ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔第4詩集『夏の氾濫』1999年以心社刊(旧・天使舎)からの一編を紹介

2011年12月27日 | 小林稔第4詩集『夏の氾濫』
小林稔第4詩集『夏の氾濫』1999年以心社(旧・天使舎)残部僅少1800円からの一編。

鳥少年
   小林稔

雲塊が落ちそうな空を見つめる君の瞳に稲妻走り、
愛されることの恐れに胸がひくひく傷むジギタリスの花陰。
雲の切れ目に青空が見えた。
遠方には街のざわめきと太陽の射す家々の屋根。
ずいぶん待たされた夢が 教室の黒板に赤いチョークを曳くように
逸る心を私は抑えられぬ。

      きのうまでは見知らぬあなたが、
      ぼくを讃える眼差しに、いまはどうして応えられよう。
      ぼくのあなたへの想いが追い越されるのはつらい。

私には聞こえる、漆黒の闇で喉を絞め叫んでいる声が。
受話器のコードから私の耳朶を震わせる。
苦しみにあえぐ声か、それとも悦びに打ち震える絶頂の声か。
だが、彼方の闇から私の寝室の闇へ投げられたその声が
私を叫んでいるとは限るまい。

      優しさに弱いぼくなのに見つめられると脚がすくんでしまうんだ。
      あなたの眼差しは ぼくを針金で幾重にも戒めるから、
      あなたから遠く離れて あの雲のように風に流れに身を任せていたい。

片翼を広げ一枚一枚の羽の付け根をついばむ嘴。
満月が君の軀の輪郭を描いて痺れが脊髄に奔ると、横腹から皮膚を剥がし銜えた。
肋骨の下の臓腑は月の光にさらされて、しめやかに虹色に輝いた。
私の眼差しから逃れたと想った君の秘め事を
鍵穴の向こうの私の眼が捕えたのだ。

      あなたから離れていると 春の微風にさえ心が揺れて
      支えをなくした樹のように倒れるから、
      カーを走らせて 夕暮れの街を鳥のように飛ぶんだ。

さあ、おいでいとしい者よ。
天の極みに昇りつめ、一気に転げ墜ちている私の胸に全速力で飛んできなさい。
限りある命は終りになるにつれて加速する。
抱えられた君のしなやかな胸に私は旅路で摘んだ果実を与えよう。
息絶えた私を君の翼で連れて行っておくれ。

      いくつもの朝がぼくを道端に捨てて行った。
      背中に掌を充てると翼はもぎ捕られていた。
      あなたを求めた時間も微睡(まどろ)み消えてしまうんだ。

昔日の私をいとおしむように 私は追憶の沼の縁を彷徨う。
すべては一冊の白いページに綴られた書物。
かつての想いだけが残って 鳥の囀りは私の脳裡を去った。


   アンジェリック
  
  両翼を広げた食卓の上の、かつての栄光を鈍い光にとどめた銀のナイフ
  のために室内は暗く、真鍮の花飾り、モロッコ製の陶器の花瓶、銹色の
  錫の器が置かれ、闇との輪郭を光が眠るように奔っている。鏡を嵌めた
  大きな額が項垂れ、花瓶からこぼれる薄桃色と緋色の薔薇を蔽うように
  映している。夏の気怠さを匿した液状の花びらのため(その向こうに主
  人のいない椅子がある)水銀を遊泳する夜へぼくたちは旅立つ用意があ
  る。片隅の戸棚で珈琲挽きが、とうに亡くなった女性歌手の唄を奏でる
  さなか写真立ての微笑する男の子二人が野原で遊んでいる。開いた扉の
  後で火の粉が舞っている。青磁の水滴とヒスパニアの絵皿が、オルガン
  の反響するマントルピースの燠火に照らされ(ガニュメデをさらったゼ
ウスのようにではなく)次第に傾斜を強めていく鏡は、ぼくたちが闖入
を了えた背後でゆっくり倒れ、食卓のものたちを崩した。青い蛍光色を
放つ銀の玉が数珠繋ぎになった道をぼくたちは歩いていくだろう。天井
に吊った蝋燭のシャンデリアが降下すると食卓を焔で満たした。爆音が
室内に反響し鳴り止まず、ぼくたちの笑い声に交じり合った。


ISBN978‐4‐9906200‐2‐8C0092 \1800
お求めはE-メールtensisha@alpha.ocn.ne.jp まで.
  


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