ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

胡椒あふれる水びたしの邦に/小林稔詩集「遠い岬」より

2016年07月25日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

胡椒あふれる水びたしの邦に(「髀肉之嘆8」)

 小林稔 

 

遠くに端をもつ水は切れることなくしゅるしゅると音を立てている。

闇を舞う雪が窓から入り込もうとしたのはたしか昨晩のことで母屋

から一つ通りを挟んだ平屋の十畳の間にひとり寝かされた七歳の私

は障子を透いてとどくやわらかなひかりを見つめ、降り積もる雪を

車が踏みつける音を衣の擦れる音のように聴いている。墨を流した

ようなむすうのくねる線が天井の羽目板から浮き出て鬼の群れにな

って私におそいかかり、かぞえ切れないほどの蛇に変わった。蛇は

耳朶を這うようにして肩と蒲団の間に滑り込んできて私は身体を硬

くさせるが踵に滑りいるひんやりとしたものが一つならず触れ上が

ってくる。私の軀じゅうを蓋(おお)う蛇は一匹の巨大な蛸になりかけてい

て縄に縛られたように身動きできない。重い石におさえ込まれ、骨

から熱を奪い皮膚にあつめられた熱が身体のくぼんだ部位に移って

いる。列をつくる学童たちの頭上に欠落した机が浮いている。

 

襖の陰で見つづけている私は、私を救出できないでいる。

   

川に架かる土橋を自転車で渡り始めて下を見たら、穴があり水が見

えた。自転車が左右にゆれハンドルを取られ端に寄った十二歳の私

は右足のペダルを踏んで、傾いた身体を立てる。渡りきって畦道を

たどるとあいつのお兄さんが立ちはだかり、蛙のいっぱい入ったビ

ニール袋を私の手に握らせた。気持ちわるくて叫びそうになる声を

胸におしこめ、町なかにつづく道を急いで帰った。どういうわけか

姉から解剖の話が伝えられていて机の引き出しにあるメスを取り出

し庭の縁台に仰向けに寝かせた蛙をピンで留め、腹にメスを走らせ

たとき、絹を裂くような爆音が頭のてっぺんでした。ガラスに鉱石

を走らせたような直線が視界に引かれた。そのあと何をしたかは記

憶から消えているが、あのときの耳をつんざく声、脳に釘(くぎ)を打ち込

んだような痛みはなんどもよみがえる。

 

私は十二歳の私から苦しみを剔出(てきしゅつ)できないでいるのだ。

 

人差し指が中指のつけ根の皮膚にひっぱられて曲げられなかった。

ひどく溶けた薬指だけでなく手の甲が焼けておうとつがあったがず

いぶん月日を経た火傷(やけど)であることがわかる。クラス替えで初めてい

っしょになったその子の明るい笑みから視線をそらすことができず

に毎日、話をした。むごたらしさと憐れみをおそれ私は手を見ない

ように努力することはできた。少し過ぎたころなんとなくその手に

視線をすえたとき、何かうつくしい生き物のように思われ眼を離せ

なかった。十三歳の私が魅了した者は何であったのか。

 

私の脳裡の片隅で手が燃えつづけている。

 

ひくつく心臓音でもない波打つ揺れが遠くからゆっくり寄せ、頭に

鉄の輪がはめ込まれて身体から海水が匂っている。白紙に描いた三

角形がひどく孤独に見えてくる。妖しい欲望にひきずられ宇宙の果

てにつれていかれた十四歳の私はどこにもいなくなる。波が振幅を

深くして九秒間はじめての射精がつづいた。それ以来毎日のように

反復する自瀆の時刻、波から訪れる他者に呼びとめられ世界が構築

されていった。波は無限に遠い領土から足許へと伝えられるので詩

と名状した。他者たちに解体されいくつもの死を死んだが、そのた

びに自己は再生し増殖をはじめる。私に巣食う他者の放つ知られざ

る言葉こそが私であるといえようか。かつての少年の身体を攫(さら)った

魔物は、私というペルソナに変貌したのであった。事物をすべて言

葉に仕立てようとする渇きを治癒できるものが繰り返される死から

の召還であるならば、

 

十四歳の私に導かれ私は発つ、胡椒あふれる水びたしの邦に。

 

 

註・最終行「胡椒あふれる水びたしの邦に」という一節は、ランボーの

『イリュミナシオン』の中の詩句、「胡椒のきいた水びたしの国へ行

け!」(粟津則雄訳)から喚起されたが、内容上のつながりはまった

くない



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