娘が小さい頃に良く聞いていた。
「それっていい事?それとも悪い事?」
今回は善悪について。
子供というのはまだ人生の経験が浅いのでそうやって聞くのだろうな。
良いことを求め悪を排除しようとする心。
クレクレ君は言う。「そうだよ、その何が悪い?」
だがここに思わぬ落とし穴がある。
勧善懲悪というのは日本ではモモ太郎だし、ハリウッド映画のヒーロー物は全てこれだ。
憎憎しい悪者に正義の味方が挑み、一時はピンチになるが最後には正義が勝つという決まりきったシナリオ。
これがエスカレートすると『悪者退治のためなら何をしてもいい』ということになる。
だって悪だもの。悪いヤツはやっつけなきゃ。
それが正義の味方の役目。
多少の被害はしょうがないさ。
正義のためなんだから。
自分は正しい。間違っているのは相手だ。
だから自分は戦う。
ああ、そうですか、はあ。
としか言いようがないな。
落とし穴はどこか。
その善と悪はどこから来ているのか。
自分から見れば善でも相手から見れば悪ということはよくある。
そしてそれをうまく利用する場合も多々ある。
特に戦争屋はそれだ。
メディアを上手く使い大衆をコントロールし戦争に持っていく。
敵と味方を作り両方に金を出し戦争をさせる、なんてのは今や当たり前の話だ。
モモ太郎を例に出したが、ドラえもんの話でのび太がモモ太郎になる話があった。
のび太とドラえもんが鬼が島へ行ってみると、そこに居たのは西洋人。
翻訳こんにゃくで話を聞いてみると、船が難破して島にうち上げられたと。
人に助けを求めても言葉は通じず、皆びっくりして宝物を置いて逃げ出す始末。
そのうちに村人から攻撃を受けるようになり、自分を守るために角を作って人を脅かした。
自分はただ生まれ故郷に戻りたいだけなのに。
どこでもドアで生まれ故郷に戻してあげて財宝はのびたが持って帰りめでたしめでたし、という話だった。
正義と悪ということは立ち位置が変われば逆転する。
これは国家の間ならば戦争だし、個人の間ならばケンカだ。
いずれにせよ、相手が悪いと言っている時は何も始まらない。
それは自分の正当化だ。
相手を認め自分を高めるという、魂の課題からはずれてしまっている。
それどころか、相手を悪と決め付けることで自分も下げてしまう。
たとえ何かのひょうしに一方的に被害を受けようとも、それは自分にも責任がある。
こういう話をしていくと「じゃあ私が悪いって言うの?」と言うクレクレ君がいる。
だーかーらー、善いとか悪いという話ではないのだ。
今、目の前に見えている現実とは全て自分が作り上げているいることで、それは全て自分の選択からきた行動の結果なのである。
全ての事柄において個人の責任はあるが、たとえ表面上は悪い結果に見えてもそれは各個人が悪いのではない。
責任と善悪を一緒にしてはいけない。
「じゃあ殺人事件なんかはどうなのよ?殺された人は可哀そうで殺した人は悪いじゃないの」
クレクレ君はしつこい。これぐらいの言葉で納得するならば最初からクレクレ君にならないだろう。
では説明する。
ある殺人事件があったとしよう。
一般的には殺した人は悪いヤツで加害者。殺された人は可哀そうな人で被害者。
こういう公式があてはまる。あくまで一般的な話でね。
魂の観点で言えば、殺した人は加害者でありながら被害者であり、殺された人は被害者でありながら加害者でもある。
2人で一つの事柄を起こしているのだ。
「じゃあ通り魔殺人は?」
それも同じ事。
表面的には全く関係のないように見えても、見えない所で両者は繋がっている。
それは今世だけではなく過去世からの繋がりもありえる。
心情的に殺された人は可哀そう、という気持ちは分かる。
だが見えるものだけに心を囚われると、そこから先は進めなくなる。
輪廻転生、これからはこの考えが当たり前の世の中になっていくことだろう。
それに気がつかないで死んでいく魂も数多くあるが、皆死ねば行く所は一つ。
その時に気がついて又新たな生となる。
泥棒だって同じだ。
盗むやつは悪ではない。
この世の心理に気がつかない可哀そうな人だ。
盗まれる方にも責任はある。
二度三度と泥棒に入られる人は自分自身を見つめなおす必要がある。
一度で気がつかないから二度三度と繰り返すのだ。
泥棒が悪いのであって自分は可哀そうな被害者、というドラマから抜け出さなくては何回でもくり返すだろう。
そして自分の持ち物、お金とか物とかに執着していればそれを失う事を怖れ、必要の無い施錠などをして泥棒を呼んでしまうことだろう。
そして盗む方は『自分さえ良ければいい』というエゴに心が支配されている事に気がつかない。
悪はないが罪はある。
犯した罪は自分で拭う。
天に向かってつばを吐けばそれは自分に落ちてくる。
落ち方もさまざま、それは人それぞれでやり方が違うだろう。
罪を憎んで人を憎まず、とはよく言ったものだ。
善悪の話から輪廻転生や罪の話まできてしまったが、全て繋がっていることなので仕方ない。
このあたりも掘り下げていくとキリがない。
それにもうクレクレ君にはついてこれない所まで話がぶっ飛んでしまった。
善と悪、これが全てではないということ。
そして人を悪と決めつける心の中に落とし穴があるということ。
これが今日の教訓です。
「それっていい事?それとも悪い事?」
今回は善悪について。
子供というのはまだ人生の経験が浅いのでそうやって聞くのだろうな。
良いことを求め悪を排除しようとする心。
クレクレ君は言う。「そうだよ、その何が悪い?」
だがここに思わぬ落とし穴がある。
勧善懲悪というのは日本ではモモ太郎だし、ハリウッド映画のヒーロー物は全てこれだ。
憎憎しい悪者に正義の味方が挑み、一時はピンチになるが最後には正義が勝つという決まりきったシナリオ。
これがエスカレートすると『悪者退治のためなら何をしてもいい』ということになる。
だって悪だもの。悪いヤツはやっつけなきゃ。
それが正義の味方の役目。
多少の被害はしょうがないさ。
正義のためなんだから。
自分は正しい。間違っているのは相手だ。
だから自分は戦う。
ああ、そうですか、はあ。
としか言いようがないな。
落とし穴はどこか。
その善と悪はどこから来ているのか。
自分から見れば善でも相手から見れば悪ということはよくある。
そしてそれをうまく利用する場合も多々ある。
特に戦争屋はそれだ。
メディアを上手く使い大衆をコントロールし戦争に持っていく。
敵と味方を作り両方に金を出し戦争をさせる、なんてのは今や当たり前の話だ。
モモ太郎を例に出したが、ドラえもんの話でのび太がモモ太郎になる話があった。
のび太とドラえもんが鬼が島へ行ってみると、そこに居たのは西洋人。
翻訳こんにゃくで話を聞いてみると、船が難破して島にうち上げられたと。
人に助けを求めても言葉は通じず、皆びっくりして宝物を置いて逃げ出す始末。
そのうちに村人から攻撃を受けるようになり、自分を守るために角を作って人を脅かした。
自分はただ生まれ故郷に戻りたいだけなのに。
どこでもドアで生まれ故郷に戻してあげて財宝はのびたが持って帰りめでたしめでたし、という話だった。
正義と悪ということは立ち位置が変われば逆転する。
これは国家の間ならば戦争だし、個人の間ならばケンカだ。
いずれにせよ、相手が悪いと言っている時は何も始まらない。
それは自分の正当化だ。
相手を認め自分を高めるという、魂の課題からはずれてしまっている。
それどころか、相手を悪と決め付けることで自分も下げてしまう。
たとえ何かのひょうしに一方的に被害を受けようとも、それは自分にも責任がある。
こういう話をしていくと「じゃあ私が悪いって言うの?」と言うクレクレ君がいる。
だーかーらー、善いとか悪いという話ではないのだ。
今、目の前に見えている現実とは全て自分が作り上げているいることで、それは全て自分の選択からきた行動の結果なのである。
全ての事柄において個人の責任はあるが、たとえ表面上は悪い結果に見えてもそれは各個人が悪いのではない。
責任と善悪を一緒にしてはいけない。
「じゃあ殺人事件なんかはどうなのよ?殺された人は可哀そうで殺した人は悪いじゃないの」
クレクレ君はしつこい。これぐらいの言葉で納得するならば最初からクレクレ君にならないだろう。
では説明する。
ある殺人事件があったとしよう。
一般的には殺した人は悪いヤツで加害者。殺された人は可哀そうな人で被害者。
こういう公式があてはまる。あくまで一般的な話でね。
魂の観点で言えば、殺した人は加害者でありながら被害者であり、殺された人は被害者でありながら加害者でもある。
2人で一つの事柄を起こしているのだ。
「じゃあ通り魔殺人は?」
それも同じ事。
表面的には全く関係のないように見えても、見えない所で両者は繋がっている。
それは今世だけではなく過去世からの繋がりもありえる。
心情的に殺された人は可哀そう、という気持ちは分かる。
だが見えるものだけに心を囚われると、そこから先は進めなくなる。
輪廻転生、これからはこの考えが当たり前の世の中になっていくことだろう。
それに気がつかないで死んでいく魂も数多くあるが、皆死ねば行く所は一つ。
その時に気がついて又新たな生となる。
泥棒だって同じだ。
盗むやつは悪ではない。
この世の心理に気がつかない可哀そうな人だ。
盗まれる方にも責任はある。
二度三度と泥棒に入られる人は自分自身を見つめなおす必要がある。
一度で気がつかないから二度三度と繰り返すのだ。
泥棒が悪いのであって自分は可哀そうな被害者、というドラマから抜け出さなくては何回でもくり返すだろう。
そして自分の持ち物、お金とか物とかに執着していればそれを失う事を怖れ、必要の無い施錠などをして泥棒を呼んでしまうことだろう。
そして盗む方は『自分さえ良ければいい』というエゴに心が支配されている事に気がつかない。
悪はないが罪はある。
犯した罪は自分で拭う。
天に向かってつばを吐けばそれは自分に落ちてくる。
落ち方もさまざま、それは人それぞれでやり方が違うだろう。
罪を憎んで人を憎まず、とはよく言ったものだ。
善悪の話から輪廻転生や罪の話まできてしまったが、全て繋がっていることなので仕方ない。
このあたりも掘り下げていくとキリがない。
それにもうクレクレ君にはついてこれない所まで話がぶっ飛んでしまった。
善と悪、これが全てではないということ。
そして人を悪と決めつける心の中に落とし穴があるということ。
これが今日の教訓です。
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