ヒーメロス通信


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「自画像」小林稔詩集『遠い岬』2011年以心社

2016年03月20日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

自画像

小林稔

                   

 

 私には十四歳で死んだ兄がいると信じている。生前、母はそのこ

とを洩らすことなく逝った。兄が十二年を生きて私が生まれたから、

容姿は私の記憶になく、もうろうとした意識で兄を捉えていたに過

ぎない。だが今もって兄の気配に包まれて私の生は持続している。

 

あるとき、下腹部にザリガニの鋏で突かれたような痛みが走った。

その後もたびたび痛みは私を襲ったが、考えられる限りに遠い世界

から、何者かに呼ばれているような気がしてならなかった。

中学生になったとき、身体の奥に蜜のようなものが溶け出し流れ

ていくのがわかった。不安と陶酔の入り交じった日々を過していた

が、程なく私は確信した。兄は私の身体に寄生して、私の命を生き

ようとしていることを。私が十四歳の誕生日を迎えたときから、兄

は弟としての存在を主張し始めたのである。兄は私が生まれるまで

の十二年の歳月をしきりに責め立てる。私とは何者なのかという疑

惑にかられると、私はいつも自己喪失に陥るのであった。空の高み

に軀が浮いたと思った瞬時、車の騒音や周辺の人々の声で身体は重

力を取り戻し地上に叩きつけられた。さらに妙なことに、眠ろうと

寝台に身を横たえたとき、死んだはずの兄が私の身体から抜け出し

私にぴたりと軀をつけ、向かい合わせに抱擁して眠りに落ちる。

――一人で生きることに耐えてきたんだ。もうぼくは兄さんから

離れたくない。十四歳の弟になりはてた兄は、私の耳朶に唇をつけ

前歯に力を入れた。暗闇に溶け入るように、私と兄は互いに身体を

共有し始めるのだった。

日々に老いていく自分を鏡に写して、私は絶望に打ちのめされる。

加齢を知らない死者との就寝に訪れる交合。その度に私は死にはぐ

れる。弟である兄は、私の命がつき果てるまで生き永らえるに違い

ない。明けない朝を迎える日まで、私は真昼の雑踏に押し寄せる通

りすがりの仮面(イマージュ)の一つを、日ごと寝台に持ちこたえて、

私は弟をいつくしむ。

 

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