WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

エアロスミスのTシャツを買った!

2022年07月31日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 586◎
Aerosmith
Live! Bootleg
 エアロスミスのロゴマーク入りのTシャツを買った。綿製の安っぽいTシャツだ。エアロスミスは高校生の頃、よく聴いていたのだ。2週間程前、気仙沼市のイオンで見つけた。買おうかなとも思ったが、いい年をしてエアロスミスのTシャツを買うという行為が気恥しく、また綿製のやや厚手のものにもかかわらず、1700円という値札が付いていたため、ちょっと高いなと思い、スルーした。一昨日、妻と東北歴博(→こちら)に行った帰りに石巻市のイオンに立ち寄ったところ、同じものと思われるTシャツを発見。地元から遠い石巻で、しかも1000円に値下がりしていたこともあって、ついに購入。ちょっとした禁忌を犯したような気分だ。
 エアロスミスは、初期において何度かロゴマークを変更しており、このTシャツのロゴマークは現在のもののようだ。私見によれば、1978年の『LIVE ! BOOTLEG』に刻印されたのが最初ではなかろうか。という訳で、このTシャツを着て、この暑い日に暑苦しいエアロスミスを聴いている。

 今日の一枚は、エアロスミスの1978年作品、『ライブ・ブートレック』である。高校生の頃、ラジオやロック雑誌で宣伝していた。欲しかったが、2枚組ということもあり、その時は断念せざるを得なかった。また、ブリテッシュ・ロックかぶれの高校生の私にとって、アメリカの能天気なバンドを聴くのはちょっとした秘密めいた行為だった。特に、グランドファンクとエアロスミスについては、友達にいったら馬鹿にされるんじゃないかと思ったものだ。LPを買うことはなおさらのことだったと思う。したがって、このアルバムについては、少し後にFMでエアチェックしたテープで聴くことになった。
 エアロスミスの何枚かのCDは、大人になってから購入したが、このアルバムのことはすっかり忘れていた。今日は、Apple music のハイレゾロスレスで聴いている。iPadから外付けDACを通してステレオ装置で聴いている。録音状態もあるのだろう。それ程音がいいとは感じない。
 到底いい演奏とは言えない気がするが、LIVEの高揚感は伝わってくる。スピード感が生かされた演奏もあるが、鈍臭い演奏も目立つ。もちろんたまにはLIVEも悪くないが、どちらかというとエアロはスタジオ録音盤が好きた。サウンドが緻密に練られている気がする。LIVEとスタジオ盤ではサウンドの水準がかなり違う。LIVEで不必要な動きを繰り返し、演奏も薄っぺらい感じがするジョー・ペリーというギタリストに私は懐疑的だ。本当のところはよくわからないが、バークリー音楽院を卒業したブラッド・ウィットフォード というもう一人のギタリストが、エアロのスタジオ録音を支えてしたのかもしれない。
 

つつじ満開の徳仙丈山2022

2022年05月14日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 580◎
Bill Charlap Trio
'S Wonderful
 昨日の雨が上がったので、家族で午後から徳仙丈山に登った。徳仙丈山は、私が住む気仙沼市のつつじの名所である。山麓・中腹は満開で、本当に美しい光景を目にすることができた。GWに一度登ったおかげで、今回は胸が苦しくなったりすることなく、スムーズに登ることができた。家族の様子を見る心の余裕もあり、帰りは脇道にも入るなどプチ冒険しながら下山した。

 第一展望台から見たつつじが原と、つつじ街道の様子である。

 山頂付近はつぼみが目立つものの、すでに咲いているものも多かった。来週あたりには、山頂も満開になるかもしれない。天気が良ければ、昨年同様、急登を含む気仙沼口~本吉口の縦断トレッキングに挑戦したいと思った。

  山頂からの眺めはやはり素晴らしい。旧式のi phoneで撮影した写真では小さくしか見えないが、気仙沼湾横断橋や気仙沼大島大橋が大きくはっきりと見えた。山頂の、徳仙丈の神様にお参りして下山した。

 今日の一枚は、ビル・チャーラップ・トリオの2002年作品、'S Wonderfulである。『スウィング・ジャーナル』誌がこのアルバムの宣伝攻勢を行っていたのが昨日のことのようだが、もう20年も前のことだということに改めて驚く。いつもながらの、ビル・チャーラップの寛いだ感じのピアノが好ましい。このピアニストの高音のタッチが好きだ。美しいオルゴールのようだ。

徳仙丈なう2022①

2022年05月04日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 579◎
Bill Evans
You Must Believe In Spring

 思い立って、つつじの名所、徳仙丈に登った。今、山頂である。
 昨年入院してからすっかり体力が落ちてしまった。退院して以降、冬だということもあり、トレッキングはサボっていた。もうそろそろトレーニングを開始しようと思い立ち、軽めのコースということで登って来たのである。
 予想通り、まだつつじは咲いておらず、山麓、中腹のツツジはこんな感じだ。後2週間程度で咲く感じだろうか。


 第一展望台からの「つつじが原」の眺めは、こんな感じである。最盛期にはつつじの絨毯となる。
 
 
 山頂からの眺め(上:本吉側と下:気仙沼側)である。太平洋と気仙沼湾が見える。

 やはり、ブランクは大きく、途中、胸が痛くなったりしたが、休み休み登り、何とか山頂まで辿り着いた。ハードなコースにチャレンジするためには、もう少しトレーニングが必要のようだ。今、山頂付近に横になって休みながらこの記事を書いている。
 さて、下山するか。(14:30)

 帰宅した。追記したい。下山は、膝と太ももに負担がかかり、ちょっとしんどかった。明日、傷みだすかもしれない。市街地から気仙沼側登山口までのアクセス道が整備され、昨年に比べてずっと行きやすくなった。最盛期ないにもかかわらず、駐車場には車が10台程度止まっていた。

 今日の一枚は、ビル・エヴァンスの『ユー・マスト・ビリーブ・イン・スプリング』である。録音は1977年、リリースはエヴァンスの死の翌年1981年である。エヴァンスの作品の内、五指、あるいは三指に入るほど好きな作品である。山歩きをしている間、なぜだか無性にJazzが聴きたかった。Bluetoothスピーカーを持参しなかったのを悔やんだほどだ。
 帰宅してこのアルバムを聴いている。なぜエヴァンスの、このような《暗い》作品を選んだのか、自分でもよくわからない。帰りの車の中で、このアルバムを聴きたいと、頭に浮かんだのである。たった一人の山歩きの中で、いい年をして内省的になったからかもしれない。

古いアコースティックギター

2022年05月04日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 578◎
Live Adventures of 
Mike Bloomfield & Al Kooper
 古いアコースティック・ギターがある。アコースティック・ギターというよりフォーク・ギターという感じかもしれない。最近のアコギと比べると、ちょっと大型のようだ。おそらくヤマハのFGシリーズだと思うが、ラベルがないので型番はわからない。高価なものではない。恐らくは当時2万円程度のものではなかったかと思う。高校生の頃、「天国への階段」を演奏するために買ったのだ。その後、弾くのはエレキギターばかりだったので、大人になり、酔っぱらったときにたまに手にするぐらいだった。最近、ダイナミック・ギター(→こちら)やエレガット(→こちら)などアコースティックギターを弾くことが多くなり、このフォーク・ギターにも手を入れてみようと思った。ただ、スチール弦のギターにはそんなに興味はない。新しいものを購入しようという気はおきない。
 とりあえず、ピンとサドルを交換してみた。ピンを真鍮製のものに交換し、サドルーを牛骨のものにした。牛骨サドルは紙やすりで削ってフィットさせたが、実際に弦を張ってみると、ちょっと弦高が高い気がする。まあいい。この次に弦を交換するときに調整しよう。音は凄く響くようになった。ただ。、ちょっと響きすぎである。サスティンが長すぎて、不自然に感じる。音もキラキラしている。私が最近ナイロン弦のギターに興味を感じるのは、柔らかな音色とともに、今にも消え入りそうな響きにあるのだ。
 とはいえ、せっかく手を入れたのだ。たまには手に取って弾いてみようと思う。
 今日の一枚は、アル・クーパー&マイク・ブルームフィールドの1969年作品、『フィルモアの軌跡』である。いいギターだ。ああ、最高だ。興奮している。過剰なディストーションをかけず、原音に近いトーンで奏でられるブルースフレージングに魅了される。
 恥ずかしながら、このマイク・ブルームフィールドというギタリストをこれまで聴いたことがなかった。最近アル・クーパーを聴き(→こちら)、彼の他の作品をapple music で聴いているうちに出会ったのだ。渋谷洋一『ロック~ベスト・アルバム・セレクション』によると、このアルバムは、『クリームの素晴しき世界』とともに、60年代のインプロビゼーション主体のブルースロックの記念碑的作品、なのだそうだ。知らなかった。私はクリームももちろん好きだが、このアルバムを聴いてこっちの方に共感を感じている。渋谷陽一の評価は過大なものではないと思う。
 もっと若い頃に聴いていたらどうだっただろうか。マイク・ブルームフィールドというギタリストに熱中しただろうか。そうなったような気もするが、今の年代だからこのシブいギタリストを正当に評価できるという気もする。

梅はまだか

2022年03月21日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 572◎
Alan Gorrie
Sleepless Night
 庭の梅がまだ咲かない。いつもならもう咲いている頃だ。私の住む宮城県気仙沼市は、風はまだ冷たいが、それでも日差しはだいぶ暖かくなってきた。梅にはやっと小さなつぼみができたが、まだまだ硬いようだ。咲くまでには、もう2週間以上はかかりそうだ。梅だけではない。花桃も花海棠もハナミズキも、今年はまだまだかかりそうだ。
 庭が色付かないと寂しい。春が来た感じがしない。
 今日の一枚は(といっても3枚目だが)、アラン・ゴリーのデビュー作、1985年作品の『スリープレス・ナイト』である。レコード棚を整理していて発見した一枚である。その存在は知っていたし、何度か聴いたことも覚えている。しかし、どんな経緯で買ったのか、全く思い出せない。アラン・ゴリーがどんな人なのかも知らない。このアルバムがリリースされた1985年前後は、私がAORを聴きはじめた時期なので、その流れでどこかで知ったのだろう。webで検索すると、アラン・ゴリーという人は、スコットランドのミュージシャンで、ソウル、ファンク系バンド「アヴェレージ・ホワイト・バンド」の中心メンバーの一人ようだ。 ②Diary of A Fool は佳曲である。この曲を聴いて、当時の情景が何となく蘇ってきた。

ジョン・レノンのコード・フォーム

2022年02月26日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 567◎
The Beatles
Help
 ジョン・レノンのコード・フォーム(コードの押さえ方)が独特のものであることはファンの間では有名だ。最近、エレガットでビートルズ・ナンバーをソロ演奏をするとき、そのことをいつも思い出す。『ギターマガジン』のwebページによれば、それらのコードフォームの中には、ジョージ・ハリスンやポール・マッカートニーにも共通するものもあるらしい。少年時代からの付き合いの中で、押さえ方を共有してきたのかもしれない。これらのコード・フォームは、3度や5度の音を強調し、あるいは6thや7th、テンションノートを強調することで、ビートルズのサウンドに独特の響きをもたらしている。エレガットでソロのアレンジをする場合も、そのことを頭に入れておくと絶妙のニュアンスを再現できることが多く、うれしい。

 今日の一枚は、ザ・ビートルズの1965年作品『ヘルプ』である。ビートルズボックスで通して聴くと、ダンスバンドとして出発したビートルズが一作ごとに成長し、この『ヘルプ』からは秀逸なポップバンドの風貌を呈するようになることがよくわかる。
 名曲"Yesterday"のアコースティック・ギターは、すべての弦を一音下げて演奏されるが、例えばイントロのGコードは普通のものではなく、上記のGコードから1弦をミュートしたフォームで奏でられる。2弦の、ルートの5度の音が独特の響きとニュアンスをもたらし、普通のGでは表すことのできない、不安定で揺れる感じを表出する。それが心の震えを表現しているのだ。

天皇制批判の常識

2021年11月07日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 555◎
Ben Sidran
Laver Man
 小谷野敦さんの本のタイトルである。『天皇制批判の常識』(洋泉社新書:2010)という書物である。この本の中で、小谷野さんは、従来の戦争責任や権力論、階級・君主制論と全く別の視点で、天皇制度を批判し反対している。すなわち、「法の下の平等」の視点から、日本に居住していながら国民として扱われず、基本的人権を保障されない天皇あるいは皇室という存在を犠牲にして、社会制度が成り立っていることを批判しているのである。被抑圧者としての民衆ではなく、天皇の人権という観点から論じているところが面白い。なお、この本の中でも触れられているが、社会学者の橋爪大三郎さんも、基本的人権が認められない不合理に皇族を縛り付ける国は人権と民主主義の国では無いとして、 同じような視点から天皇制度に反対している。
 基本的に首肯すべき見解だと思うが、この本が出た2010年頃にはこうした見解にリアリティーはなかった。論理として面白いと思っただけだ。ところが、秋篠宮長女結婚問題などを契機に、小谷野さんや橋爪さんの見解にリアリティーが生じてきたように思う。皇室も自由を求め始めているのだ。
 近代市民社会が人権というものを基本的価値として成立していることを考えると、このことは重大な矛盾だといえる。社会制度を守るために、特定の個人の人権を犠牲にしていいのかという根源的な問いかけがなされなければならないだろう。一方、そうまでして、守らなければならない《日本的な価値》(そんなものがあればの話だが)が、それに値するのかが問われなければならない。
 私自身は、歴史を学ぶ者として、天皇制度は肯定的な意味でも否定的な意味でも歴史的に大きな役割を果たしたと考えているが、その役割は終わりに近づいていると考えている。もともと日本は文化的アイデンティティーを内面化しやすく、天皇制度などなくとも「統合」の意識は生じやすいが、急激な近代化の推進のための国民統合の必要上作られたのが近代天皇制度である。したがって、歴史的には特異な制度である。けれども、肥大化し拡散した今日の時代状況は、もはや特定の価値観で統合することは困難に見える。皇室のあり方に対する「錯乱」した状況は何よりそれを表している。少なくとも、結婚問題を契機に発せられた皇室に対する罵詈雑言を見る限り、国民統合の象徴としての権威の失墜が露呈しつつあるように見える。皇室が悪いのではない。国民が変化してしまったのだ。

 今日の一枚は、ベン・シドランの1984年作品、『ラヴァー・マン』である。学生時代の愛聴盤だが、現在は廃盤のようだ。残念ながら、LPもCDも所有しておらず、学生時代に貸しレコード屋で借りたLPをダビングしたカセットテープで聴けるのみである。日本人を皮肉った①Mitubishi Boys のようなユニークな曲も収録されている。
 ベン・シドランは《ドクター・ジャズ》と呼ばれ、ジャズをベースにロックやファンク、フュージョンを行き来する、ボーダレスな感性の知性派であるといわれる。才能のある人なのだ。才能があるゆえに、興味関心が拡散していくのであろう。もったいないと、思う。このような才能のある人こそ、ジャズを突き詰め、突き抜けて、新しい境地を確立して欲しかったと思ったりもする。

気仙沼に帰ってくんだね

2021年09月23日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 546◎
Bobby Jaspar
Clarinescapade

 人の話はお帰りモネである。
 入院中は、BS7:30からのものを見て、さらに朝食を食べながら地上波8:00からも見るのが日課になってしまったようだ。
 先週、菅波先生がモネにぶっきらぼうにプロポーズをし、今週の話では、菅波先生が心に引っかかっていたかつての患者と和解、モネも気仙沼に帰る決意をしたようだ。モネも菅波先生も自らの挫折と和解し、物語は終末へと向かっていく。海の人は海へと戻っていくのだ。
 気になるのは、モネと菅波先生との関係だ。先週の話では、菅波先生は東京の大学病院へと帰るオファーを受けており、モネも東京で生活するような雰囲気もあった。亀島(大島)にも診療所があるので、そこに菅波先生が赴任するというのがとりあえず無難な道なのだろう。けれどもそれはあまりに短絡的というものだろう。挫折と和解し、個として自立した2人には、それぞれの道が待っている。いつか2人で暮らすことはあっても、ここはそれぞれの道を進んでほしい。それが愛ある別れとなってもである。女性が男性のために進むべき道を変えるというのは、この作品の趣旨に反するのだ。
 一方、登米の問題はどうなるのだろう。コロナ禍だが、登米市もお帰りモネで盛り上がっている。登米での展開も最後にひと花咲かせてほしいとこだ。

 今日に一枚は、ボビー・ジャスパーの1956年録音盤、『Clarinescapade』である。かつては幻の名盤言われた希少盤なのだそうだ。applemusicで見つけて聴いている。ボビー・ジャスパーはもちろん名手であり、なかなか渋い演奏を聴かせるサックス奏者だが、私にとってはブロッサム・ディアリーの元夫という印象が強い。ブロッサムのアルバムでも、テナーサックスのほかクラリネット、フルートと、その多芸ぶりを披露していたが、このアルバムでもそれらの達者な演奏が展開される。
 最近、比較的新しいジャズを聴いていたので、古風で渋いアルバムと感じてしまう。けれども、古風なアルバムもいい。心が落ち着く。入院中だが、ウイスキーを飲みたい心持ちになった。退院したら是非そうしよう。ウイスキーを飲みながら、このアルバムを聴こう。バーボンでいい。メイカーズマークを小さなウイスキーグラスに注ぎ、ロックで飲みたい。

Bobby Japar(ta, fl, cl), 
Tommy Flanagan(p), 
Nabil Totah(b), 
Elvin Jones(ds), 
Eddie Costa(p),
 Barry Galbraith(g), 
Milt Hinton(b),
 Osie Johnson(ds)

エレガットを買った!

2021年09月01日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 540◎
Boz Scaggs
Silk Degrees
 
 ギターを買った。エレガットである。エレクトリック・ガット・ギター。ガット・ギターに増幅用のピックアップが付いたものだ。高価なギターではない。もう高価なギターは必要ないと思っている。ハードケース付きで54,800円。フランスのメーカー、Lag社のTN270ACEというギターだ。
  一年ちょっと前に、ジャパニーズ・ビンテージ、YAMAHAのダイナミック・ギターを発見し(→こちら)、やめて久しかったギターを再び弾くようになった。以来、ナイロン弦の音色に魅了されている。入院中、土門秀明などの演奏をYou Tubeやapple Musicで発見して聴いているうちに、エレガットが欲しくなった。数日前に通販で購入し、今日届いた。新しいギターを購入したのは、20数年ぶりである。
 今日の一枚は、ボズ・スキャッグスの1976年リリース盤『シルク・ディグリーズ』である。AORの名盤である。ボス・スキャッグスのアルバムを買ったことはない。というか、アルバムを聴いたことがなかった。1980年代前半の学生時代、FMラジオではよく「ウィー・アー・オール・アローン」がかかっていた。ただ、その頃の私は、コルトレーンなどのジャズを聴いており、軟弱なAORなど女子供の聴くものだと虚勢を張っていた。でも本当はいい曲だと思っていたのだ。その時代のヒット曲かと思っていたら、1976年リリースだったのですね。退院後、ギターで「ウィー・アー・オール・アローン」をソロで弾いていて、原曲のニュアンスが知りたいと思い、apple musicでダウンロードしてみた。「ウィー・アー・オール・アローン」はやはりいい曲だと思ったが、他の曲を、アルバムを通して聴くのは、はっきり言ってつらいと思った。音楽を受け入れる共通のコードのようなものがないのだろうか。もっと若い頃、同時代に素直に聴いていれば、好きになれただろうか。私がAORを受け入れたのは、大学時代も終わりに差し掛かった頃、マイケル・フランクスに出会ってからだった。
 
 エレガットを買ったことは、まだ妻には言っていない。明日は、練習用のギターアンプが届くはずだ。妻は怒るだろうか。ちょっと、怖い。

『菊と刀』と農地改革

2021年08月22日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 536◎
The Beach Boys
In Concert
 大学に入学して間もないころ、何という科目かは忘れたが、『菊と刀』を読んでレポートを提出するようを求められ、当惑したことがあった。時間はかかったが、悪戦苦闘して何とか読むことはできた。しかし、ほとんど高校生と変わらない、入学したばかりの私に分析や検討などできるはずもなく、なるほどそういうものかとただ納得するばかりだった。昨日から読んでいる池上彰・佐藤優『真説・日本左翼史 戦後左派の源流1945-1960』(講談社現代新書)という本に、『菊と刀』と農地改革についての興味深い指摘があったので記しておこうと思う。
 周知のように、『菊と刀』は、第二次大戦中に日本文化や日本人特有の気質について解明することを求められた文化人類学者のルース・ベネディクトが提出した、「日本人の行動パターン」というレポートがもとになっており、米軍はこのレポートを対日作戦や捕虜の扱いだけでなく、戦後のGHQの占領政策にも参考にした。
 ところで、ベネディクトがこのレポートを作成するにあたって、日系アメリカ人たちにヒアリングしたが協力を得られないことが多かったという。当時の日系アメリカ人は第一世代だったため、祖国への思いから協力には消極的だったのだ。そんな中で、積極的に協力したのがアメリカ共産党に所属する日系アメリカ人だった。アメリカ共産党は、第二次世界大戦をファシズムとの闘いと位置付けていたので、ルーズベルト大統領に積極的に協力したのだ。その結果、ベネディクトの作成したレポートには、アメリカ共産党のバイアスがかかることになる。当時、アメリカ共産党は日本共産党の「32年テーゼ」を共有しており、この結果、ベネディクトのレポートには、日本共産党の「32年テーゼ」が、もっとはっきりいえば、《講座派》的な考え方が色濃く影響することになったという。
 周知のように、《講座派》とは、日本資本主義論争で《労農派》と対立した一派である。《労農派》が、明治維新を不完全ではあるがブルジョワ革命と位置づけ、日本には資本主義が成立しているとしたのに対して、《講座派》は、ブルジョワ革命がおこっていない特殊な国であると考え、日本をまず資本主義国にしてから社会主義革命をおこすのだという「二段階革命論」を唱えていたのである。
 戦後の農地改革は、193万ヘクタールの農地を地主から強制的に買い上げ、小作人にただ同然で譲渡し、日本の農家の大半を自作農に転換した政策である。日本の土地制度が江戸時代さながらの封建的なものであり、少数の地主が多数の小作人を農奴として搾取しているという《講座派》的問題意識がなければありえなかった政策だというのである。納得のいく説明だと思う。

 今日の一枚は、ビーチ・ボーイズの1973年リリース盤『イン・コンサート』である。
ブライアン・ウイルソン不在時のライブアルバムだが、ビーチ・ボーイズ最良の最良のアルバムといわれているらしい。ディストーションを付けない、キラキラしギターの響きが好ましい。軽快なノリがいい。軽快だが、決して軽薄ではない。乾いた悲哀の感覚がビーチ・ボーイズの持ち味なのだ。Leaving This Townに聴き入ってしまった。20曲、1時間14分のライブアルバムを通して聴くなど、ここ数年なかったことだ。入院中という特殊な状況でなければ、できなかったことだと思う。

アビー・ロード2019MIX

2021年08月06日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 530◎
The Beatles
Abbey Road
(2019MIX)

 入院中の病院のコンビニでステレオイヤホンを買った。1500円程の、そこにあったうちの一番高いやつだ。多摩電子のASH58GO2というイヤホンである。音がいいかどうかはわからない。金色だったので、音が良さそうに感じただけだ。

 本来イヤホンには興味はない。音楽はスピーカーで聴くものだと頑なに信じている。ただ、入院中、少しでもいい音で聴きたいと思ったのだ。
 きっかけは、病室のベッドでアップルミュージックをいじっていて、アビー・ロード2019MIXというものを発見したことだ。リミックスというのは、巷に出回るリマスタリングとは違う。ミックスダウンをやり直すということだ。しかも、ドルビーatmos、ハイレゾ・ロスレス、アップル・デジタル・マスターの音源である。ちょっと、気にはなる。たまたま入院中で退屈なので、少しでもいいイヤホンで聴いてみようという気になったのである。
 実際には、聴き比べてみないと何とも言えないのであるが、確かに音域が広がって立体的になった気はする。サウンド全体が近くなり、特にボーカルのハモリの部分が厚みを増した気もする。「ヘイ・ダーリン」の途中で後ろの方から声がしてビックリした。看護師が呼んでいるのかと思って、イヤホンを外した程である。今まで気付かなかった音も聞こえるようである。
 ベッドに横たわりながら、全編を通して聴いた。なかなか充実した時間だった。入院中の時間を有意義に使えた気がする。
 ただ、成長過程で聴いたサウンドに対しては、私は保守的になるようだ。この音源は確かに面白いが、このアルバムを本当に聴きたいとき、おそらく私はLPで聴くだろう。より手軽に聴きたい場合でも、ビートルズボックスの中の一枚を聴くと思う。

世界のベスト4、決勝にいくか

2021年08月06日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 529◎
The Beatles
Let It Be

 オリンピック、女子バスケの話である。快挙である。世界のベスト4なのだ。いよいよ今日、フランスとの準決勝だ。今日はNHKでも生放送するようだ。当然である。これを生放送しなければ、受信料など払いたくない。入院中で時間はたっぷりあるが、病院の消灯後だ。まあ大目に見てくれるだろう。楽しみで仕方ない。
 ベルギーとの準々決勝は奇跡的勝利だった。感動の嵐だった。しかし、翻って考えれば、マスコミ的に注目された男子より、世界の中での評価は高かったのであり、これまでのオリンピックでも活躍してきたのである。
 今日のフランス戦、もちろんどうなるかわからない。予選では勝ったが、どっちに転んでもおかしくないゲームだった。強豪フランスは、もちろん修正して来るだろう。その意味では、勝つためのゲームプランを明かしてしまった日本がむしろ劣勢かも知れない。ただ、競る力があることは間違いない。もう一度、接戦に持ち込むことができれば、バスケットは何が起こるかわからない。決勝に進出する現実的なチャンスはあるのだ。
 日本のバスケットが決勝の舞台に立つ姿を見たいものだ。

 今日の一枚は、ザ・ビートルズの『レット・イット・ビー』である。1970年リリース。ビートルズ解散後に発売されたアルバムである。よく知られているように、発表としてはこのアルバムが最後であるが、録音としては『アビィ・ロード』が最後である。
 今日は朝の4時から、アップルミュージックでこのアルバムを聴いた。入院していなければ、このアルバムを通して聴くことなど思いつかなかったかも知れない。入院していると、昼間眠ってしまうことも多く、夜眠れなかったり、早起きしたりするのだ。
 さて、『レット・イット・ビー』である。同名映像が、解散前のグループが空中分解する様子を映し出したことから、昔から評論家筋からの評判の悪い作品だったが、それは予定調和的な見方に過ぎない。私はずっと好きな作品だった。個々の楽曲の生々しさや、演奏の完成度の高さは、批判的に論じられるべきものではなかろう。グループはバラバラで反目し合っていても、音楽を作るその行為において、彼らは集中するのである。
 ビートルズは、やるときゃやるのである。


全身麻酔の目覚め

2021年08月05日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 527◎
Bill Evans
further Conversations With Myself
 入院7日目、手術して3日目である。傷口はまだ痛み、咳をするのもつらいが、それでもだいぶ良くなった。今日からは、病気内のコンビニまで歩くことも解禁である。
 ところで、先日記した全身麻酔について(→こちら)、その覚め方を書きとめておきたい。思い起こしてもよくわからないのである。
 全身麻酔でいつどのように眠りについたかは記憶がない。眠っている間についても記憶がない。時間の感覚もない。だから、眠っている時間については、0分という感覚だ。
 起きた時の記憶はある。誰かから声をかけられて目を開けたのだ。手術室のライトを見た記憶がある。その後記憶は途絶える。記憶にあるのは、天井が流れている映像だ。おそらく、ストレッチャーで移動したのだろう。次の記憶は、病室のベッドの上である。看護師が数人いたので、もしかしたら病室に着いて時間がたっていなかったのかも知れない。ストレッチャーから病室のベッドにどうやって移ったのか全く記憶がない。それ以降はずっと記憶がある気がする。気がするというのは、確信が持てないからだ。同じ病室という空間にいたことで、持続した記憶があると誤解しているだけかもしれない。
 意識や記憶というものは、不確かなものである。けれども、その不確かな意識や記憶に立脚しているのが人間というものであり、その人間によって構成されているのが世界であり、現実というものだといえよう。全身麻酔という経験によって、現象学について改めて考えさせられた。とりわけ、意識と時間という問題、また世界というものが、記憶や意識によって成り立っている脆いものであることも改めて考えさせられた。

 今日の一枚は、ビル・エヴァンスの1967年録音盤、『続・自己との対話』である。入院中ということで、今日もアップルミュージックで聴いている。ピアノ2台の多重録音によるインタープレイが展開される。取り上げられた楽曲も、親しみやすいものが多く、その意味でも聴きやすい。《いそしぎ》は好きな曲だ。ポップにもリズミックにも味付けできるこの曲を、エヴァンスはあくまでシリアスにそして想像的に演奏していく。王道である。



おしっこがしたい!

2021年08月04日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 526◎
Bill Evans
Conversations With Myself

 昨日は、手術の後、一日中安静にしていなければならなかった。開腹した傷の痛みもさることながら、最も苦しかったのは導尿だった。尿道に管を差し込んで尿を出すのだ。痛い訳ではない。激しい尿意を感じるのだ。尿意を感じるのだが、出ないのだ。もちろん、勝手に尿は流れ出ているのだが、おしっこをした感じにならない。激しい尿意だけが続き、膀胱が爆発しそうだった。はっきりいって地獄だった。チューブは次の日の朝抜くというが、どう考えてもそんなにもつわけがない。精神は、ズタボロだった。
 2時間程のたうち回ったが、ベッドを少し起こして水を飲めるようになるなると、不思議とあの激しい尿意がひいていった。水をたくさん飲むと、尿意はどんどんひいてゆき、何とか朝までしのぐことができた。水を飲むと尿意がおさまることをなぜ誰も教えてくれなかったのだろう?

 今日の一枚は、ビル・エヴァンスの1963年作品、『自己との対話』である。3台のピアノによる、エヴァンスの自己との対話である。3台のピアノを弾くといっても構成的な演奏にならず、創造的なインタープレイが展開される。その意味では、内省的で実験的な作品である。リヴァーサイドの4部作でインタープレイの手法を確立した自信と、盟友スコット・ラファロを交通事故で失った悲しみと不安が、エヴァンスを自己との対話に向かわせたのであろう。
 今、私は病院のベッドで、ゆったりした心持ちでこのアルバムを聴いている。実験的な、あるいはちょっと難しそうな作品を聴くときは、細部にこだわらず全体的なイメージを聴く。これが私のやり方である。


 


この違和感は何だろう

2021年07月25日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 520◎
The Beatles
Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band
 東京2020オリンピックの開会式について、いろいろいわれているようだ。トンチンカンであまりに皮相な演出。不必要に長すぎるスピーチ。首相と東京都知事の不敬なふるまい。そして、あまりにグダグダで統制の取れない雰囲気。どれもその通りだ。私自身、見ていてリアルタイムでそのように感じた。
 けれども、私が最も違和感を感じたのは、国旗やオリンピック旗の掲揚と、国家斉唱の場面だった。国旗やオリンピック旗の掲揚になぜ自衛隊が登場するのだ。国を守る自衛隊は、セレモニーの脚光を浴びる場面に出てきてはいけない。自衛隊は縁の下の力持ちであってもらいたいし、またそういう覚悟が必要だ。それが軍国主義ではない時代の自衛隊のあり方だろう。
 国歌について、MISIAの歌唱に文句があるのではない。国歌斉唱の場面で、たびたび天皇陛下を映したNHKの演出は何だ。君が代の歌詞が天皇を称えるものであることを、しばらくぶりに思い出してしまった。現天皇が嫌いなわけではない。同じ時代に中世史を学んだ彼には、むしろシンパシーを感じる。恐らく、安田元久氏から中世史を学んだ彼だからこそ、不必要に祭り上げられることに抵抗を感じているはずだ。
 こうした違和感を感じたのは私だけだろうか。webを見ると、おびただしい開会式への批判があるが、私のような違和感についてはほとんどない。それは、私の感じ方が特異なのだろうか。あるいは、自衛隊や天皇や君が代に批判的な言説の「自粛」なのだろうか。そうした批判的な言説は非国民的振る舞いとして排されるということだろうか。もしそうだとすれば、《われわれの日本》は、終わりへと向かっているのかもしれない。

 今日の一枚は、ザ・ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』だ。1967年発表作である。
 改めて思うのだけれど、《A Day In The Life》は本当にいい曲だ。数日前から、耳元でそのメロディーが鳴り響いている。きっかけは、YouTubeで土門秀明という人のソロギターを聴いたからだ。エレガットの演奏である。何とも味のある演奏である。ちょっと、弾いてみようと楽譜を探したが見当たらない。時間がある時にしばらくぶりに編曲してみようかと思っている。
 ビートルズのこのアルバムは、世評の通り優れた作品であり、名盤といわれるにふさわしいものであるが、最後に配されたこの《A Day In The Life》とその余韻が決定的に重要な印象を与えている。
 その余韻の数秒後に現れる、意味不明のお遊びのような音は、レコードの針を戻しにステレオの前まで行く時間を計算したもののようだ。レコード時代を思い出し、楽しい気持ちになる。