WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

哀愁のヨーロッパ

2007年01月31日 | 今日の一枚(E-F)

●今日の一枚 122●

European Jazz Trio     Europa

Watercolors0002_3  ヨーロピアン・ジャズ・トリオの2000年録音盤。当時新進気鋭のギタリスト、ジェシ・ヴァン・ルーラーがゲストとして4曲に参加しており、なぜか、スウィング・ジャーナル選定ゴールド・ディスクのマークがはいっている。

 ヨーロピアン・ジャズ・トリオというグループに私は懐疑的だ。このCDも発表後割合はやい時期に購入したが、1~2度聴いただけで、CD棚に放置されることになった。何というか、演奏が予定調和的に思えるのだ。原曲のメロディーを大切に演奏する姿勢はある意味で買うのだが、演奏自体があまりに当たり前で、驚きや新鮮な感動というものがない。かつての、マンハッタン・ジャズ・クインテットに通じるものがある。決して、悪いアルバムではないような気がするのだが、なぜか聴く気がしなかったのだ。

 今日、本当にしばらくぶりにかけてみた。読書のBGMとしてだ。どうだろう、驚いたことにBGMとして聴くにはすぐれたアルバムだ。決して読書の邪魔をしないし、人の神経を荒立てることもない。何よりとても気分よく読書の時間を過ごせる。アイロニカルな言い方に聞こえるかもしれないが、まっとうな意味で、BGMに適した音楽だと思う。よく見てみれば、帯の宣伝文句もこうだ。「香気漂うピアノ・トリオ、完成したヨーロピアン・エレガンス」……なんだ、そうだったのか。製作者側もそのようなコンセプトで作っていたのですね。

 ジャズにもいろいろなジャズがあり、いろいろな聴き方があるのだ。


ホワイト・アルバム

2007年01月29日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 121●

The Beatles767

 いわずと知れたザ・ビートルズの1968年作品、通称『ホワイト・アルバム』……。このアルバムを好きになり、すごいアルバムだと思ったのはもう30年以上も前の14歳の頃だった。けれども、そんなことはとうに忘れていた。考えてみれば、もう何年もこのアルバムを聴いていなかったのだった。

 数日前、ちょっと飲みすぎて酔っ払い、本当にしばらくぶりにギターに触れた。たまたま手元にあったアコースティック・ギターだ。何気なく爪弾いた曲は、ビートルズの「ブラック・バード」だった。かなり酔っ払っていたが、指が覚えているのだ。酔った勢いで、ビートルズと競演したくなり、押入れからレコードを探し出してかけてみた。しばらくぶりに会うビートルズは、若々しく元気だった。酔っ払っていたせいか、ギターは僕の方がちょっとうまかったかもしれない。

 置き去りにされたLPを今聴いている。なかなかいいアルバムだ。大人が聴く音楽としてBGMとしても聴くに値する作品だ。多くの批評家が語るとおり、このアルバムはビートルズの内部分裂を結果的に表現してしまったいわばバラバラのアルバムである。例えば、渋谷陽一は「結局今考えてみればビートルズの解散はこのアルバムを作り、発表したことによって決定づけられたのだ」と記す程だ(渋谷陽一ロック ベスト・アルバム・セレクション』新潮文庫)。そうした評価に異存はない。にもかかわらず、やはりいいアルバムではないか。内容はバラバラだが、それでもやはり全体としてビートルズの存在を感じさせるのはやはりすごい。バラバラだが、一人一人はやる気がないわけではないのだ。むしろ、独自の世界を作り出すのに懸命であるといってもよい程だ。一曲一曲の完成度が高く、今聴いても非常に新鮮である。仕事をしながらでも、BGMとして気分良く聴ける。もうひとつのAORといってもいい程だ。そして何より、個人的な感想に過ぎないが、最後の曲がリンゴ・スターをフュチャーした「グッド・ナイト」だというところが何ともいえずいい。

 『ホワイト・アルバム』は大人のアルバムである。これがしばらくぶりにこのアルバムを聴いた感想である。


穐吉敏子の時の流れ

2007年01月28日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 120●

穐吉敏子   

Toshiko Plays Toshiko - Time Stream

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 昨日、NHKのBSで穐吉敏子の音楽生活60周年記念コンサートを見た。ちょっと感激だった。特に、ルー・タバキンと鼓のインタープレイ、同じくタバキンと和太鼓の競演はなかなか見ごたえがあった。それにしても、はっきりいって、トシコは年をとった。私の住む町が、岩手県の陸前高田市にある日本ジャズ専門のジャズ喫茶『ジョニー』(もう盛岡に移転してしまったが……)に近いこともあり、高校生の頃からしばしばトシコのライブをみる機会に恵まれた。トシコのライブは両手・両足の指の数を超えるほど見てきた。最近、ご無沙汰だったのだが、テレビで見るトシコの老けようは、やや驚きであった。まあ、仕方あるまい。人間は誰でも老いる。まして、トシコは1950年代から活躍している人なのだ。

 昨日の感動覚めやらぬまま、今日の一枚は10年前、トシコが音楽生活50周年を記念してだしたアルバム『トシコ・プレイス・トシコ - 時の流れ』(1996録音)だ。何を隠そう、数あるトシコのアルバムの中でも、私が最も好きなもののひとつである。まず、サウンド全体が元気である。特にホーンセクションの闊達さは心が躍るほどである。次に、トシコのピアノの音色がいい。まろやかで優しい音色だ。かつて女バド・パウエルといわれたトシコだが、バラード演奏においていつになく叙情的なタッチである。胸キュンだ。そして、テーマソング、ロング・イエロー・ロードの演奏がとてもまとまっている。特にベースが素晴らしい、とおもったら、私の大好きなベーシスト、ジョージ・ムラーツだった。ドラムスもルイス・ナッシュ。まるで私のために録音してくれたようなアルバムである。

 トシコの演奏をあと何度生で聴く機会があるだろうか。

[穐吉敏子関連記事] Live At Blue Note Tokyo '97


エレクトリック・エヴァンス?

2007年01月27日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 119●

Bill Evans     From Left To Right

Watercolors_7 ビル・エヴァンスがエレクトリック・ピアノ"フェンダー・ローズ"を使用したことで有名な『フロム・レフト・トゥ・ライト』。1969年の録音である。

 マイルスの『ビッチェズ・ブリゥー』も1969年の録音であるが、電化の波がジャズ界を席巻する中、「僕は関係ないもんね」といっていたと思ったエヴァンスが電化サウンド盤をだしたということで、ちょっとびっくり、出来もあまり良くないということで評論家のような人たちにはえらく評判が悪い。例えば、『ジャズ批評別冊 ビル・エヴァンス』に掲載されている大村幸則氏と高木宏真氏の対談では、高木氏は「これはいったい何を考えているんでしょうかねぇ」といい、大村氏も「どこまで深く考えたのか……。あとから反省しているて゜しょ(笑)」と切って捨てている。

 けれども、私はここ数年このアルバムを好んで聴いている。今聴くと、なかなか新鮮なのだ。確かに、エヴァンス独特の繊細なタッチはエレピでは難しいようだが、フェンダー・ローズの左右のチャンネルに揺れる感じのサウンドがそれを補っている。優雅で内省的で感傷的なサウンドだ。

 ただ、このCDに関していえば、皮肉な話だが、オリジナル・トラックの①~⑨より、ボーナス・トラックの⑩~⑬が、私のお気に入りだ。オーケストラ入りの①~⑨より、カルテット演奏の⑩~⑬の方が、よりシンプルにエヴァンスのエレピやピアノの感傷的な雰囲気が伝わってくるように思う。⑩ What Are You Doing The Rest Of Your Life ? (これからの人生)や⑬ Lullaby For Helene の感傷的な雰囲気は筆舌につくしがたいし、⑪ Why Did I Choose You ? や⑫ Soiree の寛いだ開放的で解放的な雰囲気も何ともいえず良い。

[これまでのビル・エヴァンスの関連記事]

クインテッセンス

ユー・マスト・ビリーブ・イン・スプリング

エクスプロレイションズ

アンダーカレント

ムーンビームス


わたらせ

2007年01月23日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 118●

板橋文夫     WATARASE

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 板橋文夫の『わたらせ』……。1981年の録音で長らく廃盤状態だったが、やっと数年前にCD化された。誰が何といっても日本のジャズの名作である。「日本のジャズ」という言い方はフェアではないかもしれないが、まぎれもなくこの作品は、というより板橋文夫は、日本のジャズなのである。それほどまでに板橋は、日本的なものに、いや日本などという偏狭なものが生成する以前のもっとネイティブなものにこだわっている。

 以前にも記したが、数年前に隣町の小さなホールで見た板橋のコンサートは、衝撃的だった。金子友紀という若い民謡歌手が一緒だったが、民謡歌手の歌にあれ程の感動を受けるとは予想だにしなかった。板橋の演奏もすざまじかった。左手が創り出すうねるようなビートの中で右手のメロディーが自由自在にかけめぐっていく。時折使用するピアニカのブルースフィーリング溢れる響きもすごかった。魂が入ると、ピアニカなどという楽器があれほどまでに輝かしいサウンドをつくりだすとは、はっきりいって信じられなかった。

 さて、本作であるが、日本のジャズの名作である、と繰り返し叫びたい。同じくピアノソロで比較的近年の『一月三舟』とくらべると、演奏がややぎこちなく、たどたどしく聞こえる。それだけ、板橋の技術と音楽性が向上したとみることができるのだろうが、そのぎこちなさゆえに、かえってネイティブな雰囲気が伝わってくるという効果もある。岡林信康は「日本人のリズムはエンヤトットである」と語ったそうだが、板橋のピアノのずっと奥のほうでも「エンヤトット」は鳴り響いているように感じる。

[以前の記事] 一月三舟


ベージュの手帖……青春の太田裕美⑬

2007年01月23日 | 青春の太田裕美

Scan10001_6  何度か取り上げてきた太田裕美の快盤『手作りの画集』収録の「ベージュの手帖」だ。いつものように、作詞は松本隆、作曲は筒美京平である。 

 家出の歌である。失踪の歌である。駆け落ちなのであろう。いかにも歌謡曲チックな前奏の次にあらわれる一番の歌詞は、その前奏とはおよそ似つかわしくない、考えようによってはちょっと衝撃的なものだ。すごい歌詞ではないか。日常性に亀裂が生じるそんな一瞬が表現された歌詞だ。 

(と、思ったら、他のブログで知ったことだが、この歌詞はビートルズの"She's leaving home"の焼き直しなのだそうだ。そういえば、歌に出てくる女の子もヨーコではないか。) 

   陽子はクラスで一番無邪気な娘なの 

   誰でもウインクひとつで友だちだった 

   翳り一つない笑顔 

   十月の寒い朝  トランクを一つ持ち 

   寝静まる家のドア  ひっそりと閉めた陽子

    机にベージュの手帖  残る言葉は

    「自由になりたい」

       ※   ※

    陽子はほんの子供とおこる父親

    手塩にかけ育てたと泣いた母親

    ガラス箱の人形ね

    十月の雨の朝  トランクをひとつ持ち

    ありふれた幸せに  背を向けて消えた陽子

    心の裏側なんて  誰も読めない

    「自由になりたい」

      ※   ※

    十月の雨の朝  トランクをひとつ持ち

    背の高い青年と  手をつなぎ消えた陽子

    ほんとの幸せなんて  誰も知らない

    「自由になりたい」   

  「寝静まる家のドア ひっそりと閉めた陽子」という部分が何ともいえずいい。続く2番以降がやや説明的すぎて凡庸な気がするのは気のせいだろうか。70年代には、「自由になりたい」という言葉の語感が、いまとは少し違って、爽やかで軽い孤独感をともなうものであったような気がする。

  それにしても、「残る言葉は、自由になりたい」という部分を聴いて、やや身勝手さを感じてしまうのは、時代のせいなのだろうか。あるいは、私が年をとり権威主義的になってしまったということなのだろうか。


ムーン・ビームス

2007年01月21日 | 今日の一枚(A-B)

の●今日の一枚 117●

Bill Evans     Moon Beams

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 メロディーを聴く男、寺島靖国氏が「愛聴盤」だと語る、ビル・エヴァンスの1962年録音作品『ムーン・ビームス』(Riverside)。寺島氏によれば、かつてフランスの批評家がこの作品を評して「女の腐ったような作品」と言ったそうだが(『辛口ジャズノート』)、軍艦でいえば、「大鑑巨砲主義」、そういう時代もあったということだ。

 最近のSwing Journal 誌上の論争などを見ると、寺島氏の意見にはあまり賛同できない私ではあるが、このアルバムを大きく評価する寺島氏の感性は大好きだ。美しいとしかいいようのないメロディー、繊細なタッチ、素晴らしいのひとことだ。

 もちろん、林家正蔵(当時こぶ平)師匠のいうように、眠くなる、刺激が足りない、ベースがスコット・ラファロならもっと素晴らしいものになっただろうに……、などの評価もありうるだろう(『ジャズ批評別冊ビル・エヴァンス』)。けれども、心が疲れた時に聴くこのアルバムは格別である。② Polka Dots And Moonbeams の出だしを聴くと、あまりの美しい響きに、身体の力が抜け、心がとけていくような感覚を覚える。

 Bill Evans (p)   Chuck Israels (b)   Paul Motian (ds)

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ミッドナイト・ブルー

2007年01月20日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚 116●

Kenny Burrell     Midnight Blue

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 ケニー・バレルの1963年録音の人気盤『ミッドナイト・ブルー』。

 ケニー・バレルはとても好きだ。身体にフィットする感じがしていい。けれどもはっきりいってしまうが、ケニー・バレルというギタリストは、そのブルース・フィーリングをとったな何も残らないギタリストではないだろうか。私はずっと昔からそう思っている。

 深夜に酒でも飲みながら、ひとりで聴く音楽だ。酔えば酔うほど心にしみる音楽である。身体にしみるといってもいい。

 そういう意味では今夜はベスト・コンディションである(体調はよくないのだが・・・・)。もうかなりの酒を飲んでいる。しばらくぶりに、今宵は長く豊穣な夜になりそうだ。


シティー・エレガンス

2007年01月16日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 115●

Micheal Franks     Burchfield Nines

Watercolors0002_2  マイケル・フランクスは、ずっと昔から好きでしたね。だから、CDもけっこうな枚数をもっているのだけれど、どれが一番好きかといわれると困ります。長い間、フォローし続けているアーティストの作品には、それぞれに「想い」という過剰で困ったものがまとわりついてしまうわけです。

 けれど、この1978年作品、『シティー・エレガンス』は、間違いなく最も好きなものの1つに入る作品ですね。軽い孤独感と温かい優しさが好きです。何というか、癒されるのですね。そこにはAORとか、ソフト・アンド・メローとかいう、当時流行したカテゴリーには収まらない何ものかがあるような気がするわけです。

 それにしても今振り返ると、『シティー・エレガンス』という日本タイトルはいただけませんね。なぜ、そのまま『バーチフィールド・ナインズ』にしなかったのでしょうかね。今考えると、その方がずっと良かったのにね。AORの推進者マイケル・フランクスをお洒落な都会派ということで売り出そうとする意図が、あまりにみえみえになってしまいました。『シティー・エレガンス』という言葉は、作品の文脈になんら関係なく、お洒落で都会的な雰囲気を演出する以外に何ら意味を持っていないのですから。残念ながら、今となっては、恥ずかしささえ感じてしまう程です。 

 長い年月の風雪に耐えうることばとは、なかなかに難しいものです。

 最近読んだ村上春樹訳・スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』の「訳者あとがき」の中で、村上氏は翻訳という行為について次のように語っています。

 「賞味期限のない文学作品は数多くあるが、賞味期限のない翻訳というのはまず存在しない。翻訳というのはつまるところ言語技術の問題であり、技術は細部から古びていくものだからだ。不朽の名作というものはあっても、不朽の名訳というものは原理的に存在しない。どのような翻訳も時代の推移とともに、辞書が古びていくのと同じように、程度の差こそあれ古びていくものである。」

 示唆的な言葉ですね。 

 『バーチフィールド・ナインズ』とは、アメリカの画家チャールズ・バーチフィールド(1893-1967)の描いた絵からきています。


誤解していたスプリングスティーン

2007年01月14日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 114●

Bruce Springsteen     The River

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 若い頃、ブルース・スプリングスティーンを聴いてこなかった。ロック好きだった私にしては、今思えば不思議なことだ。1970年代後半から80年代初頭、ラジオからは毎日のようにスプリングスティーンが流れていた。もしかしたら、リアルタイムで彼の音楽にのめり込んだのかもしれないが、意識的に聴いてこなかったのだ。

 今思えば、原因はつまらないことだった。山川健一の「八月のトライアングル」(『壜の中のメッセージ』角川文庫所収)という作品に出てくる次の文章によってである。

ボブ・ディランはカントリーを歩いている、だけどスプリングスティーンは都会の底を走っている……

 ボブ・ディランが好きだった私は、その言葉に反発と嫉妬ををおぼえたのだった。ボブ・ディランを軽く見やがって・・・。新参者のスプリングスティーンなど簡単に受け入れてたまるか、といった感じだ。

 また、大ヒットした「ボーン・イン・ザ・USA」に対する誤解もそれに輪をかけた。「ボーン・イン・ザ・USA」は、レーガンが大統領選挙で利用したこともあり、単純なアメリカ讃歌として広まったのだ。私自身、スプリングスティーンに対して、単細胞でタカ派的な低脳ロックシンガーというイメージを抱いていた。ちゃんと音楽を聴きもせずにだ……。

 ところで、作家の村上春樹氏は、その著書『意味がなければスウィングはない』(文芸春秋)所収の文章の中で、スプリングスティーンの音楽について共感を込めつつ論じているが、それによれば、「ボーン・イン・ザ・USA」の歌詞はこうだ。

  救いのない町に生れ落ちて
  物心ついたときから蹴飛ばされてきた。
  殴りつけられた犬みたいに、一生を終えるしかない。
  身を守ることに、ただ汲々としながら。
  俺はアメリカに生まれたんだ。
  それがアメリカに生まれるということなんだ。

 何ということだろう。私の長年勝手に抱いていたイメージはまったくの誤解だった。正反対だったといってもいい。スプリングスティーンは、アメリカのワーキングクラスの閉塞感を代弁する歌を歌っていたのだ。村上氏は前掲書で次のように語っている。

ブルース・スプリングスティーンが『俺はアメリカに生まれたんだ』と叫ぶとき、そこにはいうまでもなく怒りがあり、懐疑があり、哀しみがある。俺が生まれたアメリカはこんな国じゃなかったはずだ、こんな国であるべきではないのだ、という痛切な思いが彼の中にはある。

 最近、ブルース・スプリングスティーンをよく聴く。まるで、過去の空白を埋めるかのように、あるいは失ってしまった大切な何かを取り戻そうとするかのようにだ。今聴いているのは、1980年作品の『ザ・リバー』。私が高校3年生の頃の作品だ。ロックはずっと昔に卒業してしまったはずだが、なぜだか心に沁みる。当時のアメリカの抱える、おそらくは現実の風景をスプリングスティーンは淡々と歌っていく。

 「ボブ・ディランはカントリーを歩いている、だけどスプリングスティーンは都会の底を走っている……」 そう語った山川健一の小説の登場人物に、今なら「そうかもしれないね」といえるかもしれない。

 ドクサ……。人間は色眼鏡でものごとをみる。

 


これはいい。だが……

2007年01月14日 | 今日の一枚(K-L)

●今日の一枚  113●

Karel Boehlee   

Last Tango In Paris

Watercolors_6  何というジャケット写真・・・・。気の弱い私などは、CDショップのレジにもっていくことがためらわれるような写真だ。いい写真だ。何をしているのかあるいはしようとしているのかは不明であるが、そのエッチな雰囲気は好きだ。女性の肌のなめらかな感じが何ともいえなくいい。

 ヨーロピアン・ジャズ・トリオの初代ピアニスト、カレル・ボエリーの新作。2006年録音盤、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』だ(M & I)。ボエリーのリーダー作は初めて聴いたが、これがなかなかいい。Swing Journal 誌が盛んに宣伝をしていたので、かえっていかがわしいと思い、これまで聴いたことがなかったのだ。CDの帯には「静寂な響きと哀愁味溢れる表現」とあるが、基本的にはまったくその通りの作品だと思う。いい演奏だ。録音もいい。

 けれども・・・・、と思ってしまう。語弊のある言い方かもしれないが、録音が良すぎるのだ。楽器にマイクを近づけて録音している音だ。各楽器の音は鮮明で、音も大きい。けれども、一関のベイシーのマスター菅原正二さんの次のような言葉を思い出してしまう。

「何時の頃からか、ジャズの録音を物凄く”オン・マイク”で録るようになった。各楽器間の音がカブらないように、ということらしいが、もともとハーモニーというものは、そのカブり合った音のことをいうのではなかったか!?・・・・・実際のコンサートへ行っても駄目である。レコーディングとまったく同じマイクセッティングのPAの音は、やはりハーモニー不在で、”生”を聴いた気はしない。」

菅原正二ジャズ喫茶「ベイシー」の選択 僕とジムランの酒とバラの日々』講談社+α文庫)

 この作品を聴いて、音は鮮明だが、生々しくないと感じた。すばらしい演奏だと思うのだが、全体的に音が強すぎるような気がする。「静寂な響きと哀愁味溢れる表現」というには、あまりに音が明瞭すぎると思うのは私だけだろうか。


心も身体もしびれる

2007年01月06日 | 今日の一枚(I-J)

●今日の一枚 112●

John Coltrane & Johny Hartman

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 『ジョン・コルトレーンとジョニー・ハートマン』、1963年の録音である。この頃のコルトレーンといえば、1961年にインパルスに移籍し、フリー・ジャズへの方向を歩み始めた時期である。良く知られているように、この時期、コルトレーンはマウスピースが気に入らずに手を加えたらますます悪くなり、急速調の演奏も思いどうりに出来ず、代わりのマウスピースも入手できなかった。そのため、プロデューサーの提案で、『バラード』や『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』、そして本作 『ジョン・コルトレーンとジョニー・ハートマン』が録音されるわけである。そのような事情で成立した作品がこのような稀有な美しさをもったものになるとは、まさに奇跡的といえるかも知れない。

 ③ My One And Only Love は、この曲白眉の名演だと思っている。消え入りそうな高音が印象的なコルトレーンの繊細なソロにじっと耳を傾け感じ入っていると、満を持したようにジョニー・ハートマンのボーカルがはじまる。その低音はスピーカーのコーン紙を震わせ、空気を伝って私に届き、私の身体全体を震わせ、心を振るわせる。音が空気を伝わって私に届くことがはっきりと感じられ、鳥肌がたつ。胸がしめつけられ、切なさが身体全体にしみわたる。すごい演奏だ。生きていて良かった。人生って素晴らしい。そう思ってしまう。

  あなたを想うと私の心は歌いだす  

  春の翼に乗った四月のそよ風のように

  あなたは華やかな輝きに満ちてあらわれる

  あなたこそ私のただひとりの恋人…… 


透明な静寂

2007年01月06日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 111●

Gary Burton & Chick Corea

Crystal Silence

Watercolors_5  こういう作品は、レコードよりCDの方があっているんじゃないかと思って、しばらくぶりに聴いてみたのだが、どうしてアナログ・レコードはそんなにやわじゃない。チックがアコースティック・ピアノのせいかも知れないが、こういう透明感のある音楽でもレコードはちゃんと美しく再生してくれるのですね。

 いわずと知れたゲイリー・バートンとチック・コリアのデュオ作品『クリスタル・サイレンス』、1972年の録音だ。時期は違うが、二人はともにスタン・ゲッツのグループに在籍した経験をもつ。ヴィブラホーンというそれ自体透明な響きをもつ楽器を演奏するゲイリー・バートンとリタン・トゥ・フォーエヴァーでやはり透明感のある音楽を模索したチックと、そして1969年に マンフレット・アイヒャーによって設立されて間もないドイツのレーベルECMとの出会いによって生まれた傑作がこのアルバムだ。

 美しく、幻想的で、ロマンティックで透明感に満ちた音楽だが、私が好きなのは、冷たく硬いクリスタルガラスではなく、そこに温かい潤いのようなものを感じとることができるからだ。単なるこぎれいな音楽ではなく、曖昧な言い方だが、人間的な温かみを感じるのだ。音量を上げても下げても静かな感動がある。

 こういう聴き易い作品は往々にして聴き飽きするものだが、アドリブ演奏が多いためだろうか、意外に聴き飽きしないのも嬉しい。


元気印のソニー・スティット

2007年01月04日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 110●

Sonny Stitt    

Plays Arrangements From The Pen Of Quincy Jones

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 ソニー・スティットの1955年録音盤『ペン・オブ・クインシー』。全編クインシー・ジョーンズの編曲で、11人の小編成オーケストラをバックにスティットが吹きまくるという趣向である。

 スティットはチャーリー・パーカーのそっくりさんといわれ、パーカー存命中はもっぱらテナーを吹いたりしていたようだ。

 彼のプレイを聴いていていつも感じるのは、元気がいい音だということだ。スウィンギーな曲はもちろん、バラードプレイにおいても圧倒的に元気がいい。われわれ日本人は、バラードというと「陰影感」とか「情感」などというものを求めるのだが、まったく異なる次元のバラードだ。スティットのプレイに情感がないというのではない。われわれ日本人が求めるような陰影に富んだ情感はないということだ。スティットはどこまでもストレートに音を出してゆく。音は概して強く、しっかりとしている。それは原色の油絵を思わせ、日本的な墨絵のような趣は一切ない。

 ① My Funny valentine 、私が知っているこの曲の演奏の中で、最も印象的なものといっても過言ではない。一音目から張りのある、強い、元気な音である。もちろん彼なりの情感をこめた演奏ではあるが、むしろ感じられるのは曖昧さを許さないようなはっきりとした意志だ。論理的な音といってもいい。スムーズなアドリブにすべてをかける彼にとって、もちろん褒め言葉である。

 ソニー・スティット……、元気なバラード……。


西海岸のスター

2007年01月02日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 109●

Bud Shank    

The Bud Shank Quartet

Watercolors_4  今年最初の一枚、西海岸を代表するアルト奏者バド・シャンクの1956年録音盤『バド・シャンク・カルテット』。

 超有名盤であるが、なぜか聴いたことがなかった。数年前の東京出張の際行った四谷の「いーぐる」でたまたまかかっていた。この時は、A面のみしか聴けなかったが、この度、決定盤1500シリーズででたので購入してみたわけだ。

 愁いの漂うトーンがいい。シャンクはアルトとフルートを演奏するが、アルトはもちろんのことフルートもなかなかのものだ。どこか深遠なものを感じるフルートである。クロード・ウィリアムソン・トリオをバックにシャンクが自由自在に演奏しているといった感じだ。傑作と呼んでもいいのではないか。休日にゆったりとした気分で聴きたい一枚である。

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 夜と昼のバド・シャンク