなかなかいい。主人公の道太郎の一見無軌道だが軸のある生き方もさることながら、その妻となる信子の静かでひかえめだが芯の強いキャラクターが何とも好ましく思えた。大和撫子とはこのような女性をいうのであろうか。

 ところで、この『恋人たち』はテレビドラマとして放映され(それは上の文庫本表紙の写真からもわかる)、私もなんとなく見た記憶があるのだが、はっきりとは憶えていない。ただ、一つだけ頭に焼きついているシーンがある。信子が初めて道太郎のアパートを訪ねるさい、前を歩く道太郎を見かける場面である。このあと、道太郎は信子のためにコーヒーをいれ、信子から「告白」されるわけであるが、その温かなコーヒーの香り立つような描写が忘れられないのである。

 このシーンは小説でも重要な場面であり、テレビドラマとしてはなかなかよくできたものだったような気がする。とはいっても、このテレビドラマについては、前述のようにほとんど記憶になく、今一度みてみたいという想いがつのるばかりである。

 近年、CS放送の普及で過去のドラマを見られるようになったことはありがたいことではある。どこかのチャンネルで『恋人たち』の再放送はないものだろうかと思うのであるが、かかる思い出は胸の奥にしまっておいたほうがやはり幸せだろうか。

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 なお、立原にはこの『恋人たち』と『はましぎ』を下敷きに書き直した『海岸道路』という作品があるが、プロット、登場人物、舞台設定がほとんど同じで、それらを水でうすめたような作品だ。解説によれは、川端康成はこの作品について「小遣い稼ぎに書いたような作品は全集に入れるべきではない」という旨の発言をしたらしいが、確かに深みのないストーリーの骨組みだけのような作品であり、ちょっと失望である。


ブルー・トレーン

2006年09月18日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 53●

John coltrane     Blue Trane

Scan10016_1  やはり、こういう音楽をたまには聴くべきだ。私のJAZZの原点とはこういう音楽をいうのだ。

 いわずと知れたジョン・コルトレーンの名盤『ブルートレーン』。1957年録音のコルトレーン唯一のブルーノート、リーダー作である。初期のコルトレーンの代表作といっていいと思う。

 ケニー・ドリュー(p)、ポール・チェンバース(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)というしっかりとしたリズム隊をバックに、コルトレーン(ts)、カーティス・フラー(tb)、リー・モーガン(tp)という三管フロント陣がアンサンブルを繰り広げ、コルトレーンは"シーツ・オブ・サウンド"といわれる一瞬の間もなく音が連続するようなソロを展開する。実にスリリング、かっこいい演奏だ。

 この作品を聴くといつもある男を思い出す。学生時代、行きつけの酒場で知り合った男だ。哲学科に所属しているくせに歴史学にも興味をもつその男は、私と酒場で会えば、いつも中世史や哲学・思想について議論した。議論は多岐にわたり、しばしば激論となることもあったが、酒が回って酔っ払うと、その男はきまってBlue Traneを口ずさむのだった。それはテーマからはじまり、ソロをへてフィナーレにいたるまでほとんど一音も間違えることなく完璧に歌われた。いつのころからか、私がカーティス・フラーとリー・モーガンのパートを担当してハモり、トレーンのソロパートではリズム隊を担当するようになった。それが結構面白かったらしく、よく他のお客さんものってくれたものだ。おかげで私はいまも、Blue Traneのソロパートをほぼ完全に口ずさむことができる。一回性のアドリブにかける音楽としてのJAZZを聴く姿勢としては正しいものではないのだろうが、私にとってはかけがえのない楽しい日々であった。

 彼は今頃どうしているだろうか。彼とはもう20数年会っていない。


ジュニア・マンスの"ジュニア"

2006年09月18日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 52●

Junior Mance     "Junior"

Scan10007_13  大好きな一枚だ。CDの帯には「ジャズ・ピアノ・トリオ名盤中の名盤」とある。1959年の録音だ。1959年といえば、ジャズの世界ではあの『カインド・オブ・ブルー』をはじめ名だたる作品がなだれのように登場した伝説の年だ。

 ジュニア・マンスはジャズらしいジャズをやるピアニストだ。「トラディショナル・モダン」という言葉があるらしいが、ジュニアのピアノはまさしく「トラディショナル・モダン」といえるかも知れない。ライナー・ノーツには次のようなオスカー・ピーターソンの言葉がおさめられている。

 「昨今、ピアノの何たるかさえわきまえない前衛ジャズマンや低級なピアニストが横行するジャズ界にあって、豊かなテクニックとフレッシュなアイデアに恵まれたジュニア・マンスの登場は、実に爽快だ。しかもジュニアは、聴き手の心に直接的に訴えかけるエモーショナルなものを内蔵しており、ジャズの最も根源的なスウィングを忘れることがない。豊かな楽想に恵まれているジュニアは、アイディアをとめどもなく発展、変化させていく過程で、ひとつの演奏にいつの場合にもある種の物語性をもたらす。これはマンス独自の特質だが、そんな意味からも、このアルバムは、あなたに多くのドラマを伝えるはずだし、マンスはまだまだこれからもわれわれを楽しませてくれるにちがいない。」

 ③ウィスパー・ノットがいい。よくスウィングし、歌心のある演奏だ。リズムに同化して心が躍り、とてもハッピーな気持ちになる。ウイントン・ケリーとケニー・バレルがやった名演と甲乙つけがたい演奏だ。