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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

古市古墳群をあるく(羽曳野市編)① ~高屋築山古墳(安閑天皇陵)高屋八幡山古墳(春日山田皇女陵)~

2017-06-04 15:53:20 | 史跡を歩く
 古市古墳群シリーズもついに羽曳野市編となった。まず始めは近鉄古市駅の南側に位置する高屋築山古墳(安閑天皇陵)から始めることにしよう。高屋築山古墳へは、古市駅を降りてから南へ向かって歩き、踏切を越えた辺りから上り坂になり、その坂を登りきったところに後円部が位置する。前方部の拝所には少し古墳の周濠沿いに歩くことになる。
 高屋築山古墳については、北半分と後円部を周濠沿いに歩くことができる。

 

 周濠沿いに歩いてみると、あんまりきれいな前方後円形になっていない感じがする。おそらく、中世になって高屋城の本丸として再利用されたことにより、大きく改変されていることが原因であろう。高屋築山古墳は、墳丘長122m、後円部直径78m、高さ13m、前方部幅100m、高さ12.5mとなっている。また、古市古墳群の中では、白髪山古墳(清寧天皇陵)や野中ボケ山古墳(仁賢天皇陵)などと同様に、軸を東西に横たえた位置をしている。古墳の築造については、6世紀前半とされている。安閑天皇については、古市古墳群に天皇陵が治定されている天皇としては一番新しい天皇である。しかしながら、高屋築山古墳が古市古墳群の中で一番新しい大王級の古墳かどうかというのは微妙なところのような感じである。

 

 安閑天皇に少し触れると、継体天皇の後を次いで即位した。勾大兄皇子と言われ、「大兄」という称号を持った実在性が確実な人物であると言われている。在位は4年と伝えられ、子どもがいなかったため、弟の宣化天皇が即位している。また、朝鮮側の史料である「百済本記」に天皇、皇太子、皇子がともに亡くなったという記事があることから、安閑→宣化という流れと欽明という二朝並立状態ではなかったかという著名な学説がある。

 

 古墳の周濠では、北側に傾斜があるのか、南側特に前方部のあたりが、空濠になっている。

 

 ちなみに、安閑天皇陵から出土したと伝えられる白瑠璃椀が東京国立博物館に保管されている。ササン朝ペルシャのものといわれ、同様のものが正倉院の御物として伝わっている。また、橿原市にある新沢千塚古墳126号墳からも出土している。すでに5世紀の末ぐらいから西域のものが何らかの形で流入してきていたのだろう。この白瑠璃椀が、別々の場所に伝わっているという話をモチーフに作家の井上靖が、「玉椀記」という短編小説を書いている。(新潮文庫「ある偽作家の生涯」所収)僕としては、作者の特異な西域物という期待を持って読んだのだが、残念ながら日本が舞台でした。

 

 そして、高屋築山古墳の北側を住宅地を抜けていくと、安閑天皇の皇后春日山田皇女陵と治定されている高屋八幡山古墳がある。

 

 一見、方墳のように見えるが、全長85メートルの前方後円墳の一部で、発掘調査で北の方向に前方部を向ける周濠を持つ古墳であると確認されている。高屋築山古墳と同様に、中世高屋城として再利用された際に墳丘が削られたと考えられている。
  
 

 春日山田皇女は、仁賢天皇の皇女であり、姉、手白香皇女が、安閑天皇の父、継体天皇の皇后となったのと同様に、安閑天皇の皇后になっている。安閑天皇の後の宣化天皇も、春日山田皇女の妹を娶って皇后にしていることから、前王朝の血筋を持つ皇女を妃に迎えることにより王権を確立しようとしたのかもしれない。
 
 

 日本書紀には、安閑天皇と安閑天皇の妹、神前皇女と皇后、春日山田皇女と合葬されたと伝えられるが、なぜか高屋築山古墳には、安閑天皇と神前皇女、高屋八幡山古墳には春日山田皇女の陵として治定されている。高屋築山古墳と高屋八幡山古墳とはそう違わない時期に築造されているため、何らかの関係はあったと考えられそうである。

 

 最後に、高屋築山古墳から国道170号線に向かう道すじに、姥不動と呼ばれる小さな社があり、小さな境内に高屋城跡という説明板が、読む人もなく立っている。

 

 中世最大の平山城と呼ばれた高屋城については、近年の再開発で跡形もなくなってしまった。文化財をどう伝えていくのか難しいなあと思う。

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