休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

北近畿の古墳 ~私市円山古墳~

2021-07-31 22:28:53 | 史跡を歩く

 大阪府の茨木市から、珍しく友人と自動車に乗って、北摂の山地を抜け、亀岡市、園部市、南丹波町を通って、綾部市にある私市円山古墳に向かう。車中2時間ほどである。

 途中、古民家と田園風景を眺めながら、こういった日本的な美しい風景は、いつまでも守り続けてほしいなあと思ったりした。

 さて、私市円山古墳である。この古墳は、綾部市でもちょっと外れたところにある。周りは見事なまでの田園風景である。あとは、舞鶴若狭自動車道が通っているだけである。そして、この自動車道の建設が、私市円山古墳の発見につながっている。

 

 私市円山古墳が、その存在を知られたのは比較的新しく、昭和63年に舞鶴若狭自動車道の建設に伴う事前調査によってである。

 そして、古墳の発見の後、保存の機運が高まり、当初の切通しの案から設計を変更し、古墳の下をトンネルを通して、保存することになったそうだ。

 その後、平成5年に古墳公園として整備、平成6年には国の史跡に指定され、現在に至っている。

 

 私市円山古墳は、5世紀の中ごろに築造された京都府下で最大の円墳であり、三段築造で直径約71mを測る。また、1ヵ所造り出しがあり、ちょっと目には、帆立貝式古墳のようにも見える。それぞれのテラスには、円筒埴輪がぐるりと置かれており、墳丘には葺石が6万個の石を使って葺かれている。

 

 それから、発掘調査で、埋葬施設が3か所見つかっている。何故か墳頂に明示されているのは2か所だけである。埋葬はそれぞれ木棺の直葬であり、甲冑や武具などが出土している。これらの埋葬施設の被葬者の関係は不明である。

 ただ、副葬品に武具などが多く、鏡は1面だけ出土した状況から想像すると、古墳の下を流れる由良川の流域を押さえた武人の一族が被葬者として考えられそうである。

 また、ヤマト王権が、この地域に政治的な介入があったことを示しているという学説もある。確かに、周辺には私市円山古墳につながるような古墳の存在もなく、突然、現れたような巨大な円墳である。

 

 墳頂からの景色は、非常に見晴らしがよく、雄大である。おそらくは、眼下に流れている由良川の流域から、この古墳を見上げさせるということに大きな意味があったのだろう。

 

 最後に、私市円山古墳から、周辺の田園風景を眺めると、田んぼが青々としてすがすがしい。ただここへ至るには、ふもとにある駐車場から山道を15分ほど登っていく必要がある。

 

 山道、木の階段などがあるも、結構登るのはきつかった。

 

 古墳探索なんだけどなあ。登山というほど本格的ではないが、想像以上にきつかった。同行した友人は、気温が高かったこともあるが、かなりへばっていた。

 歩いている途中、道のわきにキノコが多く生えていたり、黒い羽根のトンボが何匹も飛んでいた。

 最後に、古墳から出土した甲冑や武具などに副葬品については、ここから自動車で20分ほど走ったところにある綾部市資料館で展示されている。(ちなみに入館料は無料。)

 

 最近の古墳の整備ではありがちなのだが、ここまで復元するのがいいのかどうかは賛否が分かれるところではあるなあ。

 

 この日は、とにかく暑かったので、古墳から資料館に行って出土品を見学後、退散することにした。

 


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