あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

ケプラー日記  3

2009-07-15 | 
翌朝、暗いうちに行動を始める。
昨日の晩リチャードが、日の出は8時ぐらいだと言っていたのだ。
コーヒーを入れているうちに東の空が明るくなってきた。早起きの人達もポツリポツリと起き出した。
コーヒーを片手に日の出がよく見えるポイントへ向かう。
小屋から2,300m離れると展望が開ける。テアナウの街明かりも良く見える。
しまった、なぜ昨日の晩ここに来なかったのだろう。
テアナウの夜景が見られるなんてめったに無いことなのに。
雲は多少あるがおおむね晴れ、ただし風はある。東の山の上にある雲がピンクに染まる。この美しさは一瞬のものだ。そう思った通り、すぐに色はあせてしまった。
そして今度は、日が出るだろうという場所の雲が金色に輝き始める。山の連なりから一筋の光が高い角度でその上にある雲を照らす。光の筋は徐々に角度を変え僕のいる場所までやってきた。
光は神々しく輝き、一筋だったものが量を増やし横に広がる。やがてはっきりと球体の一部という確認ができるような大きさとなり、さらに量を増す。光はさらに昇り半円から完全な球体となった。夜明けだ。
何千万回、いや何億回この神々しい儀式は繰り返されてきたのだろうか。そのうちの1回を僕は体験した。
僕がこの場にいようがいまいが日は昇る。だが今日という日のこの瞬間は二度と来ない。この瞬間を味わい肌の奥で感じ取る。その幸せは永遠に続き、この感覚こそが自分の生きる証しでもあるのだ。
満ち足りた想いで小屋に戻り朝食。朝飯はポリッジ、押し麦を煮たものだ。
こちらの人はこれに砂糖やはちみつをかけ甘くして食べるが、僕はこれに味噌汁の元を直接入れ、おじやのようにして食べる。
日本のお客さんにもこの味噌ポリッジは評判が良い。腹持ちも良く体も温まる。お通じにも良い健康食品なのだ。
ミホコ父は荷物をまとめ一足先に出発。僕に頼らないで、自分のペースでやってくれるので楽だ。こちらも余計な気を使うこともない。

小屋を出てからは昨日見えていた斜面を登る。あいかわらず風は強い。
ビール4本、食料などを消費したのでザックも心なしか軽くなっている。
一段上のテラスに出ると先を行く人が見える。あそこへ登るのか。
見た目には遠く見えるが、いざ自分が歩いてみると15分ぐらいでそこの場所へ来てしまう。
これがこの国の山歩きの不思議なところで、かなり遠くに見える場所でも歩いているとあっというまについてしまう。
景色はどんどん変わり、歩いていてあきさせない。ほどよい変化、これがいいコースの条件だ。
斜面の途中で立ち止まり、後ろを振り返る。ラックスモア・ハットはもう見えず、ずーっと下のテアナウ湖。
湖の脇の森には小さな湖が点在し空を映している。ヒドゥン・レイクス、隠れ湖だ。
昨日通ってきた森の奥にはあんな場所がある。隠れ湖の名の通り、地上からは見えない。そこへ行く道もない。高台に出て初めて存在を現す。
この国にはこんな場所がたくさんある。奥が深いのだ。人間が簡単に行けて見えるものは、ほんのわずかだ。
一つのコーナーを曲がるとテアナウ湖のサウス・フィヨルドが視界の奥へ伸びる。幅は2,3kmぐらい。ここだけ見て、川だ、と言われればそう思ってしまう。この支流だって見えているのは10kmぐらいだろうか。見えなくなってまだ10km以上も支流は続く。奥は深い。
マウント・ラックスモアの北側の斜面をトラバース気味に登る。
リンドウが弱々しく、夏の終わりにしがみつくように花を咲かせている。
足元にはごま塩を振ったような花崗岩のかけらが目立つ。
すぐにラックスモアの山頂が見えてきた。道は右から回り込むように延びている。まっすぐ登っちゃえば近いのに、と思うと看板が出てきた。
『ラックスモア山頂への道 400m先』みんな考えることは同じようだ。
400m歩くと分岐点である。山頂10分、の看板。
どうせここに戻ってくるのだからザックを置いて行くか、と一瞬考えるが、いたずら者ケーァがうろうろしている。
チンパンジー並みに知能が高いヤツらは人がいなければザックのファスナーを開け、中の物を盗んでいく。
以前ロブロイをガイドした時に、お客さん用のビスケットを袋ごと持って行かれたことがある。
たいした距離でもない、ザックは背負ったまま歩こう。
分岐からはゴツゴツした岩場を登る。尾根上の風はさらに強く、突風が吹くとザックごと体を持って行かれそうになる。
今日は南風が入っているのか、風が冷たい。僕は毛糸の帽子、マウンテンジャケットに手袋のいでたちだ。
そんな中、Tシャツ一枚、小さなザック一つの日本人らしき青年が登ってきた。あっというまに僕に追いつき言葉を交わす。
「寒くないのかい?」
「少しだけ」
そして青年はあっというまに山頂に向かっていった。数分後、僕がえっちらおっちら登っていると青年が下ってきた。止まって言葉を交わす。青年は日本人でオーストラリアにワーホリで来ていて、ニュージーランドには3週間いると言う。日本では八ヶ岳の山小屋で働いているようだ。
「こういう山歩きをしていると3週間じゃ足りないでしょう?」
「そうですね、良さそうな所はたくさんありますね」
「このコースだって君の体力なら1日で1周できるだろうけど、そうなるとこういう所で止まってじっくり景色を見るということもできなくなる」
「そうなんですよ」
「例えばここにエーデルワイズが咲いているでしょう」
僕は足元を指さして言った。岩場の隙間にひっそりとエーデルワイズが白い花を見せている。
「へえ、これがニュージーランドのエーデルワイズなんですか。日本のとは違いますね」
「うん、僕は日本のエーデルワイズは知らないけどね。この花を触るとフワフワして気持ちいいんだよ。僕はこういう時間をとるのが好きでね。まあ次回はたっぷり時間をとっておいでよ」
「そうします。それでは又」
「うん。又どこかで会おう」
青年はあっというまに視界から消えていった。
百人いれば百通りの山歩きがある、というのが僕の持論だ。人がどういう歩き方をしようが、それはその人次第であり他人が口をはさむべきではない。自分の楽しみを見つけ、自分の体力や時間にあった山歩きをすればよい。
人生もまた然り。己を知るというのは山でも人生でも共通する。

マウント・ラックスモア、1472mの山頂に立つ。
今まで何回この山を麓から見たことだろうか。
ここからの景色は写真で見たことがある。友人も何人もここを歩いており、話は聞いている。
人は話を聞いて映像を見て、まるで自分がそこに行ったような錯覚におちいってしまう。だがこの身をその場に置くというのは完全に違う物だ。
道はよく整備され難しい山ではない。アクセスも良く、日帰りでだって簡単に行ける。
だが簡単に行ける山ゆえに、いつでも行けるという気持ちもわく。
登るという確固たる意志がなければ、どんなに簡単に行ける山でも遠い山になってしまうのだ。
感覚というものを人に伝えることはできない。
僕がこの山に登り、この景色の中に身を置く感覚。これは自分だけのものだ。そしてこの瞬間を感じ取る、これこそが人生の意義でもある。
深く呼吸を繰り返す。大地からのエネルギー、そして空、宇宙からのエネルギーを感じ取り、自分の中で融合させ心を通して手足に送る。
これはハトホルの呼吸法というもので、一種の瞑想のようなものだ。僕は自然の中でこれをやるのが好きだ。
今回もハトホルの書という分厚い本がザックの中に入っている。
山頂は風が吹き荒れているが、風下の岩陰に入ればピタッと止む。こんな場所なら何時間でも居られる。
そうだ、テアナウベースのトキちゃんに電話をしてみよう。ここなら電波の通りも良いはずだ。電話をするが留守番メッセージになってしまった。
「えー、トキちゃん。只今ラックスモア山頂に居ます。天気晴れ。北西の風、強風。テアナウの街が良く見えます。トキちゃん家の庭のレモンの木まで良く見えます。ではまたね」
実際には遠すぎて家など見えないのだが、ホラとマラはデカイ方がいい。すぐにメッセージが返ってきた。なになに?
「うちらはいつも通り公園で遊んでいます。ヒッジが山頂でまったりしてるのが見えるよ。気をつけて楽しんでね」
公園から息子のジョッシュが山を見上げているだろう。文明の利器とは便利なものだなあ。
やがて僕より遅れて小屋を出た人達も到着し、山頂付近は賑やかになった。
するとそれを待っていたように6羽ぐらいのケアも姿をあらわす。
ヤツらは明かに風を楽しんで遊んでいた。
風は岩壁に当たり真上に吹き上がる。
その風に乗り垂直に上昇する者。山頂の標識のてっぺんにくちばしを差し込み、それを支点に風を受け体を浮かす者。風に乗りものすごいスピードで急降下する者。
人々はそれを見て喜び、写真を撮りまくる。
ケアは明らかに人を意識して風に舞う。自分達はこんな事ができるんだぞ、というデモンストレーションだ。
地を這う人間は指をくわえてそれを見るのみ。

いつまでもここにいるわけにもいかないので強風の吹き荒れる中、僕は再び歩く人となった。
右手にはテアナウ湖、遠くには今日これから行くトラックが見える。
尾根に出たり山を巻いたりアップダウンを繰り返しながら進む。
下りになると損得勘定がはたらき『この先まだ登るのに』と何か損したような気分になる。
人間の心とはあさましいものだ。
そんな歩きをしていると、馬の背のような場所にフォレスト・バーンのシェルターが見えてきた。
ここでランチストップ。
風がかなり強いので尾根から数m下りたタソックの中にどかっと腰を下ろす。
わずか数m尾根から離れただけで、周りは静かな世界となる。
満ち足りた気持ちでハムチーズきゅうりサンドを作りほおばる。
目の前に広がるのはフォレスト・バーンの谷間、その先の湿地帯。
その先はテアナウとマナポウリを結ぶワイラウ川へ流れ込む。
川は遠くに見えるコブを巻くように蛇行して流れる。
明日はこの流れを越えるはずだ。
右手には壁のような山があり、今日泊まるアイリスバーンはまだまだ先だ。
僕はここでもハトホルの呼吸をする。これの良いところは10秒もあればできることだ。
心を落ち着かせ深く息を吸い、胸で大地のエネルギーを感じ取る。ため息のように息を吐き、今度は頭のてっぺんから深い呼吸と共に天のエネルギーを取り入れる。
10秒でできるが瞑想状態になればいつまででもやっていられる。こんなことをやっていると時間がいくらあっても足りない。
再び尾根上に出ると、今までの静けさがウソのような強風とテアナウの湖面。
そんな景色を見ながら大きな斜面をトラバースしながら登る。
先行く人がちょっとした脇道で見晴らしの良さそうな場所に立っているのが見える。よし、あそこへ行ってやろう。
本道はでっぱりのような丘を迂回して下るが、こういうサイドトラックは行くべきである。
でっぱりまで行って景色を眺め深呼吸。
シーナマコト風に言うと、頭のすぐ上を雲がグワングワンと流れる。
エバーラスティング・デイジー、花の寿命が長いので『永遠に咲き続ける菊』と呼ばれる花もシーズン終わりを迎え、半分枯れた花が強風の中で揺れている。
秋だ。
タソックの中を下り、本道に合流。すぐにハンギングバレーのシェルターに着いた。ここもまた休憩ポイントなのだ。
ハンギングバレーというのは吊り谷という物で、氷河が造り上げる地形の一つだ。
大きな氷河は重さも多いので地面を深く削るが、小さい氷河は軽く深くは削れない。
大きな谷間の横の壁から一段高い所に吊るように谷があるので吊り谷と言う。
ここへ来れば吊り谷が良く見えるだろうと思っていたが、どの谷も見方によっては全て吊り谷。
目の前の谷も吊り谷なら右手の尾根の向こうも吊り谷、向かいの山にいくつかある谷も吊り谷。そんな場所だ。
ここから道は今まで通ってきた本尾根から支尾根へ向きを変え下る。登りはもうない。
下の方には森の中へ入るジグザグの道が見える。
「あそこか」
僕は独りつぶやいた。
シェルターを出て下り始めたら、昨日と今日つきあってくれたテアナウともお別れである。
僕は何となく湖に向かって手を合わせ頭を下げた。
40にもなると今まで出来なかったことも自然とできるようになるものだ。
下り初めて数分、道の脇に白い物発見。ティッシュのカスだ。
ティッシュはそんなに汚く見えなかったのでゴミ袋に入れて持って帰ろうと思い、拾おうとした瞬間、僕は見てしまったのだ。
何か茶色っぽい物がティッシュについているのを。
その茶色い物が土なのか他の物体なのか知らないし、そんなの確認するのなんて絶対イヤだ。そこまでやる義理もない。
僕の『ゴミを持ち帰ろう』という気持ちはヘナヘナと萎え、棒きれで草の下に押し込み石をのせた。
「全くもう、こんな所に捨てやがって」
僕は一人、毒づいた。
しかしこの世には善悪などなく自分の心があるのみ。その心さえも無にしてしまうのが禅の教えだ。
こんなことぐらいで腹を立てているようでは悟りにはほど遠い。まだまだ40ぐらいじゃ人間はそう簡単にできないようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする