WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

みちのく潮風トレイル

2021年04月29日 | 今日の一枚(M-N)
◎今日の一枚 497◎
Malta
Sparkling
 みちのく潮風トレイルは、青森・岩手・宮城・福島の4県太平洋沿岸を歩く全長700kmに及ぶトレイルコースである。トレイルとは、歩くための道のことであり、リアス式海岸を歩く、このコースから見る海の風景は本当に美しい。海風を感じながらゆっくり歩き、波の音を聴き、自然景観や歴史文化に関する説明板を読み、カモメやウミネコの声を聴くのだ。本当に気持ちがいい。コロナ禍であるが、ちょっとしたことに気を付ければ、感染の心配もほとんどない。
 これまでは、主に私の住む街を通るトレイルコースを歩いていたが、近隣のコースや、遠くのコースにも手を広げたいと思っている。先週の日曜日は、碁石海岸を中心とする岩手県の末崎半島のトレイルコースの下見に行ってきた。下見といっても、すでに6km程歩いてしまったが。三陸道が全線開通して、本当に岩手県に行きやすくなった。天気が良ければ、GWには、どこかのコースを歩きたい。
 今日の一枚は、日本のサックス奏者MALTAの1986年作品『スパークリング』である。学生時代、同時代に聴いていた。数枚聴いたかと思う。MALTAは、東京芸術大学、バークリー音楽大学を卒業。バークリーでは講師も務め、チャールズ・ミンガスやライオネル・ハンプトンらと共演した経歴をもつ。すごい経歴ではないか。残念ながら、その後のMALTAについてはフォローしておらず、現在の動向については知らない。しばらくぶりにこのアルバムに耳を傾けた。燃え上がる、直球勝負のストレートなフュージョン・サウンドである。と思っていたら、最後の2曲、"Over The Rainbow"と"All Of Me"に打ちのめされた。何と繊細で、情感溢れる演奏なのだろう。

三島由紀夫 VS 東大全共闘

2021年04月17日 | 今日の一枚(M-N)
◎今日の一枚 496◎
Miles Davis
Four And More
 『三島由紀夫 VS 東大全共闘 50年目の真実』をDVDで見た。1969年5月3日、駒場キャンパス900番教室で行われた、三島由紀夫と1000人を超える東大全共闘の学生による公開討論会のドキュメンタリー映画である。なかなか、いや、かなり面白かった。言葉が言葉として通じていると思った。なかでも、三島の他者の言葉を聴く力がすごいと感じた。
 出演者のコメントでは、内田樹と平野啓一郎のものが核心を突いているように思えた。橋爪大三郎のものは、残念ながら、後付けの自己弁明的な言葉に思えた。討論の中での、芥正彦という人が痛々しかった。批判や軽蔑ではない。むしろ、ある種のシンパシーである。アイデンティティーという概念や記号学という武器なしに、素手で社会や文化を、根源的に論じようとする姿が痛々しかったのである。それは高度に抽象的で観念的な思考だったが、生産という言葉を吟味せず、議論を生産関係論へ転換させようとする学生より、ずっと真摯で誠実で根源的な問いに思えた。ただ、芸術的表象に関心をおく芥と、思想に関心をおく三島の議論は、かみ合わず、芥はそれにイライラしているように見えた。人は見たいように見るのである。ただ、芥がその後の人生で自らの思考を問い続けてきたことだけは確かなように思える。
 全体的に、面白い作品だったが、欲をいえば、討論の場面の三島と学生の言葉ををもっと聞きたかった。最近、耳が衰えた所為か、はじめテレビの音声が聞き取りにくかったが、ネックスピーカーを使うとで音声がクリアに聞こえ、時間が過ぎるのがあっという間だった。
 ピュアだが、現在とは違った意味でハードな時代だったのだと思う。根源を問われるという意味においてだ。私の時代に、アイデンティティーの概念や記号学や構造主義というツールがあって良かったと思う。でなければ、強度のない人は、錯乱するか自殺してしまったかもしれない。
宣伝文では、タレントのYOUの次の言葉が印象深かった。
108分間。彼等の言葉と熱に圧倒され続けた。
生きる考える行動をする意味が明確に与えられた時代。
承認欲求に溺れるような真逆の50年後。
同じ場所とは思えない。

 今日の一枚は、マイルス・ディヴィスの『フォア・アンド・モア』である。1964年のニューヨーク、リンカーンセンターでの実況録音盤である。
Miles Davis(tp)
Herbie Hancock(p)
George Coleman(ts)
Ron Cater(b)
Tony Williams(ds)
 スピード感とドライブ感がいい。60年代のマイルスのサウンドに決定的な影響を与えているのは、実はトニー・ウィリアムスのドラミングなのだ、と私は以前から思っている。
 東大全共闘には、60年代のマイルスが似合う。それは、速度と強度と孤独に関係しているように思う。
 

あのくたらさんみゃくさんぼだい

2021年04月17日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 495◎
Joe Henderson
Mode For Joe
 「あのくたらさんみゃくさんぼだい」、レインボーマンである。漢字では、「阿耨多羅三藐三菩提」と書くらしい。私も最近知った。もちろん仏教用語である。《一切の真理をあまねく知った最上の智慧 》、あるいは《真理を悟った境地》のことをいうようだ。当然であろう。レインボーマンは、インドの山奥で修行して提婆達多(ダイバ・ダッタ)の魂を宿しているのだ。 ヤマトタケシは、この「あのくたらさんみゃくさんぼだい」を三唱した後、「レインボー・ダッシュ○○」と叫び、必要に応じて、七つの化身のうちのいずれかに変身するのである。七つの化身とは、月の化身(ダッシュ1)、火の化身(ダッシュ2)、水の化身(ダッシュ3)、草木の化身(ダッシュ4)、黄金の化身(ダッシュ5)、土の化身(ダッシュ6)、太陽の化身(ダッシュ7)である。一週間である。七つの化身=七曜=虹の七色ということで、レインボーなのであろう。ヤマトタケルを思わせるヤマトタケシが、仏教的な化身に変身するのである。神仏習合である。
 内容は、もはやよく覚えていない。webによると、東南アジア諸国など、かつて日本に侵略された国の人々による秘密結社「死ね死ね団」が、日本人を憎悪し復讐するため、日本国家の滅亡と日本人撲滅を企むという設定だったようだ。だから、敵は怪人や宇宙人ではない。人間の、反日国際テロ組織なのだ。「死ね死ね団」の手口はすごい。毒薬や麻薬を配布したり、偽札をばら撒いて日本経済を大混乱に陥れようとしたり、地底戦車で人工地震を発生させたり、あるいは同時爆破テロを計画したり、石油輸入の妨害や、要人の誘拐などもあったようだ。 
 ヤマトタケシは、こうした敵と祖国を守るために戦うのである。しかし、私生活を犠牲にして戦いに明け暮れる日々に疑問をもったり、戦えば戦うほど師の提婆達多の平和を希求する教えから遠ざかっていくのではないかと悩んだりする。 
 すごい物語である。定年したら見てみたいものだ。
 さて、今日の一枚は、ジョー・ヘンダーソンの1966年録音盤、『モード・フォー・ジョー』だ。パーソネルは次の通り。
Lee Morgan(tp)
Curtis Fuller(tb)
Joe Henderson(ts)
Bobby Hutcherson(vib)
Cedar Walton(p)
Ron Carter(b)
Joe Chambers(ds)
 フォーマットは、三管フロントによるハードバップそのものだが、音楽のイディオムは完全に60年代新主流派的である。シダー・ウォルトンのピアノがサウンドの傾向を規定しているように思える。一曲目から、全体を引っ張るようなスピード感で展開されるジョーヘンのソロが素晴らしい。後に続くメンバーたちも、そのスピード感を維持しつつ、流麗なソロを展開する。アクセントをつけるヴァイヴが何ともいえず、いい味を出している。
 ジョーヘンは基本的に好きだ。

稗田阿礼とサヴァン症候群

2021年04月15日 | 今日の一枚(I-J)
◎今日の一枚 494◎
Jeff Beck
Wired

 『古事記』の序文には、その成立について、天武天皇に舎人として仕えていた稗田阿礼という人物が、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて、古くから大王家に伝わった『帝紀』と『旧辞』の誦習を命ぜられたと記されている。奈良時代に入って、元明天皇の詔により太安万侶という人物が稗田阿礼の暗記していたものを筆録し、712年に『古事記』が成立したというのだ。
 『帝紀』は大王の皇位継承を中心とする伝承や歴史をまとめたものであり、『旧辞』は大王家に伝わる神話や伝承であるとされる。いずれも現存していない。
 荒唐無稽な話だと思っていた。そんな超人的な記憶力のある人物が存在するのだろうか。実際、稗田阿礼の名は『日本書紀』にも『続日本紀』にも見えず,そのことから架空の人物とする説も存在する。古事記には神話的な部分が多く含まれており、稗田阿礼についても架空の話として片づけることもできよう。しかし、だとしたら稗田阿礼に誦習させたことを何のためにあえて記したのだろうか。稗田阿礼は神話的な時代ではなく、7世紀後半から8世紀前半の人物である。『古事記』が成立したほぼ同時代のことについて、そんないい加減なことを記すだろうか。古事記や日本書紀の比較的新しい時代の記述については、脚色も多くもちろんすべてがそのままの事実とはいえないが、記述に関係する遺跡が実際に発掘されるなど、ある一定の事実に基づいて記されていると考えられる。
 「サヴァン症候群」のことを知るに及んで、稗田阿礼のスーパー記憶力についてもありうる話かも知れないと考えるようになった。「サヴァン症候群」は、ダスティン・ホフマン主演の映画『レインマン』で有名になったが、驚異的記憶力、音楽、計算能力、知覚・運動・芸術、時間や空間の認知など特定の領域に天才的な能力をもつ人々がいるというのだ。天才的能力を有する一方、他の部分の能力は平均的かそれ以下のことが多く、その半数に自閉症スペクトラム障害(ASD)や関連疾病がみられるらしい。2001年の研究報告では、自閉症の0.5~1%程度の割合で存在するそうだ。また、ASDが男性脳と関係が深いことから、サヴァン症候群も男性に多いともいわれている。

 今日の一枚は、ジェフ・ベックの『ワイアード』だ。1976年リリースの、ギター・インストロメンタル盤である。ギター小僧だった頃からの愛聴盤である。私の中では、前作の『ブロー・バイ・ブロー』(→こちら)と双璧である。どちらかというと、『ブロー・バイ・ブロー』の方が好きだったのであるが、最近、『ワイアード』を聴いて、その地位が逆転しつつある。アルバムとしての完成度もそうだが、何というか、ピッキングの表現力が違うのである。チャールズ・ミンガスの③ Goodbye Pork Pie Hat などはそれが如実に表れた演奏だ。1970年代という時代に、このような作品が録音されたことに、改めて驚愕の念を抱く。最後の曲、Love Is Green が終わった後の虚無的な静寂感が何ともいえずいい。


蜂ケ崎展望台

2021年04月11日 | 今日の一枚(S-T)
◎今日の一枚 493◎
Stanley Cowell Trio
Dancers In Love
 新しくできたという「蜂が崎」展望台に行ってみた。東北地方最大のつり橋、気仙沼湾横断橋を近くで見学するために、大浦地区の防潮堤上に作られた施設で、横断橋を真横の角度から見ることができる。遠くには気仙沼大島大橋も見え、2つの橋が重なった形になる。2つの橋を含む風景の雄大さという点では、安波山からの眺望に一歩譲るが(→こちら)、横断橋をより近くで、海の青さを感じながら眺められるという点では、こちらがいい。今日は天気はもよく、気持ちの良い気候だった。心穏やかな一時だった。
 今日の一枚は、スタンリー・カウエル・トリオの『恋のダンサー』である。1999録音。venus盤である。ラグタイム的な曲想で、気持ちよくスウィングするピアニストだ。venus盤らしい、ベース音を強調した音の強い録音である。スウィングを信条とするこのピアニストには、venusの音が意外とマッチしている気がする。心ウキウキ。何だか楽しい。今日のような心晴れやかな日は、こういうサウンドがいい。

キース・ジャレット

2021年04月11日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 492◎
Keith Jarrett
Death And Flower
 ずっと心配している。キース・ジャレットのことだ。2018年に脳卒中を2回発症して麻痺状態となり、ピアノ演奏に復帰できる可能性は低いということだ。思えば、90年代に慢性疲労症候群を発症し、それを克服して復帰したばかりだった。けれども、キース・ジャレットの演奏の映像を見て、さもありなんと思ってしまう。精神を、エネルギーを集中し、一音一音を奏でているのだ。血管がはち切れそうだと思う。
 私は、キース・ジャレットが好きだ。アルバムも相当な枚数を所有している。何故好きなのかは、うまく整理がつかない。言語化できないのだ。ただ、ものすごい吸引力で引き付けられる。不可抗力といっていい。
 回復と健康を願いつつも、身勝手なことをいえば、音数は少なくていい、もう一度エクスタシーのピアノを聴かせてほしいと思う。

 今日の一枚は、キース・ジャレットの1974年録音盤、『愛と死の幻想』である。パーソネルは、
キース・ジャレット(p, ss, fl, per) 
デューイ・レッドマン(ts, per) 
チャーリー・ヘイデン(b) 
ポール・モチアン(ds, per) 
ギレルミ・フランコ(per) 
である。通称、《アメリカン・カルテットの作品である。学生時代、気が狂ったように聴いた。もう、40年も前のことだ。アメリカンなのに、深遠な作品だ。しばらくぶりに聴いたが、心がざわめき、思考がぐるぐるかき混ぜられ、想像力の翼が羽ばたくのを感じる。チャーリー・ヘイデンとのデュオ② 「祈り」、凄い。圧倒的にすごい。

発掘狂騒史③

2021年04月10日 | 今日の一枚(K-L)
◎今日の一枚 491◎
Kenny G
Gravity
 「発掘狂騒史①」(→こちら)と、「発掘狂騒史②」(→こちら)の続きである。
 旧石器捏造事件で捏造発覚に大きな役割を果たした、角張淳一君についての話だ。角張君とは同じ大学の史学科3組の同期だった。専攻も違い、親しい関係ではなかったが、顔と名前ははっきりと憶えている。卒業後のことは、上原善広『発掘狂騒史』と、同級生からの若干の伝聞によって知るのみである。角張君は同じクラスだったが、いろいろな事情で私より2歳年上だった。
 すでに、小田静夫や竹岡俊樹が藤村らの石器を批判する論文を発表していたが、考古学界からはほとんど無視されていた。角張君は、もともと藤村とは友人だったようだが、石器の発掘状況に疑問をもち、竹岡俊樹に相談、旧石器形式論の指導を受ける中で、捏造に確信をもつにいたった。友人と真実の間での葛藤、また発掘を請け負う遺跡調査会社の立場もあり、身を引き裂かれる思いをしながら、2000年7月に代表を務める発掘調査会社アルカのHPに「前期・中期旧石器発見物語は現代のおとぎ話か」と題する論文を発表する。この論文が、考古学界や考古ファンの間に静かな波紋となって広がった、と『発掘狂騒史』は記す。そうした中で、考古学に詳しい知人から電話で情報を受けた毎日新聞記者が動き、藤村が石器を埋めている決定的瞬間を映像で捕らえたのである。
 『発掘狂騒史』によれば、角張君は苦学の末、5~6年かけて大学院を出たものの、結局、博士論文は出さなかったという。一度は提出したのだが、「岩宿の前期旧石器」に触れた個所が、委員会で問題にされて駄目になったらしい。「岩宿の前期旧石器」とは、相澤忠洋や芹沢長介が発見した石器のことで、学界でもその真偽が問題視されていたが、角張君はそのほとんどを否定し、さらに1949年に杉原荘介が岩宿で発掘したハンドアックスさえも捏造の可能性があるなどとしたため却下されたらしい。角張君はこのとき、「教授が絶対というのが嫌でたまらない、議論は学生であっても平等であるべきなのに、考古学界はまるで白い巨塔だ」といって憚らなかったようだ。結局、角張君は学閥至上主義の考古学界に嫌気がさし、郷里で遺跡発掘調査会社を立ち上げたのだった。学問的な批判精神と厳密さを追究するまなざしをもっていたのだろう。

 今日の一枚は、ケニーGの『愛のめざめ』だ。1985年作品である。スムースジャズの快作である。本当に懐かしい。ジャズ的な演奏とはちょっと違うが、何を隠そう当時は結構聴いた。安物のAIWAのヘッドホンステレオにカセットテープを入れ、夜の渋谷の街を歩いた日々がよみがえるようだ。⑤ Japan はやはりいい曲である。今聴いても、心がちょっとざわめく。何十年も聴いていなかった作品であるが、カセットテープが目につき聴いてみた。貸しレコード屋で借りたLPをダビングしたものだ。このアルバムを聴いていた頃、馬場壇A遺跡から発見された「旧石器」にナウマンゾウの脂肪酸が付着していたことが大きな話題となっていた。数年後、高校教師となった私は、郷里宮城県のこの遺跡を授業で大きく取り上げていた。

発掘狂騒史②

2021年04月04日 | 今日の一枚(O-P)
◎今日の一枚 490◎
Oliver Nelson
Blues And The Abstract Truth
 「発掘狂騒史①」(→こちら)の続きである。
 捏造発覚前に藤村らの旧石器を批判したのは、小田静夫、チャールズ・T・キーリー、竹岡俊樹、角張淳一、竹花和晴に限られる。捏造発覚前の考古学界は、批判的な学者や研究者を排斥したり圧力を加えたりしてきたのだった。 
 このうちの角張淳一君とは、大学時代同じ史学科3組だった。専攻も違い、特に仲が良かったわけではなかったが、顔も名前も思い出すことができる。上原善広『発掘狂騒史』(新潮文庫)は、角張君のことにも多くの紙数を割いており、私はこの本で捏造事件と角張君の関わりを知ったのだった。
 発掘調査会社アルカの代表だった角張君は、もともと捏造した藤村とは友人であり、彼らによる新しい発見が出るたびに一緒に喜んでいたという。ところが、不自然な発掘の状況から、藤村らの石器に疑問を抱くようになり、竹岡俊樹に相談して指導を受け、捏造に確信をもつようになる。角張君は、親友と捏造告発の間で悩み、引き裂かれていった。そもそも一大ブームを巻き起こしていた前期旧石器を、発掘を請け負う調査会社が批判するなど、会社の存亡の危機にかかわることだ。ダブル・バインドだ。角張君は、どんどん酒量が増えて健康を害していったようだ。2000年7月、ついに角張君は自社のHPに「前期・中期旧石器発見物語は現代のおとぎ話か」と題する論文を発表する。この論文が捏造発覚の起爆剤となるわけだが、返ってきた反応は考古学ファンらからの脅迫電話や、学者・研究者からの嫌がらせ、考古学界長老からの脅しだったという。毎日新聞のスクープで捏造が発覚してからも、角張君はアルコールに溺れ、酔っては友人・知人に電話をかけ続けたという。ある人物には「捏造を暴露したことを後悔している」といったという。捏造発覚後の検証委員会の委員には、角張君も竹岡さんも呼ばれず、結局、角張君は2012年5月に52歳という若さで急死してしまう。
 旧石器捏造事件は、誠実な一人の研究者の命をも奪ったのだ。

 今日の一枚は、オリバー・ネルソンの『ブルースの真実』だ。1961年録音作品。パーソネルは、次の通りである。
Oliver Nelson(as, ts)
Eric Dolphy(as, fl)
Freddie Habbard(tp)
George Barrow(bs)
Bill Evans(p)
Paul Chambers(b)]
Rey Haynes(ds)
 すごいメンバーである。こんなに4番バッターだけ集まったら演奏が破綻してしまうんじゃないかと思ったりするが、破綻しないのはオリバー・ネルソンの編曲の才能なのだろう。オリバー・ネルソンが提示したフォーマットの中で、メンバーは自分のスペースを与えられ、エリック・ドルフィーが、フレディー・ハバードが、そしてビル・エヴァンスが斬新で輝かしいソロを展開する。そして最後は全員でブルースに収斂していく。今日はこの文章を書き、角張君のことを考えながら、ボリュームをしぼって聴いている。ボリュームをしぼっても、まったく違う形でこのアルバムの良さを感じることができる。いい感じだ。闇の中から、静かに音の響きが立ち上がってくるようだ。今日は禁酒日にしようと思っていたが、ウイスキーが飲みたい心持になってしまう。

発掘狂騒史①

2021年04月04日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日に一枚 489◎
Cello Accustics
Paris 1256
 2000年に発覚した、旧石器捏造事件についての話である。
 民間考古学団体、東北旧石器文化研究所副理事長の肩書をもっていた藤村新一という人が、自分で埋めた石器を旧石器として発掘していたことを毎日新聞がスクープした事件である。
 それ以前、高校教科書には、座散乱木遺跡や馬場壇A遺跡、高森遺跡、上高森遺跡などの名とともに、約60万年前の原人段階の文化の存在が記されていた。私自身、授業でそう教えていた。それらの遺跡の多くが宮城県だったことに一抹の疑問はあったが、芹沢長介門下の東北大学系の考古学研究者が多数関わっていたことで、その疑問は深まらなかった。それどころか、宮城県は民間考古学団体が積極的に発掘に参加できる《ひらかれた》風土ゆえに、前期旧石器が多く発掘されるのだと思っていた。
 旧石器の捏造が発覚する数年前、結婚式で学生時代の友人たちが集まった際、考古学専攻だった連中から「お前のところの旧石器遺跡は絶対おかしい。北関東の研究者はみんなそう思っているよ」と口を揃えていわれた。まさかそんなことはあるまい、とその時は思った。数年後、旧石器捏造が発覚し、東北旧石器文化研究所の関わった遺跡は全部だめだということになった。その時点での日本の前期旧石器文化の存在は、事実上否定されたといっていい。なぜ、専門の研究者が一緒にいながら、このような事件が起きたのか。まったく理解に苦しむことだった。
 捏造発覚後、旧石器捏造事件関連本がいくつか出版されたが、関係者たちの自己弁護のために書かれたといわれても仕方ないようなものもあった。その中で異彩を放っていた本がある。上原善広という人の『石の巨塔 発見と捏造 考古学に憑かれた男たち』(新潮社)という本である。丹念な取材に基づいたノンフィクション作品である。この本は、のちに『発掘狂騒史 「岩宿」から「神の手」まで』(新潮文庫)として文庫化された。私が読んだのは文庫版の方だ。「登呂の鬼」といわれ、明治大学に考古学王国を築き上げた杉原荘介と、その弟子でありながら杉原と対立して東北大学に去った芹沢長介の確執を軸に戦後の日本考古学史を俯瞰し、その中に捏造事件を位置付けようとした本だ。それは、捏造事件が、藤村という人ひとりの愚かな行為にとどまらない広がりをもっていることを示唆していた。実際、藤村らの旧石器を批判する論文が捏造発覚前にいくつか発表されていたが、それらはすべて「学界」から黙殺されて、逆にパッシングを受けていたのである。 
 今日の一枚は、Cello Acousticsの『Paris 1256』だ。伊藤秀治という人のプロデュースによる1992年録音作品である。
 パーソネルは、次の通りだ。
Niels Lan Doky(p)
Vincent Courtois(cello)
Paul Pichard(cello)
Marie-Ange Martin(cello)
Helene Labarriere(b)
作品のコンセプトは、伊藤秀治さんの次の文章の通りだ。
いい音色の代名詞とも言えるチェロのみでアンサンブルを構成し、これが中音域中心にサウンドを安定させる。その前をピアノの88鍵が縦横無尽に動き回る。やはり低域はコントラバスに任せて重量感が出る。
 やはりニルス・ランドーキーのピアノが聴きものだ。安定したサウンドの中を駆け巡るニルスのピアノのスピード感がいい。ときどき聴きたくなる一枚だ。

復興祈念公園、そして安波山へ

2021年04月03日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 488◎
Chet Baker & Paul Bley
Diane
  今日は午後から3月11日にオープンしたという「気仙沼市復興祈念公園」に行ってみた。なかなか立派な施設だった。地区ごとにまとめられた震災の犠牲者名簿もあり、じっと見入っている見学者も多くいた。ここからの眺めは最高だ。この街の港や、自分が生まれ育った鹿折の町を一望にすることができる。だからこそ、立派な施設ができて良かったと思う反面、寂しさもある。思い出の場所なのだ。この丘は陣山と呼ばれていた。中世の山城跡だ。かつて丘の麓に住んでいた私は、よくここを訪れた。ラジカセを持参し、ビートルズやローリング・ストーンズを聴きながら、草の斜面に寝転んでO・ヘンリの短編をいくつも英語で読んだ。それが私の英語の勉強だった。汽笛の音や船のエンジン音が優しく私を包み、まどろみの中に誘うこともしばしばだった。だから、陣山を崩して造られたこの復興記念公園には複雑な思いだ。
 せっかくここまで来たのだからと、しばらくぶりに安波山まで行ってみようと思った。安波山は高い山ではないが、この街を見守るようにそびえ立つ、この街のシンボルのような山だ。お笑いコンビのサンドウィッチマンが大津波を見たという場所までは車で、そこから山頂までは歩いて登った。所々に「万葉の歌」の立て札があり、登山者の心を癒してくれる。私は一つ一つの歌を声を出して読み、意味を考えながらゆっくりと登った。息を切らしながら登った、山頂からの眺めは筆舌に尽くしがたいものだった。

 今日の一枚は、チェット・ベイカーとポール・ブレイの1985年録音作品の『ダイアン』だ。年齢を重ねるごとに晩年のチェットが好きになっていく。もちろん、若い頃のキレのあるチェットも好きだ。けれども、テクニックをひけらかさず、自分にとって必要な音を、必要な分だけ、必要なように奏でる晩年のチェットに、ものすごい吸引力で引き付けられる。前衛的な演奏で知られるポール・ブレイが、その個性を表出しながらも決して出しゃばらず、チェットの演奏に寄り添い、しっかりと支えている。ウイスキーをすすりながらチェットのトランペットに耳を傾けると、いつも目をつぶって音楽に没入してしまう。失ってしまった時間への哀惜の念と、それでも自分の人生を肯定し、優しく包み込むようなトランペットに、時々、涙がこぼれてしまうこともある。

偽書『東日流外三郡誌』

2021年04月03日 | 今日の一枚(G-H)
◎今日の一枚 487◎
Herbie Hancock & Wayne Shorter
1+1
 『東日流外三郡誌』、「つがるそとさんぐんし」と読む。偽書である。学界の定説である。青森県五所川原市在住の和田喜八郎という人が、自宅の改築中に屋根裏の長持ちの中から出てきたとして紹介した書物である。1975年に刊行された『市浦村史資料編』にその一部が収録されたことから、広く知られるようになった。
 そこには、紀元前7世紀の日本列島で、津軽を拠点に大和政権と敵対し続けた荒覇吐(アラハバキ)族の歴史が綴られていた。『古事記』『日本書紀』にも記されていない、ヤマト政権によって抹殺された幻の東北王朝の歴史である。
 在野の歴史研究者と名のる人たちによって、その真贋論争が展開されたが、アカデミズム的にも、史料中に登場する用語が新しすぎる点、発見状況の不自然さ、考古学的調査結果との矛盾などから、偽書であるとの評価が確定している。そもそも、和田の自宅は昭和16年の建築であり、古文書類が伝存して偶然発見される可能性は極めて低い。偽書の作成者は、筆跡から和田喜八郎その人だと考えられている。筆跡について指摘されると、公開したのは底本でなく自分が書写したものであり、底本は別に存在すると主張し、のち底本は紛失したと主張を変えた。和田は、『東日流外三郡誌』以外の「古文書」も次々と自宅から「発見」して「和田家文書」と呼ばれたが、それらの筆跡も同じであったという。和田の死後、自宅が調査されたが底本(原本)は発見されず、屋根裏にも膨大な「和田家文書」を収納できるスペースは存在しなかったという。
 和田は亡くなる1999年まで、約50年にわたって史料を「発見」し続けたことになる。すごい情熱とバイタリティーである。

 今日の一枚は、ハービー・ハンコックとウェイン・ショーターの1997年録音作品、『1+1』だ。デュオ作品である。この作品が発売されてすぐに購入した。確かに封を切った記憶はあるが、なぜか一度も聴かずに退蔵されていた。
 なかなかいい。もう少し聴き込んでみないと評価はできないが、悪くない。ハービー・ハンコックのセンシティヴな音遣いの中で、ウェイン・ショーターが時にデリケートに時に激しく、縦横無尽に吹きまくる、という感じだ。それぞれの個性がはっきりと表れている。両者の掛け合いもはっきり見えてなかなか興味深い。ショーターの宇宙的で神秘的なサックスの響きには、ピアノとのデュオが意外にマッチする気がする。
 


中大兄皇子の禁断の恋?

2021年04月03日 | 今日の一枚(O-P)
◎今日の一枚 486◎
Paul Bley
Open, To Love
 「中大兄はなぜすぐに天皇になれなかったのか?」に関する俗説である。
 中大兄が、孝徳天皇の后だった間人皇女(はしひとのひめみこ)と密通していたという話だ。しかも、間人皇女の父は舒明天皇、母は皇極(斉明)天皇である。つまり、中大兄の同母の妹、実の妹ということになる。古代社会では、異母兄妹の結婚や恋愛はごく当たり前だった。しかし、同母の妹ではまったく話が別である。のちの律令も「国津罪」として禁じており、実際その禁忌を犯して追放された皇子・皇女も存在するのだ。この話が本当だったとすれば、禁忌を犯した中大兄に天皇になる資格がないと考えられても不思議はない。反対勢力が結束して、そのことを理由に中大兄の即位を阻止した可能性も考えられる。昨日、孝徳天皇と対立した中大兄が群臣を引き連れて飛鳥に帰り、残された孝徳天皇が難波宮で失意のうちに亡くなったという話を記した(→こちら)。この時も間人皇女は中大兄に同行していたようなのだ。夫を捨てて兄を選んだ、ということになる。下世話な話になるが、孝徳天皇と中大兄の対立は、間人皇女と中大兄の関係に真実味を与えてしまう。
 ただ、この中大兄の禁断の恋の話は、史料的な裏付けに欠けるという意味で、十分な説得力はない。俗説のひとつというべきであろう。先に述べた難波から飛鳥に帰るとき2人は一緒だった話とか、間人皇女の夫である孝徳天皇の歌に2人の仲を疑わせる言葉があるといった程度の根拠であり、真相は闇である。

 今日の一枚は、ポール・ブレイの『オープン, トゥ・ラブ』である。1972年録音作品のピアノ・ソロ作品だ。これはジャズなのだろうかと思ってしまう。まったくスウィングしないのだ。魅惑的なメロディーもない。現代前衛音楽的である。けれども、クラッシック的ではない。弾き方はジャズの話法である。キース・ジャレットのリスナーだった私は、比較的抵抗なく受け入れることができたが、ハード・パップが大好きなジャズファンは抵抗があるかもしれない。事実、今はCDもあまり売れないらしく、過去の作品を探すのも難しいことがある。硬質で静寂なピアノの響きを聴く作品である。音と無音の織りなす冷たい世界を聴く作品である。冷たい世界の中で時折現れる、熱くピアノに没入するように音数が多くなる瞬間に、ハッとさせられる。

中大兄皇子の謎

2021年04月01日 | 今日の一枚(G-H)
◎今日の一枚 485◎
Helge Lien Trio
Spiral Circle

 中大兄皇子、のちの天智天皇についてである。
 中大兄皇子は、645年の大化の改新(乙巳の変)で蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼしたクーデターの首謀者・中心人物だったといわれる。少なくとも、その一人ではあったはずだ。当時、17歳と若かったが、父は舒明天皇、母は皇極天皇であり、血統は良かった。
 ところが、この事件の後、中大兄は即位せず、叔父の孝徳天皇が天皇となった。中大兄は皇太子として政務をとったのだ。数年後、中大兄は孝徳天皇と対立し、群臣を引き連れて難波宮から飛鳥に帰ってしまう。孝徳天皇は、失意のうちに654年に難波宮で死去する。
 しかし、中大兄はこのときも即位しなかった。即位したのは、中大兄の母だった。斉明天皇でである。中大兄の母はすでに天皇を経験していた(皇極天皇)。一度天皇になった人が再び天皇になることを「重祚」(ちょうそ)といいう。斉明天皇の即位は、女帝の重祚であり、これはまったく異例のことだった。中大兄は、またしても皇太子として政務にかかわることになる。
 661年に母の斉明天皇が死去するが、何とまたしても、中大兄はすぐには即位しなかった。即位しないまま政務をとったのだ。即位しないまま政務をとることを「称制」というが、中大兄の「称制」は実に7年間(661年~667年)に及んだ。
 668年、中大兄はやっと天皇となる。天智天皇である。大化の改新からカウントすると23年になる。しかし、即位の前年の667年に近江の大津に都を移したことが気にかかる。飛鳥の都が廃されたわけではないので、両都制だったというべきだろう。これは通常、白村江の戦いの敗北(663年)による対外危機が背景にあると理解されている。外敵を恐れ、海(瀬戸内海)から遠いところに都を移したという意味である。それは間違いではなかろう。しかし一方、大津宮が日本の中心を意味する「畿内」の外側であることを考えると、中大兄の即位の事情と何か関係がありそうでもある。
 「中大兄皇子は、なぜすぐに天皇にならなかったのか?」あるいは、「なぜ天皇になれなかったのか?」これは、古代史上の大きな「謎」である。

 今日の一枚は、ノルウェイのピアニスト、ヘルゲ・リエンの『スパイラル・サークル』である。2002年録音作品である。まさに北欧的サウンドだ。ちょっと生真面目だが、硬質で澄んだピアノの響きが素晴らしい。これまで何度か取り上げてきたように、私はこのピアニストが大好きである。CD帯の宣伝文句に「滴るリリシズム」とあるのも偽りではない。① Liten Jazzballong。一曲目から私の耳は釘付けだ。