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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

古市古墳群をあるく(藤井寺市編)⑪ ~野中ボケ山古墳(仁賢天皇陵)・野々上古墳~

2017-06-10 22:09:21 | 史跡を歩く
 峯ヶ塚古墳のある峯塚公園を道を挟んで北側に羽曳野市の生活文化情報センター、LIC はびきのの裏側の道を北へ向かって歩くと、仁賢天皇陵に治定されている野中ボケ山古墳が見えてくる。この古墳については、周囲に田畑が残っているので、古市古墳群の中では比較的遠望がきく古墳である。ただ、先日訪れたときに、老人介護施設が近くに立つ予定みたいなので、これまでと同様の風景が見られるかどうかはちょっとわからない。

 

 参道も比較的長く伸びており、少し古墳を見下ろすような形になっている。

 

 野中ボケ山古墳については、以前もこのブログ(「野中ボケ山古墳」)で取り上げており、軽里大塚古墳同様に、再訪問ということになる。ただ、前回の訪問の時は、あんまり古墳の周りを見て回ることはできないと思っていたのだが、後円部の一部を除いてほぼ一周できることがわかった。以前、仲津山古墳(中津姫陵)を訪ねた時も半周しかできないと思っていたのが、実はほぼ一周できたのと同じで思い込みというものはいけないなあと思う。

 この古墳については、思わぬ収穫であった。墳丘の形、水をたたえた周濠、緩衝地帯を有するなど古市古墳群の中でも美しい部類に入ると思う。周りに高い建物もないのもいい。この風景を何とか保ってほしい。

 

 この野中ボケ山古墳について調べてみると面白いことに気づいた。この野中ボケ山古墳を仁賢天皇の陵と考証したのは、河内飛鳥の金剛輪寺の覚峰なのである。こんな所でも活躍していたんだね。

 

 軽里大塚古墳、野中ボケ山古墳、峯ヶ塚古墳、白髪山古墳、高屋築山古墳などの古墳は、誉田山古墳などの古墳と方位が違い、東西に横たわるように作られており、築造された年代も、百舌鳥古墳群で大型の古墳が築造されなくなってから、5世紀の終わりから6世紀の前半にかけて、これらの古墳が築造されたようだ。築造順で言うと、軽里大塚古墳、野中ボケ山古墳と峯ヶ塚古墳、高屋築山古墳、白髪山古墳となるようである。余談だが、野中ボケ山古墳と峯ヶ塚古墳、高屋築山古墳と高屋八幡山古墳、白髪山古墳と小白髪山古墳とがセットであるという考え方もあるようだ。

 

 また、これらの古墳については、古墳の規模が小さくなると同時に葺石が簡略化されるなどの傾向があるという。ちなみに埋葬施設についても、横穴式石室が導入されているのではないかという話もある。

 

 野中ボケ山古墳の後円部の前には、上田池と下田池の二つのため池が広がる。

 

 この2つの池は、古市大溝と呼ばれた人工水路の一部だと言われている。古市大溝は、石川から東除川までの12kmに及ぶもので、かつては5世紀、古墳を築造するための資材等を運搬する運河と言われていたが、現在は6世紀後半以降の農業用の水路と考えられている。
 野中ボケ山古墳からさらに北へ行った住宅街の中に野々上古墳がある。

 

 野々上古墳は、全長20mほどの方墳で、墳丘はかなり後世の改変を受けているが、仁賢天皇陵のい号陪冢として宮内庁に管理されている。

 

 しかしながら、付近から採集された埴輪によると4世紀後半の古墳であり、仁賢天皇陵として治定されている野中ボケ山古墳の築造年代とは1世紀ほど食い違っている。

 

 ちなみに、野々上古墳は、羽曳野市にある。この辺は、市の境が非常に複雑で、羽曳野市と藤井寺市で交互にかなり入り組んでいる状況にある。藤井寺市編というのもちょっと看板に偽りありなのであ~る。
 

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