ヒーメロス通信


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明るい鏡/小林稔詩集「砂の襞」より

2016年08月05日 | 小林稔第7詩集『砂の襞』

明るい鏡

小林稔 

 

鏡に写る素肌の男の鳩尾に ゆっくりとナイフを落としていく

刃を男の胸にとどかせるためには

その腕を 手前に引かなければならぬ

突き刺している男の左手は 私の右手と示しあわせ

血が切っ先のあとを追って にじみ出る

痛みが脳髄を走りぬけたが

この男の眼球に写る私 とはだれであろうか

 

五十年以上もの時間を奪いあった私が

この男であると信じてよいか

痛みを分かちもったといえるか

否、私を見つめているのは永遠の他者

男の痛みを知ることができなかったゆえ

愛という名で触れた身体は ほんとうはこの他者

鏡の男が私を欲望しつづけたとき私は増殖し

神の似像として欲情したのは必然であった

私を生かしめてきたものはすべて追憶

たとえば 自己に呼び止められ当惑する少年の面差し

たとえば 老人の前世を見つめる眼差しであった

 

悦ばしい老いを迎え入れるため

隷属から解き放たれなければならぬ

時間を微分すれば 一瞬のうちに永遠を垣間見るだろう

澄んだ鏡面の淵を雲が流れていく

(流れゆくものは流れゆくままにせよ)

そして それら一つ一つに名を与えなければならぬ

(法の支配の外延で世界の構造を探索せよ)

私ひとりを乗せた舟は 雷鳴と烈風に勝ちながらえ

故郷の港に停泊しては ふたたび海水を切り裂いていく

 

航路の果てに見えてくる岸辺

死を迎え入れ消滅のときがくるまで

私は鏡に写った男の傷の痛みを耐えなければならぬ

遠い岬に ともに向かう唯一の友であるがゆえに

 

 

 

 

 

 

 

 



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