ヒーメロス通信


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「夏の氾濫」 小林稔詩集『夏の氾濫』より掲載

2015年12月29日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』

小林稔第四詩集『夏の氾濫』1999年(旧天使舎)以心社刊より


夏の氾濫
小林稔


泡しぶきが砂の要塞に雪崩れて、
洪水のように乗り上げる。
あなたの胸の扉を拓くと海が見えた。
海底ではピアノが物憂い音を鳴らしている。
突如、蒼穹を割ってきんいろの雷霆(らいてい)が落っこちた。
あなたはいない。
潮風はたしかにあなたの在処を教えているのに
ぼくは その謎のもつれた糸がほどけない。
海の青と空の青の彼方から沸き立つ微風が
鳥の羽ばたきのように書物の紙片を繰っている。
きっと あなただ、
息のあなたがぼくの髪をなびかせている。
砂が焼いた足裏を海水が鎮めてくれるけど
親指の震えが止まらない。
真綿のような雲が流れるのを見ていたら
背中から抱えられる気配に振り返って
ぼくの視線は砂の上の自分の影を捕らえた。

      私の領土に臨んだのは君だ。
      私の広げた両の腕の入江が仕掛けた罠に、
      迷い込んだ小鳥のような瞳の粗雑と無垢が君だ。
      君が運んできた若さが、褪せた私の青春をよみがえらせ
      私は躍った。悔やむことが何になる。
      君は肉をひくひくさせ 歓喜の声を洩らしたのだ。

あなたの微笑みに隠された獣の匂いがこわい。
あなたの優しさが ぼくの柔らかい部分に走る刃物だ。

      「さあ、地獄へ行こう」と戯れる私に、
      「うん、いいよ」と君は、はにかみに答えた。
      二人の笑いで視界がちぎれ、白痴の地獄の扉が軋んだ。
      海色に染まった君だから、もう父の家には帰れない。


デルフィー。世界の臍。古代のギリシア人がそう呼んだ聖域。
アポロン神殿の廃墟に立つと風が垂直に身体を吹き抜けた。
涯から来た私はもう一方の涯のアジアに視線を投げた。
私の胸に耳を載せよ。君には聞こえるだろうか。
旅から旅へと駆り立てた私の青春の血の鼓動が。

      知るもんか。あなたの匂いを石鹸で洗い落とせたらいいのに。
      あなたの視線をぼくだけに奪っていられたらいいのに。
      時間が止められるなら、
      波のレースの階段を 石蹴りするみたいに片足で昇ってみせる。

海の微風は君に何を唆(そそのか)したのか。

      父に叛逆(そむ)いたぼくの罰。あなたの汚れた策略。

喰らい合う渇きの肉が精神を妊(はら)ませる莢(さや)なのだ。

(飯を炊き葱を刻む日常の比喩をめくれ。せめぎ苛む肉の欲を解き未明の路上
に立ち、踏み込む街角のざわめきを予感する静かな朝に出立せよ。
偶像をぶち割れ。己の身体から湧き出る力のみを信ぜよ。贋神を攫まされるな。
愛こそ世界の謂い。愛と美の力学を構築せよ。)


海から冷たい微風が寄せている朝、
太陽は大空を赤らめ水面を揺さぶり始めるが、
まだ海底に沈んだままだ。
島は岩肌をあらわに眠っている。

太陽が昇ると 静寂が薄明といっしょに左右の端に追われていく、
物質文明の罠に陥った子供たちから遠く離れて。
彼らが墜ちる地獄はない。神もない。
ついにハルマゲドンが到来する、ことはない。
煙のように現われては消えていく、
甘えながら反抗する猫っかぶりの、おお兄弟たち。
世界は失われていない。
太陽は約束をしたように世界を照らすだろう。

私たちの情愛が世界を拓く千年紀の終わりと始まり、
陶酔と睡りの後で物質は歓喜に打ち震えるだろう。
岩礁が波に目覚めるだろう。

いつも今だ、現在だ。
君が扉を開けると潮があふれ花びらあふれ

死するならば夏。廻(めぐ)り還るならば海。




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