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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔「榛の繁みで(二)」、個人季刊誌『ヒーメロス』20号2012年3月25日発行

2012年04月11日 | 「ヒーメロス」最新号の詩作品
連作『榛の繁みで』個人季刊誌「ヒーメロス」20号2012年3月25日発行


榛の繁みで(二)
小林稔  

   
   三、闇

もしもし、ぼくの声が聞こえますか。

ぼくの幼少年期に不意に現われ、知らない間にいなくなった子供たち!
ある朝、教室に初めて姿を見せて周囲を沈黙させたり、夜半、近所に引っ越し
てきたりした子供たちだ。

小学校二年生の一学期が始まっていく日か過ぎたころ、担任の女の先生の背中
に張りつくようにして現われたきみ! 親の事情で転校してきたことを先生が
告げた。それだけできみはぼくの手のとどかない遠い世界からやってきた人に
なった。友だちになりたいという思いが胸の奥からこみ上げ、針で刺されたよ
うな痛みを覚えたが、生来話しかけるのが苦手なぼくには絶望的なことだった。

一度だけぼくの家に遊びに来たことがある。母屋の庭にいるぼくの耳から伸び
た絹糸が、開け放たれた引戸をいくつも通り抜け、ずっと先の、( ぼくの父は
駄菓子屋と玩具屋を営んでいた)いくつも並んだガラスのケースの前で突っ立
っているきみの耳もとに繋がっている。

もしもし、聞こえてるよ。
耳たぶをくすぐるようにきみの声がぼくにとどいた。

体育の時間のことだ。相撲の勝ち抜き戦があった。ひとり、またひとりと相手
を砂の上に倒していくきみは、ぼくの体に体当たりしたが、運動の苦手なぼく
に、いとも簡単に身を崩してしまった。負けてくれたのだと、そのときぼくは
とっさに思った。そんなきみはいつの間にか教室からいなくなった。

きみがいつどこへ行ってしまったのかがまったくぼくの記憶にないのはなぜ? 

もう何十年も過ぎ去ってしまったというのに、少年の姿のまま消息を絶ったき
みを、ぼくがいまになって気にかけてしまうのはどうして?

ぼくの視界に突如として現われ、気づく間もなく退場してしまった子供たち! 
きっと彼らは、雲のように移りゆくぼくの人生の「まろうと」と呼ぶべき人た
ちだ。彼らは土地土地で歓待を待つ人たち、人生という想念の旅に足跡を深く
残していく人たちである。眼前から姿を消すことによって私たちの脳裡に刻印
される旅人だろう。やがて彼らは、私たちの人生が一瞬の出来事であり無に過
ぎないことを教えてくれるに違いない。

(もしもし、ぼくの声が聞こえていますか。)



   四、使者

凋落というべきか、恩寵というべきか、十九歳を過ぎて一人暮らしを始めてい
たぼくは、学生時代の特権(少ない仕送りと多くの時間)を満喫していたので
あったが、六畳のアパートでの日々の暮らしのなかで、この世界を生きている
日常空間にその亀裂らしきものを仄かに感じ始めていた。

想像力のなせる技であることはすぐにわかった。当時読んでいたある書物、評論
や小説などと関係していたのだが、いま息をしているぼくとは別の自分を生かし
めることであった。演じるというほどの特異のものではなく、常に観察するもう
ひとりの自分が生れ、日常の事柄、例えば街の人ごみを歩き、カフェに入り、友
人に逢うといういつもと変わることのない生活であったが、ある瞬間から(そう、
それから四十年間のぼくの生に指標を与えつづけたといえるほどの決定的な瞬間
だったと思う)、ぼくに言葉が訪れるようになったのだから。

画集から引き裂いて額に入れ部屋の柱に以前ぼくが架けた、フラ・アンジェリ
コの『受胎告知』の画があった。天井から吊った緑色のランプシェードからこ
ぼれる光に映され、フレスコ画の淡い肌色を見せていた。ぼくはなぜか一瞬自
分が存在を消され空洞になったように感じた。心が、といおうか魂が身体を抜
け出て遠い高みに導かれるようで、(非現実の空間が存在するものならば! )
恐怖と陶酔の入り混じった気持ちにさせられた。

精神に起こった不可思議な現象は解釈を求めて安寧をえようとする。そのとき
のぼくは、天上界を詩で充溢する言葉の世界と捉え、地上のぼくとの距離を埋
めるべく媒体となる存在が訪れ、魂を天上界へと連れて行こうとしているのだ
と考えた。(だからといって現実と想像を同一面で捉えてしまったのではなく、
想像界はメタファーで、この世界を読み解く鍵に過ぎないと熟知していた!)
媒体となる存在をぼくは天使の形象として捉えたのであった。

四六時中、このように聖なる空間に身体が充たされていたのではない。(そう、
それは部屋だ。そこに無造作に置かれた物たちの主張、それらとぼくとの交信
が作用しているように思われた。(そしてレコード盤から音楽が流れるなら!)

現実と夢の世界の(そこには悪の怪しさが潜んでいた!)二重性を生きる時間
はそれほど長くはつづかなかったし、事物がよそよそしい表情を投げかけるこ
とのほうが多かったが、すでに変貌しつつある自分を省察するのは愉快であっ
た。ぼくがこれから生きる時空はぼく自身が切り開いていこう、自分がなろう
とする自分に変身していこうという願望が増殖したのであった。あの瞬間から
訪れる言葉は詩作となってぼくを杖のように支えた。

ぼくに起きた現象がナルシシズムに由来すること、天上界のメタファーを詩の
源泉に結びつけたことが、もちろんその発信地が西洋であることは承知してい
た。その後、その地での荘厳な教会の祭壇に(世間の多くの人にとって崇拝の
対象でなく観光の対象に過ぎない遺物になりはてたとしても!)ぼくの想像界
を彷徨する精神が揺すぶられたのは、神学的なことに詩学のアナロジーを嗅ぎ
つけたからだ。さらにそこに哲学的思考が加味され現在のぼくがいるのだ。

現実に目隠しをほどこし、言葉が織りなす言語的世界にダイブする詩人たちを
知るたびに、(主体性の言葉がこの世界から締め出されているとしても! )ぼ
くを惹起するのはこの現象世界なのだ。此岸と彼岸を橋渡しする言葉を身体に
受け留めるぼくは、日常の生活で変成された自己を用意しているといえよう。

あの瞬間を迎えてから時すばやく過ぎ去り、訪れる言葉がぼくの経験を解き、
これからの視線の先を啓示するだろう。やがてぼくの深遠、おそらくぼくの血
の系譜を紐解く祖先の地である根の國からの声、がぼくを導くのだ。



個人季刊誌「ヒーメロス」最新号からの詩を紹介。

2011年12月17日 | 「ヒーメロス」最新号の詩作品
榛(はしばみ)の繁みで
          小林 稔

   一、死

榛(はしばみ)の繁みで身を隠しているものたち! 真昼時、通り抜けるたびに
どこかで子供たちの真鍮(しんちゅう)を打ち叩く音、火事を報せる消防車の遠
くから響く警報に似たそれを耳にしているような思いがしてならなかったが、
繁みに見出すのは淀んだ闇だけであったし、ずいぶん長く会っていない人たち
の気配がそこから立ち昇ってくるのであった。いやそれはぼくの思い違いでぼ
くのどこか頭の片隅からやってくるのかもしれない。それにしてもそこから立
ち現われてくるのは、不慮の事故や病気で亡くなったと知らされている友だち
だ。もっともぼくが知らないだけで、遠くで近くでもう死んでしまっている友
だちがもっといるのかもしれないのだ。

裸足で庭を駆けてきて縁側で西瓜を頬張(ほおば)っているのは誰?

満水の川岸に辿りきれず溺れ死んだのは誰?

別れて何十年も経ち、ぼくの記憶に居場所を落ち着けてしまった人たちには時
間が止められていて、ぼくだけが老いてしまっているから会うことが億劫(おっ
くう)になる。ある時ある場所を共有していたことは事実だから記憶は永遠に
生きつづけることになる。永遠だって? どんなに長く生きてもぼく自身が三
十年あるいは二十年しか生きられないというのに。それならむしろ書きとめる
べきではないのか。しかし記述は再現でなく記述する時間を言葉で生きること
になるので、新しい生が始まるともいえるのだ。

そうであるならば、ぼくの命あるかぎり亡者たちを(そのなかには生存者もい
るかもしれない!)登場させようでないか? 書物に永遠に(とりあえずは)
記されることになる。ぼくのこれまでの時間の鍵が解き明かされるかもしれな
い。ぼくの経験から、犇(ひし)めき合っているたくさんの他者たちの声を救い
出し、新しい命の出産に立ち会おうじゃないか。


   二、空

ぼくたちの日常を、そこでは人に好意を抱いたり憎しみに身を引き裂かれたりし
ているのだが、すべて包み込んでいる空があった。十歳にならないころ、ぼくは
麦をいちめんに刈り取った畑の真ん中で、雲雀(ひばり)の鳴き声を遠くに聞きな
がら眠りについてしまった。気がついたときは辺りが薄暗くなり始めていた。畑
の向こうに民家が孤島のように点在する風景がまどろむ瞼にも見えたし、その先
は黒い帯、(おそらく庭木や森の樹木)が地平にコンパスをひろげて張りめぐら
されていた。帰ろうと立ち上がり歩くと、あのうろこ雲がぼくを追ってきた。空
は地平の果てにもつづいている。夕日に映えた空は血を滲(にじ)ませ、おまえを
襲うぞという脅迫を与えたし、空が落ちてきてのみ込まれてしまうというぼく自
身の恐怖でもあったのだ。誰も助けてくれる人がいない(その後、何度そう感じ
たことか!)、そうした孤独をぼくがはじめて身をもって知ったときだった。

十四歳になったころ、庭から見上げる夜の空は静まりかえっていた。以前の、恐
怖を圧しつけた夕暮れの空ではなかった。この世の事象をすべて闇で蔽(おお)っ
ている空であった。昼と夜の世界があって二つの領域をぼくはこれから生きてい
かなければならないのだ。この空で煌(きら)めく星たちにも孤独というものがあ
ると知ったのであったが、そのとき空は孤独のもつ峻厳(しゅんげん)と勇気をぼ
くに教えてくれた。

現象の世界と永遠の世界を所有するぼくたち! じつは同じ一つの世界に過ぎな
いのではないか。というのも、現象は永遠のただなかにしか存在しないからだ。
昼の孤独を嘗(な)めつくすさなかにあの金色の光を煌めかせる強靭(きょうじん)
さは、無数の傷口(そう、騙(だま)しあい裏切られ、時に他者や自分を打ちのめ
したいほど嫌悪するぼくたち)が、それぞれの角度に光を放つ鉱石のそれではな
いのか。その光は、ぼくたちの胸の深海の波が空を、鏡にして写す海面から超え
出ようとする言葉たちだ。