近鉄藤井寺駅を下車した後、駅の南側に南北に伸びている商店街を抜けて、住宅街に入っていくと、土がむき出しになった小さい山が見えてくる。手前には住宅が建っているので、庭越しにしか見えないがどうやら古墳のようである。西側からぐるりと反対回りこんでいくと、金網のフェンスに囲われた古墳が見える。
これが、鉢塚古墳と言われる古墳であり、国の史跡に指定されている。
見ると、明らかに前方後円形をしている、後円部の向こうには、幼稚園らしき園舎が見える。どうやら周濠の跡を埋め立てて建てているような感じである。せっかくなので、中に入って見る。
この古墳については、墳丘長60m、前方部幅40m、高さ4m、後円部径38m、高さ6.5mとされている。墳丘に登れるような道があったので、登ってみることにした。
【前方部】
【後円部】
登ってみると確かに、後円部が高いのが実感できる。この古墳自体は、きちんと発掘調査がされてはいないそうで、埋葬施設等は不明とのこと。ただ、わずかに見つかった円筒埴輪から、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)と同様に5世紀の末葉に築造されたのではないかと言われている。岡ミサンザイ古墳の埋葬者と何らかのつながり(陪冢?)があるのかもしれない。
鉢塚古墳を後にし、さらに住宅街の中を南に向かって歩いていくと前方に大きな森が見えてくる。
これが、仲哀天皇恵我長野西陵に治定されている岡ミサンザイ古墳である。仲哀天皇については、この後の応神天皇や仁徳天皇の陰に隠れてあまり知られていないような天皇ではあり、実在を否定している学者もいる。日本書記等によれば、お父さんは、日本武尊だし、奥さんは、神功皇后であるとされている。この2人を並べると、非常に軍事的な色彩の強いお父さんと奥さんを持った大王であるのだが、神託を疑った末、神の怒りを買い、急死してしまう説話のある人物である。戦前の日本史教育の中では、日本武尊、神功皇后といえば必ず出てくる人物ではあるので、仲哀天皇もこの2人に関連して出てくる人物であったのだが、戦後は、一気に忘れ去られ、存在自体疑問視されるようになってしまった。まるで天国から地獄へというか激しい凋落ぶりではある。
その岡ミサンザイ古墳であるが、古市古墳群の中の古墳の中でも、フォルムのきれいさは、古市古墳群の数ある古墳の中でも一、二を争うのではないだろうか。とにかく前方後円形がはっきりとわかるし、周濠も幅が広く、濠の中に豊富に水がたたえられていて雄大さを感じさせるものがあるし、ぎりぎりまで住宅が迫っていることもなく非常に見やすいなどなどである。この古墳は、ほぼ1週ぐるりと回ることができるので、朝の靄のかかっているときに散歩してみるといいかもしれない。この古墳を、目の前にしたときは、ちょっと感動ものだった。あんまり理解してもらえないけど・・・。
この古墳は、墳長242m、前方部幅182m、高さ16m、後円部径148m、高さ20mとなっており、鉢塚古墳と同様に前方部が後円部に比べてやや開き気味になっており、周濠の幅は、約50mとされる。古墳の築造年代は、鉢塚古墳と同様に5世紀の末葉と考えられている。
古市古墳群では、市野山古墳の後、野中ボケ山古墳の前と考えられている。となると、仲哀天皇というには、時代が合わないことになる。和田萃氏は雄略天皇は葬られているのではないかと述べられている。(昔は、”本当”の雄略天皇陵は、大塚山古墳と言われていたが、最近は、むしろ、岡ミザンザイ古墳ではないかと言われることの方が多いような気がするなあ。)
埋葬施設は、不明ではあるが、横穴式石室かもしれないと言われている。
たぶん、この古墳の南西の隅が一番古墳の姿がきれいに見えるポイントのような気がするなあ。
西側の参道から拝所の前をとおり、東側の参道を出る。
東側の方が高いのか少し濠の水量が少ないように感じた。堤のの盛り土が高いのは昔、城として利用された際に盛り土されたからだという。
岡ミザンザイ古墳を出て、50mほど行くと駐車場の中に、小さな古墳が見える。
割塚古墳と呼ばれる方墳で、一辺約30mとのこと。大阪府の史跡に指定されている。岡ミザンザイ古墳の陪冢と思ったのだが、4世紀後半の築造と考えられており、岡ミザンザイ古墳とは、100年ほどの開きがある。また、鉢塚古墳の近くには、岡古墳と呼ばれる同じぐらいの大きさの古墳があったらしい。
岡古墳からは粘土郭などの埋葬施設が出土しているのだが、割塚古墳については、埋葬施設等詳しいところは不明であるようだ。
写真は、割塚古墳から岡ミサンザイ古墳を写した写真である。古墳の大きさが分かっていただけると思う。
さあ、次の古墳をめざして歩こう。
これが、鉢塚古墳と言われる古墳であり、国の史跡に指定されている。
見ると、明らかに前方後円形をしている、後円部の向こうには、幼稚園らしき園舎が見える。どうやら周濠の跡を埋め立てて建てているような感じである。せっかくなので、中に入って見る。
この古墳については、墳丘長60m、前方部幅40m、高さ4m、後円部径38m、高さ6.5mとされている。墳丘に登れるような道があったので、登ってみることにした。
【前方部】
【後円部】
登ってみると確かに、後円部が高いのが実感できる。この古墳自体は、きちんと発掘調査がされてはいないそうで、埋葬施設等は不明とのこと。ただ、わずかに見つかった円筒埴輪から、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)と同様に5世紀の末葉に築造されたのではないかと言われている。岡ミサンザイ古墳の埋葬者と何らかのつながり(陪冢?)があるのかもしれない。
鉢塚古墳を後にし、さらに住宅街の中を南に向かって歩いていくと前方に大きな森が見えてくる。
これが、仲哀天皇恵我長野西陵に治定されている岡ミサンザイ古墳である。仲哀天皇については、この後の応神天皇や仁徳天皇の陰に隠れてあまり知られていないような天皇ではあり、実在を否定している学者もいる。日本書記等によれば、お父さんは、日本武尊だし、奥さんは、神功皇后であるとされている。この2人を並べると、非常に軍事的な色彩の強いお父さんと奥さんを持った大王であるのだが、神託を疑った末、神の怒りを買い、急死してしまう説話のある人物である。戦前の日本史教育の中では、日本武尊、神功皇后といえば必ず出てくる人物ではあるので、仲哀天皇もこの2人に関連して出てくる人物であったのだが、戦後は、一気に忘れ去られ、存在自体疑問視されるようになってしまった。まるで天国から地獄へというか激しい凋落ぶりではある。
その岡ミサンザイ古墳であるが、古市古墳群の中の古墳の中でも、フォルムのきれいさは、古市古墳群の数ある古墳の中でも一、二を争うのではないだろうか。とにかく前方後円形がはっきりとわかるし、周濠も幅が広く、濠の中に豊富に水がたたえられていて雄大さを感じさせるものがあるし、ぎりぎりまで住宅が迫っていることもなく非常に見やすいなどなどである。この古墳は、ほぼ1週ぐるりと回ることができるので、朝の靄のかかっているときに散歩してみるといいかもしれない。この古墳を、目の前にしたときは、ちょっと感動ものだった。あんまり理解してもらえないけど・・・。
この古墳は、墳長242m、前方部幅182m、高さ16m、後円部径148m、高さ20mとなっており、鉢塚古墳と同様に前方部が後円部に比べてやや開き気味になっており、周濠の幅は、約50mとされる。古墳の築造年代は、鉢塚古墳と同様に5世紀の末葉と考えられている。
古市古墳群では、市野山古墳の後、野中ボケ山古墳の前と考えられている。となると、仲哀天皇というには、時代が合わないことになる。和田萃氏は雄略天皇は葬られているのではないかと述べられている。(昔は、”本当”の雄略天皇陵は、大塚山古墳と言われていたが、最近は、むしろ、岡ミザンザイ古墳ではないかと言われることの方が多いような気がするなあ。)
埋葬施設は、不明ではあるが、横穴式石室かもしれないと言われている。
たぶん、この古墳の南西の隅が一番古墳の姿がきれいに見えるポイントのような気がするなあ。
西側の参道から拝所の前をとおり、東側の参道を出る。
東側の方が高いのか少し濠の水量が少ないように感じた。堤のの盛り土が高いのは昔、城として利用された際に盛り土されたからだという。
岡ミザンザイ古墳を出て、50mほど行くと駐車場の中に、小さな古墳が見える。
割塚古墳と呼ばれる方墳で、一辺約30mとのこと。大阪府の史跡に指定されている。岡ミザンザイ古墳の陪冢と思ったのだが、4世紀後半の築造と考えられており、岡ミザンザイ古墳とは、100年ほどの開きがある。また、鉢塚古墳の近くには、岡古墳と呼ばれる同じぐらいの大きさの古墳があったらしい。
岡古墳からは粘土郭などの埋葬施設が出土しているのだが、割塚古墳については、埋葬施設等詳しいところは不明であるようだ。
写真は、割塚古墳から岡ミサンザイ古墳を写した写真である。古墳の大きさが分かっていただけると思う。
さあ、次の古墳をめざして歩こう。
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