上四条の西光寺廃寺跡地調査は、単なる史跡調査や研究目的ではなく、やはりまずは供養をメインへと切り替えることにする。
近日に西光寺廃寺跡、楠木正行公、正時公五輪塔が元あったところの調査へと向かう予定だが、すでにここだろうというところは最初に赴いた時に感じてはいる。おそらくは間違いないだろう。
また、周囲においては、やはり、古来より古戦場跡であるだけに禁足地、忌み地としての伝えも多い。つまり、失礼があれば、祟りがあるということだ。気をつけなければならない。
明治二年の村の願書にもあったように、以来、慰霊を丁寧になされてはいたが、もうここ数年は滞りがちとなっているのは明白で、明治、大正、昭和、平成と慰霊を続けていた施主たちが、次々と亡くなり、後の世代への継承が残念ながらなされなかったためであろう。
花草神社跡の小祠が無くなってしまった状況からも、それは歴然である。
ずっと慰霊の祭祀がなされていたと思われる経塚の祠も、一部床が抜け落ちていた…もう祭祀どころでもなく、建物の管理さえも怪しくなってしまっている状況だった。
調査研究も大事ではあるが、とにかく供養を勤めるのが何よりも大切である。
近日に西光寺廃寺跡、楠木正行公、正時公五輪塔が元あったところの調査へと向かう予定だが、すでにここだろうというところは最初に赴いた時に感じてはいる。おそらくは間違いないだろう。
また、周囲においては、やはり、古来より古戦場跡であるだけに禁足地、忌み地としての伝えも多い。つまり、失礼があれば、祟りがあるということだ。気をつけなければならない。
明治二年の村の願書にもあったように、以来、慰霊を丁寧になされてはいたが、もうここ数年は滞りがちとなっているのは明白で、明治、大正、昭和、平成と慰霊を続けていた施主たちが、次々と亡くなり、後の世代への継承が残念ながらなされなかったためであろう。
花草神社跡の小祠が無くなってしまった状況からも、それは歴然である。
ずっと慰霊の祭祀がなされていたと思われる経塚の祠も、一部床が抜け落ちていた…もう祭祀どころでもなく、建物の管理さえも怪しくなってしまっている状況だった。
調査研究も大事ではあるが、とにかく供養を勤めるのが何よりも大切である。