詩誌「ヒーメロス」24号2013/6/30
小林稔
タペストリー 1
通り過ぎていった時のきれぎれが死の淵へと向かう闇の途上、射しこんだ薄明
に照らし出され、もう一つの時の途が霞んだ空に伸びる、ゆるやかな水の流れ
のように。――そのとき、残され佇んだ私に、見えない縄梯子が降りてきて、
魂を呼び寄せる声がどこからか聴こえはじめ、私の耳底に宿った。
夏の庭を裸足で足跡をつけていった少年を追い駆けなければならない。
廃屋の裏手に忍び込み、不在の友人たちと遊んだ秘密の場所で見失われる。
ひそひそ話をする声がいくつも交叉する。軒下に吊った鳥籠に忘れられたメジ
ロが枝から枝へ跳ねる。時の縦糸を縫い合わせる脚本は回収されてしまう。
防火用水で泳いでいたサンショウウオが樋(とい)から注ぐ雨水で流された。
植えこみの日陰で何十年も経った今でも息をしているのかもしれない。
骨抜きにされた午後に、行き場をなくし湿度を含んだ風が、終止符を打たない
ピアノの音を運んでいる。通りを走る車のエンジン音や歩く人の足音に消され
るが、再び訪れた静寂の在りかを探るように微かに絃を打つハンマー音は届く。
生まれ出たところから曳いてきた繭の糸を紡いで、どんなタペストリーを織れ
るだろうか。最後のひと吹きで夕陽が沈む時刻には還らなければならない、何
処へと問われるなら、追憶の消滅する場所と答えようか。
言葉を一枚一枚結んでいく。死者がこの世への憧憬に導かれ懐かしむように、
かつての私がぬぎ捨てた記憶の衣服を拾い畳んでいる。
タペストリー 2
神経の枝を伸ばした樹木が横倒れて車窓の額縁から飛び散り、野原は遠方に聳
える尖塔を中心に手前に大きく弧を描いて樹木の跡を追い駆けている。傾きは
じめた太陽が尖塔の縁に架かると一瞬ダイアモンドの光を放射した。
人の数だけ世界の終末はある。生まれる命の数だけ世界のはじまりはある。
国境をいくつも越え、貨幣をいくつも変え、終着駅のにぎわいを断ち切るよう
に街路に踏み出すと、聞きなれない言葉と群集の足音が耳に飛び込んでくる。
人ごみの向こうから、しきりに手をふっている少年がいた。そこだけ明るい光
が注がれ、いくつもの方向に視線を放つ人々の鉄条網にさえぎられ雑踏に消え
た。画集を広げるが描かれた天使像には行きつかない。私に手をふったのかさ
え定かではなく、たとえそうであろうと、ほんとうの邂逅に出逢うには、自己
の闇に沈潜し、〈私〉という柵の向こうに降り立たなければならないとは。
すでに訪れ終え背を向けたいくつもの街々が、一枚のキャンバスに重ね合わさ
れ土地の名が交じり合う。ネーデルランドの夕暮れ、石飾りのファサードの足
許を流れる運河に、地中海の朝焼けに染まる雲の階層のした、水の上、遠くに
近くに自らの影像を水に落とす建物群が重なり、運河を蛇行した黒い水は想い
をラグーナに投げ海に注いでいく。若いころの旅の時間が、老体にひたすら向
かう旅人の身体の襞から剥がされ、やがて存在もろとも煙と消えるだろう。
岩が砕け砂になり打ちあげられ浜辺に白い輪郭線を引く。洞窟に逃げ込んだ砂
は海底に沈み、太陽の光を内側の岩壁に反射させ、いちめんに青の粒子を撒き
散らす。私があなたと生涯に一度だけ心身を重ねることがあるとすればここだ。
ドルフィンになって泳ぐ二つの身体は青く染められていく。少年時から魅せら
れてきた青。時の残留物を押しのけ生き永らえた私自身の記憶は、水底から流
出する青の光線のなかで紐解かれ、〈私〉と〈あなた〉の交換は成就する。