これまで、本堂に妙見菩薩が祀られてある由来が、あまりわからなかったが、河内の陰陽道の古い歴史から、葛城修験の宿場でもあった往生院なら修験道(立派な役行者坐像もある)と共に陰陽道を扱っていたのも頷けることになる。
すぐ近くの額田に土御門家に仕えて祭祀を行っていた額田歴代組の鎮宅霊符神社があり、金剛生駒山系における修験道と共に、古来より河内は陰陽道の盛んな土地柄でもあったわけである。
とすれば、本堂にある八臂弁財天も、やはり陰陽道関係として祀られてあったと思われるのである。
江戸時代は、浄土宗鎮西派にありながら、別に額田歴代組によっての行者堂等も有して、修験道・陰陽道も修めていたということなのであろう。その名残が本堂に安置されてあると考えることができる。
そして、親鸞聖人自作坐像を御影としたお堂もあり、四月の春ごとと併せて、報恩講も近隣の村人を集めて営まれていた。
まさに神仏総合商社みたいなもの(笑)であったと言えるのかもしれない。