ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔「旅の序奏」詩誌「へにあすま」50号平成28年3月31日発行

2016年04月04日 | 詩誌『へにあすま』に載せた作品

旅の序奏

小林 稔

 

 

空の青は透徹するほどに哀しみを呼びもどす

 

鍵盤にそえた両手の指先が

長い歳月を隔て不意に閉じた〈時〉の縫合に

少しずつ明ける意識の原野が見え始め

喜びと哀しみの交錯する感情に浸されていく

楽曲をつかさどる音の運びを記憶している十指

人生半ばで志したピアノに技術の高みを求める意思はなく

音楽家の天賦に少しでも触れたいという初心であった

やみくもに練習にいそしんでいた若いころの私

仕事に奔走し かろうじて見つけ出した時間にピアノと向き合い

こころの空白を 鍵盤が奏でる旋律に重ねるように無言の歌で満たしていたあのころ

さらに遡る時間の涯にある作曲者の生きた時間と場所の痕跡

一つの音楽を完成させるためには

独奏者は意識を収斂させ 一頭の獣を生み出し手なずけなければならない

私を通過した数多の楽曲をやり過しては課題を残し置き

失意と経験の後に見えてきた摂理の網と いや増す言葉の織物(テクスチュール)への欲求

棺のように荘厳な箱の内部で音を響かせるために横たわるハープ

白と黒の八十八鍵に随えるハンマーが ピアノ線の下で待機する

度重なる移動に持ちこたえて私の生地に共に辿りついた私の伴侶なる器械

かつて耳に届かせた音を再び奏でたときの驚愕と穏やかな感動

幼年を祝う主題を六つに変奏させた第一楽章の優雅な旋律は比類なく

いま旧友に出会えた静かな喜びが全身を昇りつめ 

そこはかとなく私を包み込んでいる

三十年前の自分が思いがけずよみがえり

三十年後の自分をいたわるように

やがては終活期を迎えるだろう私の耳に 

私の指が優しく語りかけてくる音楽に耳を澄ます

生きる悲惨と僥倖 その哀しみとも喜びとも判明できぬ感情を溢れさせ

譜面台の向こうに広がり光る夜の海を見つめている

眠りから解かれさらに旅立つ私の背を もう一人の私がそっと押している

          註・作中の楽曲は、モーツアルトのピアノソナタ作品三三一を想起されるとよい。

          発表時と一部改作

 

copyright2016以心社・無断転載禁じます


「摂理」 小林稔 詩誌「へにあすま」より掲載

2016年01月04日 | 詩誌『へにあすま』に載せた作品

『摂理』詩誌「へにあすま」42号2012年4月15日発行


摂理 
小林 稔


舞台は廻(めぐ)る、一刻も止まることなく! 作動させているのは時を司る地
獄(ハデス)の王だ。昔あった雑駁とした路地裏の入り組んだ道が現われてはフ
ェイドアウトしていきながら、幅広い舗装道路が真っすぐ貫いて走る、その両
側にプレハブモルタルの家家がこちらに顔を向けている。どこか見覚えのある
男が五十年の歳月を凝縮させて私を見やる。そう、彼は私とおなじく舞台の左
手の袖に少しずつ追いやられているのだ。まだ二十年、三十年演じつづけるだ
ろう。脇役を命じられて。いま私の透視する一幅の風景に永遠なるものはどこ
にもない。

反対側の袖からは幼児たちのはしゃぐ声が絶えない。あの男の親たちは、かつ
ての舞台の左手の袖で闇に幽閉され、骨片だけを残して消えた。かろうじて人
々の記憶という慰安所を仮の住まいに定め、忘れられないことを念じているが、
記憶は時の経過で薄墨のように輪郭から鮮明さを奪われ、闇に打ちのめされて。

舞台は廻る、一刻も止まることなく! いま目にする光の射した舞台はつぎつ
ぎに張り替えられる。演者にして観客である私たちもまた。何一つ誰一人留
(とど)まれるものはなく、留まれないという定めこそが留まりつづける。舞台
の袖から袖まで百年にも足りない時間の広がりに、喜びも悲しみも、怒りも絶
望も、慈しみも憎しみも、ぶつぶつと泡のように生まれ泡のように弾けている。

私たちがこの舞台からの退場をよぎなくされたあとも、廻る舞台はそこにある。
光に照らされたその舞台で死の刻印を授けて私たち死者を見送った人々の演じ
る世界だけがこの世の世界。しかも絶えず廻り変わりつづける世界だ。天変地
異や病いで命の順列を崩されることもある。なんという残虐な摂理だ。人は誰
であれ人間の死を止めることはできない。他者の死を救出することさえできず
に、人はいずれ舞台の袖から奈落へと退散するしかない。

すべては変貌する、何一つ同一なるものはなく! 不意に記憶から過去の事物
が( 過去は不変であるはずなのにいま生まれようと息づき始めた! )私の現
在に立ち上がり占拠する。私は書く。不動なものを求めて。死すべき私は永遠
を奪還するための網を張る。つまり言葉を紡いでいるのだ。


連作「榛(はしばみ)の繁みで」より


返礼と祝福

2015年12月31日 | 詩誌『へにあすま』に載せた作品

詩誌『へにあすま』41号2011年十月二十日発行に掲載された作品から


返礼と祝福
             小 林  稔


私はとも綱を解かれ海洋に漂う一艘の舟。
寄る辺なき港を探りあぐねては
朝靄の起ちこめるなかに
揺れる波の動きに身を委ねるしかなく
耳を引きちぎる爆音がいく度も鳴り響き
穿たれた視界で事の経緯を知るすべもない。
時折激しい波が舟底を突き上げ
転覆かと命運に身をゆだねることもあったが
なんとか生きながらえている。
いまやそれほど遠方に航路を辿るべきではないと
人ひとは口々にいう、なぜなら
そこからたれひとり帰還した者はなく
虚無を私たちに与えただけだったから
至近の幸せを温めて夢の骨で礼賛すべきだという。
だが死者たちが退去した空より
とめどなく落下する無常の破片を
返礼もせず土にもどしてよいかと自問する。
遠方に言葉を訪うべきではなく
廻りきた命をみなで祝福すべきだ。
意味の地上で謎解きを迫られた私たちは
可能な限りわかりやすく読み解いていく。
地殻の転変におびえる日々の
波止場は言葉で氾濫し、
肉体に刻まれた記憶を反芻する。
いまはうしろに人影見えぬ孤絶の未路に
氷島を切り裂きつき進んでいく
なぜにおまえは誹謗と中傷のなかを。

舟よ、おまえの曳く航路を追う者はいない。
日常を即座にたたんで帆を揚げるには
強靭な刃を研ぎつつ隠しもつ凶暴さと
呪文を授ける杖の魔法が必要だと人はいう。
壊れやすいひとつの肉体が背理する
不確実なこの世界を仕留める執着と離脱。
ひとは己の死を知ることはできない
ならばおそれず舟を漕ぎ進めよう。
そこには私の生のすべてと汲みとられた
書物に記したすべての詩句がある。
他者と私をかろうじて貨幣がつなぐように
指の隙間からこぼれる砂の言葉を置こう
たとえ漂着した岸辺が私のたましひの
生誕の地であると知るとしても。


「茨を解きほぐしすでに行き過ぎし者よ」 詩誌「へにあすま」より掲載

2015年12月31日 | 詩誌『へにあすま』に載せた作品

茨を解きほぐしすでに行き過ぎし者よ

小林 稔

 

 

茨を解きほぐしすでに行き過ぎし者よ

あなたの背に血の滴りがかすかに見えます

わたしはいまだ闇に惑い外部へ開かれる

光の糸口さえ見出せずにいます

ここは確かにかつてあなたが足を留め

織物を紡いだところだが

あなたの遺した百丈もの布を広げて

そこに描かれた雉や牡丹を遊ばせています

世間の人は空箱をもてはやし投げ返していますが

彼らはそのことに無知なのではなく

空疎であるがゆえに飾りたて

お祭り騒ぎに乗じているように見えます

わたしがそのようなところから抜け出し

言葉の大海に乗り出せたことは幸運というべきでしょう

いったい誰に読まれるために書くというのですか

それにしても探し求めるべきほんとうのこととは何

闇を疾走する一条の光

それが存在しないとしたら

わたしはいますぐ書くことを辞めます

いくつもの声がわたしを呼んでいますが

わたしは孤島に佇み脳髄に絡む声の渦中から

わたしに発信される言葉を受信しようとしているのです

生涯の全経験を貫いて火のように立ち上がるものを待つ

邂逅を果たすべき他者をこの胸に抱き寄せるため

その瞬間にわたしは賭けているのかもしれません

その他者はすでにどこかですれ違った者であるにしても

それともこれから生まれてくる者であるにしても

互いに無疵であるはずはなく言葉によって

自己を奥底まで掘り進めた者同士にのみ許されるのです

ほんとうのこととは見える世界を夢想し

ふたたびこの世界を言葉に創り直すことで見えてくるものです

茨を解きほぐしすでに行き過ぎし者よ

わたしは虚空を見つめているあなたを追い見つめ

捨て切れなかった夢の破片をしかと読み解きます

あなたが倒れ伏したところから一歩踏み出し

ほんとうのことを世に知らしめるため

百年の闇を礎にわたしは柱を打ち立てます

 

copyright2014以心社

無断転載禁じます。


小林稔「夏の魔物」 詩誌「へにあすま」より掲載

2015年12月23日 | 詩誌『へにあすま』に載せた作品

       詩誌『へにあすま』2012年9月15日発行より

夏の魔物

小林稔



黄道に焔が上がり

アスファルトが噴き出す舗道

視界をさえぎり飛び交う羽虫を気化させる

射光の傍らで、遠雷がとどろくさなか

男の操る一台の牛車が通り過ぎた

死者を敷居に呼び寄せるこの日

私は西瓜にかぶりつく

焼印を押しつけたように

脳裏に記憶の絵が燃えて

背びれで水を切る青年は沖へ向かう

水際に寄せつづける波が

干からびた流木の破片を転がしている

ブロック塀のとだえた道の角から

少年におそいかかる夏の魔物

死者も歳を重ねているようだ



ひとつの道がふたつに分かれた

あの夏、私の選んだ道は

自らのうちに世界樹の枝をひろげ

迅速に歩みつつ、足跡を置いてきた道端に

言葉を不意に見つけ、ひろい集めて

私の宿命を知ることであった

もうひとつの道では

季節ごとの祝祭に明け暮れ

老いた者は約束事のようにもてなされる

生まれてきたときのように

擦り切れた記憶の手綱をついにゆるめ

すでに見知らぬ者と成り果てた魂は

――輪廻に迎え入れられるだろうか

意識の深みに沈んだ言葉の種子たちは

ふたたび「私」に浮上して大樹の葉を繁らせている



照りつける太陽に野の草が燃えんばかりだ

世界に亀裂をもたらすようにかつて私に訪れた

詩というもの、世界と経験が自らの尾を飲み込んだ

蛇のように、言葉がもたらす魂の薫香

ひとつの夏が黄道から立ち去ろうとしている





copyright 2012年 以心社
無断転載禁じます。