ヒーメロス通信


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コルドバ、第三章「アンダルシアの岸辺」小林稔第五詩集『砂漠のカナリア』2001年より

2012年09月03日 | 小林稔第5詩集『砂漠のカナリア』
小林稔第五詩集『砂漠のカナリア』(旧天使舎)以心社刊2001年
第三章 アンダルシアの岸辺
小林稔


3 コルドバ


 グラナダからコルドバまでの道は遠かった。行く先の違う車輌を連結した
オムニバスという列車で、長い椅子を取りつけてあるだけの簡単なものだっ
た。途中、列車が停車した時に買い求めたひまわりの種を頬張って、それに
も飽きると椅子に横になって昼寝をした。たっぷり六時間。列車がコルドバ
に着いた頃には、日はどっぷりと暮れていた。駅の周辺は真っ暗で人影がな
い。闇に慣れた目で見ると、明かりが遠くの建物に灯っているのが見えた。
その方向に歩いていくことにした。街のどの辺りにいるのか分からなかった
が、とにかく宿を探そう。明日にならなければ行動を起こせない。急ぐこと
はない。車が時折行き交う大通りにペンションを見つけたので泊まることに
する。他の街で宿泊した部屋と内部はさほど変わりがない。そこで私が最初
に訪れたアンダルシアの街グラナダを追想した。スペインの自然はきびしい。
だが、アフリカから来たイスラム教徒にすれば恵みの大地に思えたに違いな
い。物質文明の、砂のない精神の砂漠を考える。この砂漠に水を通わせ精神
を開花させなければ、人間は物質と変わらなくなるだろう。キリストの時代
も精神の荒野であった。


  人はいかにして自己の面前に、自己と同じほど強いものとして、軽蔑あ
るいは憎悪すべき者を置くことができるだろうか。しかしそのとき、創
造者は彼の人物たちの罪の重みをみずから背負うのであろう。(略)聖性
は、わたしがそれと混同する美――そして詩(ポエジー)――と同様、
唯一独自のものなのだ。(略)しかし、わたしは何よりもこの語(聖性)
が人間の最も高い精神的態度を指しているからこそ、聖者となることを
願うのであり、それに到達するには、わたしは何事をも辞さないだろう。
            (ジャン・ジュネ『泥棒日記』朝吹三吉訳)


 ジュネは二十代の放浪の旅を顧み、経験を詩と聖性の観点から解釈した。
「禍い」「恩寵」であり「絶望」は「材料」であり「孤独」と同様、そのた
めになら「この世のありとあらゆる財宝を手離すだろう」ものなのであった。
境遇、文化を超えて私がジュネに共感するのは、言い表し難いものとしなが
らも語る「詩の概念」であり、普遍的な『詩人の生』ともいうべきものであ
る。忍耐。前進。私を導いていく何者かの存在を感受しつつ自己の道を発見
しなければならない。見ること、それは素晴らしい体験の始まりである。美
は精神の深みから泉のように詩を現出させるだろう。


 メスキータ寺院を見た。なんという空間だ。八百五十本の円柱と、赤と
白の縞馬の柄のアーチが続く内部を歩いていると、異次元の世界に入り込
んでしまったような気がしてくる。奇異なおかしみとアラビア人特有の威
圧感がある。アルハンブラとは異質な美だが、自己の深みに沈めて私を陶
酔させたあのアルハンブラの庭、そしてこの目を眩ませる寺院内部の魔術
に、どこか殺気立つ緊張感がみなぎる。不可視の神を知らしめようとする
配慮だ。後にキリスト教徒がこのモスクを支配し、カテドラルを造った。
白い円天井に影のように立つ黒い木彫りの、どっしりと据えられた祭壇が
あった。両者の相違が如実に表われ、しかも融合しているのがおもしろい。
 寺院を出て鐘楼の聳える中庭を歩いていると、日本人団体客が列を作り
入場するところであった。私に呼びかけた女性がいて「一人旅ですか、い
いですね」と話す。アンダルシアの過去の遺産を見ると、忍耐力というも
のを考えないわけにはいかない。アラビア人の、想像を絶するような精緻
な美は神への祈念と関係が深いのだ。家々の、花で飾られた中庭を一つ一
つ覗いて、ユダヤ人街の石畳を歩いた。彼らがさまざまな思いを胸に秘め
て歩いたであろう路地を、私を引き寄せるような存在の気配をその静かな
佇まいに感じ入りながら歩き、その一角にあるペンションに帰った。


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