ヒーメロス通信


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井筒俊彦『神秘哲学』再読(一)

2015年11月24日 | 日日随想

井筒俊彦『神秘哲学』再読(一)

 

序章Ⅰ

 

 一九九一年に刊行された井筒俊彦著作集Ⅰ「神秘哲学」のあとがき、「《著作集》刊行にあたって」において、井筒俊彦はイランからの帰国後のほぼ十年を経て、自らの思索の軌跡を顧みる。そこで強く主張するのは、その方向の軌跡は学的体系の樹立を初めから目指したものではないということである。「内的動機に導かれるままに」思索を続けてきたのであり、それが彼自らに課した「方法的プリンシプル」であったと述べている。それは井筒哲学の一貫した姿勢であり、ここにきてその意義を明確にする。それは「抽象的体系哲学への挑戦」であったし、「実存的な生の哲学への情熱的な斜向であった」。それは「言語意味論的方法論そのものが私にそうした思索的立場を開示した」ともいう。いずれも私にとって唯一、井筒哲学が私を強く惹きつける根源である。そして「外的な力に運ばれるままに」と井筒自らが意識するように、内的な思索の彷徨が外的な偶然の重なりに運ばれ、書物化され行為にまで及んできたことを、不思議な運命のように傍観している。

 昨年、私は『来るべき詩学のために(一)』と銘打つ評論集を上梓した。井筒哲学の代表作である『意識と本質』を私なりに咀嚼し、やがて書かれる詩学の基盤にすべく解読したのであったが、理解するために何度もあきらめかけては再び手にし、ようやく辿りついた代物である。今回読みを深めようとする『神秘哲学』もまた、部分的には時を見て読んできたのであったが、私自身の問題とするにほど遠く、しかも放棄するには余りにも興味あるテーゼにあふれた書物であり、今回初めから通読し終えることができたのも、『意識と本質』を読み解いたからであろう。帰国後に書かれた『意味の深み』などや絶筆となった『意識の形而上学』、さらに最近刊行された『禅仏教の哲学に向けて』を読み通したが、とうぜんながら、『意識と本質』と『意識の形而上学』の書物と、それ以前の書物とは彼の精神の熟成度の相違から、エクリチュールの様相が異なるのを認知した。とくに『神秘哲学』のエクリチュールは、若さの熱情と言って済まされないものがある。


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