ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

記憶から滑り落ちた四つの断片/小林稔「ココア共和国vol18」掲載作品

2016年06月03日 | ヒーメロス作品

記憶から滑り落ちた四つの断片

小林稔

 

 

一、聖バヴォン大聖堂

 

礼拝室の一つを鉄の柵が囲んでいる。神父に導かれた私は一人祭壇の前に立つ。

黒衣に身を包んだ神父は斜めに構えて私に視線を定め、おもむろに背を向け両手を祭壇画

の中央の板の切れ目に置き、両腕を左右に広げてみせた。

―闇から赤い衣の座した男の像が浮かび上がる。

左手には書物に視線を落とす女の像。右手には膝に書物を置き人差し指を掲げる、長い髪

と長い髭が顔を覆う男の像。三者ともに頭上から金色の後光が射す。父なる神、聖母マリ

ア、洗礼者ヨハネである。その左右のそれぞれの端、楽器を奏でる少女たちと歌う少女た

ちは天使であろうか、彼女たちの天を仰ぐ、夢見るような視線があった。

 

このガンの静かな聖堂の一角にいる私の脳裏を、歌声がとつぜん響き渡ったが、間一髪、

沈黙が音楽を包み込んだ、すでに遠い日の出来事であったように。少女たちのひらかれた

唇、見上げる視線、呼吸をしているような皮膚を見せているというのに、彼女たちの声が

こちらの世界に届かない。そのさらに端、祭壇画上部の翼部の先端、左にアダム、右にイ

ヴが見守るように彼女たちを挟んで向かい合っている。

細密な祭壇画に魅せられた私は、神父の指が下段の翼部にかかるのを待ち構えていた。

指が左右の合わせ目に忍び込んだと思う間もなく、速やかに神父の両腕は再び広げられ、

緑の色が私の瞳孔を満たし、心に影像を映し出す。陽ざしのような明るさが絵の内側から

放射しているようで「われに目覚める」想いに一瞬にしてとらわれ、旅の途上にいること

を忘れさせるのであった。

次に跳びこんできたのは赤の色彩。深紅の台座に一頭の羊が立つ。胸から流れる血は金の

器に受け留められている。―見よ。これぞ世の罪を除く神の子羊―というヨハネの言葉が

脳裏を走り抜けた。台座を囲む七人の鳥の翅をもつ天使たち。中央に泉があり水が途切れ

ることなく流れている。十二枚のパネルが広げられ、一羽の鳩が中央に舞い細く強い光を

地上に注いでいる。

 

新しく触れる土地から土地を歩いていた私は、永遠という名の書物の一ページを繰(く)るよう

に、踵(くびす)を返し、この祭壇画から立ち去った。

 

 

二、感情の闘争

 

オランダ市立美術館の一階の展示場からつづく階段を昇っていくと、青の色彩が私の視界

に飛び込んできた。額に嵌った一幅の絵が占める空間。ヴィンセントの絵と向かい合う。

色彩が動いている、流れている。悲惨な現実にもまして悲惨なこと、生きなければならな

いという残虐な現実。一人の芸術家の視線が私の脳髄を作動させ、彼の視線に私の視線が

重なり合った。

彼の見た麦畑はメタファーであり、本質は彼の心の裡(うち)に実在した。彼が覗いた心の風景を私

は垣間見た。ナイフの刃の跡を画布に走らせる手の動きが見える。無私性の彼方からヴィン

セントという無疵なる者に与えられた形象。最後に彼が見た崩壊寸前の光景。そうだ、未来

とは過去の反映であり、現在を照らす場所の法則だ。だから未来を夢みる者は現在を空無に

さらされる。傍らに、ヴィンセントへ宛てられた弟からの直筆の手紙があった。

 

「鴉の群れ飛ぶ麦畑」―アーネムからクレラーミューラー美術館までの真っ直ぐな道を私

は歩いて行って、そこで見た「アルルの跳ね橋」の平穏な風景との相違。

多くの思考が「私」の感情に影響を及ぼし、「私」の集合体である他者との相関関係におけ

る「私」ともう一人の「私」の結合、信頼、橋渡しである愛、これら普遍なるものの掌握

を困難にしている不信、誤解、不和、利害、憎悪がそこから生まれる。情報に服従させら

れる滑稽さが暴露され「私」の感情は絶えず他者との接触において自己批判を強いられる。

画家と鑑賞者の意思疎通は、相互の限りない自己犠牲、自己批判の上に成立する。出発は

反抗だ。反抗する者は全てを抱え込むだろう。自己の感情に支配されているうちはほんと

うの出発はない。

 

ヴィンセントはどこに旅立ったのか。感情の闘争に敗れたのか。弟からの経済的支えを失

ったとき、己に向けてピストルの引き金を引いた。黄色い麦畑と、茶色い畦道、緑色の草

むらと鴉の飛ぶ深海のような青空。それらの色の渦が流れていく場所。それは見る我われ

の心の中だ、そこには感情の交感があるのだが、心に映し出された麦畑を、かつてヴィン

セントと呼ばれた男が今も旅をつづけている。

 

 

三、オステンドの海

 

ブルージュからアントワープへ訪れようとしてオステンドに一泊。澄んだ秋空の下、海岸

線がいくつものカーブを描いている。遠浅の海なのか、かなりの沖まで歩いている人の姿

が見える。海の彼方にはイングランドの島が遠くに霞んで見える。

暖かな日であった。陽光心地よくシャツを脱ぎ、プロムナードのベンチに腰を降ろした。

セイラ―服の水兵たちが通り過ぎていった。私は蛇行するプロムナードを辿り宿舎に着く。

海に面してどっしりと立つ古い建物。受付を済ませ指定の三階の部屋に入ると、先に到着

した旅行者のリュックが、いくつも並んだベッドに立てかけられてある。

ベッドに寝ころんで旅の疲れを癒す。扉越しに子どもたちのはしゃぐ声が聞こえた。先ほ

どから始めた、日記帳に走らせるペンの動きを止め、私は海岸の散歩に出ようと部屋を出

た。子供たちの姿はすでになく、幅広の階段を降りて二階の踊り場で身をひるがえしたと

き、手すりを這いあがってくる小さな生き物が私の指に触れた。見下ろすと男の子が肩を

落とし、私の左腕と手すりとの隙間を潜り抜けようとするところであった。互いの視線を

向けたまま重ねた手をゆっくり離して男の子は階上に消えていく。

私は一階に下り、すぐに地階へと向かった。開け放たれたガラス戸の向こう、いくつも並

んだ蛇口の列。足を濡らして忍び込むと、むせかえるような潮の匂いが誰もいないシャワ

ー室を満たしていた。

 

 

四、底のめくれた革靴

 

テヘランからヘラートまで六百キロの道程

途中、メシェッドでバスを降り一泊

せわしげに往きかう群衆

四方から押し寄せる羊の群れのように

通りを流れていく彼らの頭上の向こう

金色のドームがモスクにそびえる尖塔をつき従え

礼拝堂の上にどっしりと戴いている

早朝、イランとアフガニスタンの国境を越えようと

一夜の宿を発ち、再びバスに乗りこむ

昨日から悪寒に襲われ頭が割れるように痛い

一年半になろうとする旅の疲れが一気にあふれ出したというのか

イラン国境事務所で降ろされ荷物検査を受けなければならない

列を作る私は他の旅行者の動きから目を離せない

大麻が見つかれば拘置所に送られるだろう

所持者が他人の荷物にそれを忍び込ませ難を逃れることがあるという

ガラスのケースに、底のめくれた革靴が置かれてある

めくれた底に大麻の黒い粉がこぼれている

国境を越える人への見せしめに展示してあるのだろう

アフガニスタン国境までミニバスに乗せられ再び荷物検査

ヘラート往きのバスに乗り換えた

陽は沈んで闇がバスを吞み込んでいた

 

夜の闇をひたすら走るバスのヘッドライトの灯り

その消えようとする先に動くものがあった

とつぜん大きな影の生き物がバスの前面に立ちはだかる

数頭の駱駝であった

二手に別れバスに道を空けた

車窓から駆けまわる彼らが見えたが

すぐに闇に呑まれて、手前には白い雪が舞う

戻ることが許されない辺境に来てしまったという思い

夢ならばいつか醒める時が訪れるだろうに

帰るべき日本が不確実な存在に感じられて心もとない

街明かりが目的地を指し示す星座のように見えてくる

同乗しているフランス人、ドイツ人の若い旅行者たちが

喜びの声を上げ拍手がやまなかった

 

ヘラートに吹き降ろす朝の冷気が

私の上気した頬をかすめていく

銀行に両替しに出向くと銃を持った警備員が待機する

帰りに寄った、ジャミ・マスジットという、素朴さを残したモスクが美しい

夕方、砂塵が山から降りた風に吹き上げられる中を

薪を買いに出て、宿の部屋の達磨ストーブで燃やす

翌朝、空は真っ青に晴れ透明な空気に満ち

ヴェールを剥されたように

建物、街路樹、歩いている人の輪郭が鮮明になる

たびたび破壊されたという砦を背に

直線状に伸びた道の両側、バザールが延々とつづく

歯ブラシ、写真機、入れ歯、眼鏡、ラヂオ、万年筆、額縁

頁のめくれ立った本、腕時計、義眼、指輪、水晶玉

銅製の水差しが置かれた深紅とオレンジ色の絨毯

喧噪の渦巻く店を離れ、バザールの入り口近くに

布を地面に敷き、品物を並べる、胡坐(あぐら)をかいた一人の青年と視線が合う

明らかにアフガニスタン人と違えた風貌で中国人と直感する

彼の視線に私はどのように映っているのだろう

どんな経緯で彼はここにいるのか

どんな経緯で私はこの土地を通り過ぎようとするのか

互いの宿命を衣服のように脱ぎ捨て抱擁し合えたらと私は胸を熱くする

この街のいたるところに漂う匂い

おそらく人が放つ匂い

土の匂いのするトルコ人と同じく

どこか寂しげな、自己を心の裡(うち)に抑えた人の眼差しがある

日本人はどこかで蒙古からの血筋を彼らとかつて交えていたのか

 

翌日、カンダハールに向かうバスに乗る

頭に白い布を巻いた男たちに囲まれる

足元には壺が置かれ、男たちはそこに痰を吐いた

ついに匂いの発生源の一つをつかんだ

カンダハールでは着いたときから停電に見舞われる

柘榴を買い安宿のランプの下で齧りつこうとして

そこに虫が這っていることに気づき驚く

征服者にいく度も破壊されたこの街に見るべきものはないという

生涯、再び訪れることがないだろうと思えば

立ち去ったばかりのヘラートが妙になつかしくなる

明日はカブールに行くだろう

刻々と意識に足音を忍ばせてくるインドの大地

生と死、現実と幻影の境が坩堝(るつぼ)に消えてしまいそうなインド

一歩一歩わが身を近づけているという感情を皮膚で受け留めて

胸の奥を針で刺されたような痛みに、思わず身震いした

 

 



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