日記

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疑心往生・疑心残存の議論について

2024年05月28日 | ブログ
この問題は、疑心のないこと、信心獲得したことを明確に証明するのが難しいのに起因する問題であり、また、自内証であるため、第三者からの判定も無理なもので、何がそもそも疑心であり、何が自力にあたるものかも、かなり個々人の恣意的なものに委ねることになってしまう面もあり、議論自体が堂々巡り、水掛け論に陥るのも仕方のないところがあります。

まあ、疑心なく、自力でないとしても、周りからはそれは自力、功徳行、雑行、雑修と見られてしまうことも多々あるわけです。行動一つからでもです。

例えば、道にカタツムリがおり、車に轢かれて亡くなると可愛そうだと思って、脇に避けてやる行為でも、本人の動機、内証などわかりようがないわけです。

ある者は不殺生戒、慈悲行、功徳行として行う場合があるでしょうし、これは功徳行、自力行として行うのではない、ただかわいそう、それだけですることだ、決して往生のため、善根のためとしてするのではないと思っていたとしても、そんな内心のことなど、他からはわかり得ないし、推測しようとしてもあまり意味のないことなのであります。

まあ、純粋にカタツムリが助かった、だけで良いわけです。

とにかく、真実浄土へ往生するには、確かに疑心あれば不可であり、信心決定していなければ不可であるでしょう。

ただ、真実浄土へと往生できる者は、空性現量了解に匹敵するほどの境地であり、それは、菩薩の十地にほぼ該当するものであるわけです。

そうでなければ、如来の法身、色身に至るための根拠を欠くことになるわけです。

とにかく、彌陀往還回向、本願勅命を賜わり、往生申し法性方便法身を成就する根拠については、よくよくに検討することが望ましいことでしょう。

まあ、疑心あっても、真実浄土はもとより、極楽報土へも無理であっても、極楽六道には往生は可であるとは思います。

如来在世の化身仏より教えを頂いて、娑婆六道におけるのと同様に仏道修行に励むのも有り難いことになります。何より見仏の有無は我々凡夫にとってはかなり大きなものであります。



疑心往生説、疑心残存説についての問題提起について、特定の僧侶に対して異義・異安心というのは何事か?とか異端を裁くのかという意見がありますが、宗派の教義に背く説を布教する人が、どういう処分受けるのかなどというのは、それぞれの所属する組織が決めることであります。ましてや、宗派外の人に対しては何ら拘束力をもたないのであります。ただ本願寺派の伝統宗学において学者が合意している枠組みからは外れているということにすぎないのです。
 重要なのは、以下の点です。
1 一生涯親鸞聖人は本願に対する疑いを離れられず、悩み続けた人である
2 信心をいただいた、助かった、という人は自分の体験を握りしめている人である。その正しさで人を裁いてはいけない、それが自力にとらわれている人である
以上の主張を親鸞聖人の教えとして流布することが許されるのかということであります。
 どちらも親鸞聖人の著作にはまったくみられない教義であることを私は論証しています。上のことを主張するなら、親鸞聖人のご文から上の教えを裏づける根拠を示さなければなりません。それは、まったくなされていません。
 勧学和上の説を引用して応答はしていますが、どちらも本人の誤解、誤用です。(それは別の機会に考察します)
結論として、親鸞聖人の教えでないものを親鸞聖人の教えとして僧侶が流布していてもいいのですかということです。他派のことはいいにくいので、本願寺派の伝統宗学ではダメだと言われているということ提示して、本願寺派の人に考えていただきたいと思ったわけです。真宗全体でも、ご自身の往生の問題ですから、本当に親鸞聖人がおっしゃったことなのかを問う意味では大切なことだと思います。

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