ヒーメロス通信


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現代詩のデフレスパイラル

2012年03月17日 | 現代詩提言

現代詩提言①
現代詩のデフレスパイラル
小林 稔

 現代詩のデフレスパイラルがつづいています。いくつもの詩人賞がそれに拍車をかけているようです。一般に、他の詩人を評価するとき人は自分の身の丈で選出します。選出者の詩の衰退がデフレの原因の一つといえます。我われは、かつて明治時代の新体詩において詩歌の感性を重視する文学に、西洋の思想性を取り込もうとした流れがありました。もちろん思想をそのまま表現することと詩作は同じではありませんが、最近の現代詩は広範囲な詩の領域を自ら狭くしているように思われます。詩人賞にもいくつかの流派があり、それぞれの特質が見られますが、相互の繋がりは希薄です。つまり詩の全体的な視野が考えられていないのです。出版社もまたそのような詩人たちに追従していて、独自の視点や主張が皆無です。若い詩人たちが世間の評価に影響を受けることも危惧されます。

 詩人界で高名とされる詩人たちは、無名の詩人たちに関心を示すことはなく、あったとしても自分の詩を正当化できる範囲でしか行動をしないように見受けられます。考えてみれば、彼らは詩という不確かな領域で、自ら売り込みをかけてのし上がった人たちであり、後輩の詩をとやかく言う余裕がないのです。ここでは詩の批評の不在をあらわにしていると考えてよいでしょう。俳句や短歌など書く何でも屋がいますが、詩でしかできないことをほんとうに考えているのでしょうか。詩的なものと詩を区別する必要があります。

 私は七十年代に詩を始めた人間ですが、そのころは外国の文学や思想が話題になり、普遍的な問題が俎上にあげられていました。いまはどうでしょう。そのような分野で活躍していた翻訳家や評論家、詩人の数がめっきり減ってきました。理論としての思想性のみが取りざたされ、詩作に深く反映していないという嘆かわしい現象が多く見られましたが、だからといって<先祖がえり>しても無意味です。西洋がお手本にならないとしても、西洋化した生活や思想の基盤とわが国の伝統的な特質の上に、我われの現在は成立しています。何年か前に生誕百年を記念して、ブランショの特集も組まれましたが、あまり話題になりませんでした。最近若手の評論家が現れ、現代思想と文学を論じていますが、日本の現代詩については問題にしていません。たいへん由々しき問題ではないでしょうか。

 詩は詩人の生活経験からしか生まれません。そういうと日常のささいな経験を大切にテーマとして描いていこうと考えるかもしれませんが、あるいは経験には初めから目を閉ざし、言語だけの世界に走る詩人がいますが、私が言いたいのはそれではありません。詩人という特異性を表出しようとする人間の現実体験を(現実における非現実体験を含め)私は言いたいのです。詩の思想性はそこからしか生まれようがありません。

 かつて森有正は経験が思想を生み出すことを知るために人生の時間を代価にして西洋に身を置き、考えつづけました。萩原朔太郎や金子光晴といった詩人は自らの人生を詩人としての体験に賭けたといえるでしょう。井筒俊彦は西洋思想における東洋、つまりユダヤ思想、イスラム思想、キリスト教思想における神秘主義の思想と、私たちにとっての東洋、つまりアジアの思想を共時的に解釈し、これからの世界の思想として活用しようと考えていたのです。これらはほんの一例に過ぎませんが、これからの詩人が歩むべき肥沃な大地を彼らは我われの前に残してくれたのであり、引き継いていくことが求められるでしょう。

 詩は感性と理性の両方の手綱を引いていく必要があります。もちろん詩人を走らせる力(エネルギー)は感性や本能的な感覚ですが、馬を詩(ポエジー)へ導いていく方向性を決めるのは、つまり舵取りは理性(ロゴス)の力です。しかも一人の詩人の人生のプロセスを通過して成立できるものです。しかし私はこのような特定の詩作だけに限定しようと考えているのではありません。それぞれの人生において詩作は行なわれてよいと考えます。ただ逆に狭い範囲で詩作を評価しようとする世間一般の風潮に異議を申し立てているだけです。それがデフレを招く一因ではないかと考えているのです。また、たんに自分の詩が不当な評価を受けていることの不満ではありません。私の考えがすべて正しいと考えてもいません。相互の批評を通じて、詩のあり方を考えてみたいと思っているだけです。現代詩のデフレスパイラル現象を一刻も早く止め、詩に対する世間の評価を高める方途を考えてみようとしたに過ぎません。


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