上四条(四条村)で実際に出されていた四條縄手の合戦の怨霊を慰霊したい旨の願書が記されてある項。
祠、社建立は、恐らく経塚の前にあった社となったのであろう。菊水の紋が瓦に入ってあったことから、これに間違いない。
ということは明治期の建立になる。
公碑は、大正以降になるだろうか(大正十四年(1925)建立のようです)。やはり、元々に五輪塔、塚があったとされるところに建てられた可能性が高いが、隠された五輪塔の大きさから考えても、石組があまりに大き過ぎて不自然である。
また、二石塔は並んであったと思われる。前回、公碑に赴いた際にピンときていたところが別にあった。
間違いなくそこだと思っている。今回も不思議に御霊に呼ばれたのかもしれない。
祠、社建立は、恐らく経塚の前にあった社となったのであろう。菊水の紋が瓦に入ってあったことから、これに間違いない。
ということは明治期の建立になる。
公碑は、大正以降になるだろうか(大正十四年(1925)建立のようです)。やはり、元々に五輪塔、塚があったとされるところに建てられた可能性が高いが、隠された五輪塔の大きさから考えても、石組があまりに大き過ぎて不自然である。
また、二石塔は並んであったと思われる。前回、公碑に赴いた際にピンときていたところが別にあった。
間違いなくそこだと思っている。今回も不思議に御霊に呼ばれたのかもしれない。