ヒーメロス通信


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ランボーからデリダへ(ニ)「エクリチュールの欲動」小林稔

2016年04月21日 | デリダ論

ランボーからデリダへ(二)

 小林稔

 

 二、エクリチュールの欲動

 

デリダは「プラトンのパルマケイアー」(『散種』に収録)という論考の序文において、テクスト(書かれたもの)が織物(テクスチャー)であることを前提として進行する。その上で、「一個のテクストがテクストであるのは、その構成の法とゲームの規則とを隠しいるかぎりにおいて」であり、「現在においては、知覚と厳密に名づけることができるような何ものにも、決してみずからをゆだねることがないというだけのことである」という。およそ書かれたものが難解であるという非難は、文学とエクリチュールの本質を理解しようとしないことから生じるのだ。本質を抜いた文学など空の箱に過ぎず、詠み手をどんなに喜ばせようと消費物以上の価値を付与されない。(「文学の本質」「法」「ゲーム」については追って論じていくことになる。)

「テクストの織目組織が隠蔽されているために、その布地を解くのに何世紀もかかるということもある」という。実際、プラトンの『パイドロス』を、デリダはこの論考で、作品の構成上の不備をディオゲネス・ラエルティオスは指摘し、それはプラトンの若さを原因とした。承知のように、『パイドロス』の前半はエロース論と言論についてのテーマであり、イデア論を通して哲学の営みを解明するが、後半はエクリチュール論が展開されて、その連関に多くの学者たちを悩ませてきた。構成上の不備とはテーマの分裂であり、後半のテーマは「添え物」に過ぎないと論じられてきたのである。ところがデリダは後半部のテーマから始めようとした。

 テクストになぜ隠蔽がなされるのであろうか。ここにこそ文学の本質が秘められている。ランボーの「私とは他者である」というフレーズを思い起こそう。書くという欲望には「私の中の他者」の欲動が絶えずうごめいている。「なぜ書くのか」という問題に答えうるために、自己が把握できる限りの範囲を超えた他者の呼びかけに誘導されている自己と他者との挌闘がある。これが難解な文に対する非難の主要な的になるものである。悪ふざけなど故意の隠蔽や表現の未熟さからくる難解さとは直接的な関係を持たない。デリダにとってテクストを読み解くことは、布地を解く作業に比され、「読解の裁断の背後で、布地自身の織地が際限なく再生される」ことである。「そうした批評の解剖学と生理学には、つねに驚きがとっておかれる」のであり、「読むこと(レクチュール)と書くこと(エクリチュール)ことに一体性があるとしても、縫い目をほどく激しい戦いを引き起こさなければならない」ものである。デリダはそれをゲームと呼ぶが、単なる遊戯でなく、付け加えが自由に許されたと誤解すべきではない。逆に「方法的慎重さ」「客観性の規範」「知の防護柵」のよって「自分の持ち分を投入することを控える人は、読んでいるとさえ言えないだろう」とデリダはいう。ここでは「不真面目さ」も「真面目さ」も不毛であり、「ゲームの必然性によって定められたものである」ともいう。「ゲーム」とは一種の記号」であり、「記号に対しては、それがもつすべての権力のシステムを認め与える必要がある」というが、「記号」「権力」については、「プラトンのパルマケイアー」というデリダの論考を読み解く過程で少しずつ理解していくであろう。単純明快な文をよしとする傾向が主流を占める人たちに、多くの誤解を生みだすデリダのエクリチュール論は、文学の本質を究めようとする人たちには多くの問題提起を引き起こすものである。

 

「われわれの問いが名づけなければならないのは、テクストの織目組織(テクスチュール)、読むことと書くこと、制御とゲーム、または代補性の逆説、生者と死者の書記的(グラフィック)関係、こうしたもののみである。」(『散種』P96)

(つづく)

 



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