ヒーメロス通信


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詩ー榛(はしばみ)の繁みで(四)小林稔詩誌『ヒーメロス』より

2016年04月13日 | ヒーメロス作品

榛(はしばみ)の繁みで(四)
小林 稔

 虚妄


暗闇の、
そこだけ明るんでいて、
とつぜん一匹の犬が横切った庭。
病棟の裏手の木戸を越えて、
(そう、きみの家は町医者だった! )
縁側から入ろうとするぼくを
迎えるように、
廊下をすたすたと走って、
ぼくはきみの放つ言葉に
うなずいて首を動かした。
口が語りかけているのに
きみの声が聞こえない。
ぼくはきみが好きだ、
と心で何度も叫んだ。
必死で叫んだが
きみにとどかないぼくの声。
きみは丸い檜の浴槽に首までつかり、
飛び出すと母がきみの体を
石鹸の泡でいっぱいにする。
ずっとぼくにほほえみかけて、
ぼくをこんな暗闇の庭で待たせておくなんて! 

あれから二十数年の年月
きみは何を見て何をし、
何を欲したのだろうか。
その狭間でぼくは
誰かに魂を奪われ、
誰かに唆され、
誰かを傷つけ、
どこかを彷徨い、
どんな生を夢見た?
洪水が肩まで押し寄せ、
ぼくを倒してしまう寸前かもしれないのに。

陰と陽。動と静。
目じりの切れ上がったきみと
目じりの垂れ下がったぼくと
性格の何もかもが反対のきみを
利かん坊だったきみをぼくは見ているだけ、
あこがれを
そっと財布の底にしまっておけなくて、
きみはぼくの何? 
おとうと、兄、親友だった?
幼年期を通り過ぎて一度も会うことはなかったぼくたち!

昔だったら人生半ばと呼んでいたころ、
きみがバイクを車に突っ込んで
死んだらしい、といううわさが
ある日近所の人からぼくの耳に届いた。

それから三十年が過ぎた。
幼年のきみはぼくの白昼夢にたびたび闖入して、
その敏捷でしなやかな四肢でぼくを悩ませる。
(もう、ぼくの胸の中できみを独り占めだ! )
生殖を怠り、この世に分身を残さなかった
ぼくの記憶の中枢で右往左往するぼくの肉体に、
いくつものぼくが増殖しつづける。

やがてぼくが最期の旅支度を始めるとき
枕辺には、ぼくの記憶に生きながらえたきみと
触れ合ったいくにんかの少年たちがつどい
よろけそうになる、老いさらばえたぼくを支え、
かれらと旅立つのだろうか、ぼくは
この世の虚妄から紐とかれて。



注・『ヒーメロス』21号の発表時とは異なる箇所があります。


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