日記

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勧学・司教有志の会 声明(七の三)に思ふ 外道・邪教に堕ちた西本願寺・本願寺派

2024年05月01日 | ブログ
まあ、結局のところは、「新しい領解文」にて、西本願寺・本願寺派は、仏教から著しく逸脱、転落し、外道、邪教に陥ったのは覆せない歴史的事実となってしまったわけである。

改悔批判前に、そのように警告した文書をしかるべきに具申したのは、もはや、これでは外道、邪教との誹りを免れないであろうが、その是非を問うた次第であった。

今さらにまた声明を再開しても、もう遅きに失してしまっている。やるなら御正忌報恩講・改悔批判前にもっと声高にやるべきであっただろう。

また、声明ではなく、門主への諫言状としなければ意味はほとんどない。

一連のことは「門主の意向」で進んできたことであるのは間違いないのだから、門主の翻意を促さないとどうにもならないだろう。的外れなのである。



勧学・司教有志の会 声明(七の三)
     ー総合研究所冊子の問題点ー  
衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
『教行信証』「信文類」(『註釈版』二五一頁)
【問題二】 序論②において、「本来一つゆえ」から続く一節について解説しているが、その内容は日本語の文章理解として無理があり、かつ宗義としても成り立たない点
 次に序論②では、まず「新しい領解文」の「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ 『そのまま救う』が 弥陀のよび声」という一節について、「『本来一つだから、そのまま救われる』と理解すると、とんでもない事態(異安心)になる」と注意喚起している。
 「本来一つゆえ そのまま救う」という文章を「本来一つだから、そのまま救われる」と理解してはならないという解説は、読み手を困惑させるものでしかないが、このことについて序論②では、つづけて曇鸞大師の『往生論註』善巧摂化章を引用し、
仏の真実の智慧をもって凡夫虚妄の実相をご覧になれば、必ず慈悲に展開するのである。つまり、「本来一つゆえ」は、そのまま救われるに繋がるのではなく、「弥陀のよび声」という、慈悲の展開に繋がるわけである。
と解説している。どのように当該の文章を読ませようとしているのか意味不明である。あえて意をくみ取るならば、文章上の言葉の係り方について、「本来一つゆえ」という理由句は「そのまま救う」ではなく「弥陀のよび声」に係っているという解説であろうか。
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 ┃ 本来一つゆえ そのまま救うが 弥陀のよび声   ┃
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 ┃   ┃        ┃    ┃
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 仮にそのように読ませるのであれば、日本語の文章構造としてあまりにも無理がある。
 あるいは、たとえ当該箇所の「本来一つゆえ」という理由句を、一如とさとる智慧から阿弥陀仏の慈悲が展開する必然性を示すものとして解説しているとしても、それは宗義として成り立たない。なぜならば、序論②において、満井氏みずから「仏の真実の智慧をもって凡夫虚妄の実相をご覧になれば、必ず慈悲に展開するのである」と解説しているように、如来が私たち凡夫の虚妄(こもう)に生きるありさまを知見されたこと、これこそが阿弥陀仏の慈悲が起こされた直接の理由だからである。満井氏が序論②において、当該箇所の聖教上の拠りどころとして引用している『往生論註』の善巧摂化章にも、
実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄なるを知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり。     (『七祖篇註釈版』一四三頁)
と説かれているように、「実相を知る」とは、けっして一如平等とさとることのみを意味するのではない。善巧摂化章では「衆生の虚妄なる」すがたを知ることが、「真実の慈悲」の生じる直接かつ根本の理由として明示されている。ここが重要なところであり、仏のさとりとはかけ離れた衆生の虚妄なる相(すがた)を知るからこそ、真実の慈悲は生じるのである。
 さらに言えば、法蔵菩薩はその衆生の相を〝自らの力では出離の縁なき煩悩具足の凡夫〟と見通されたからこそ、五劫もの間思惟して本願を起こし、その本願を兆載永劫というはかり知ることのできない永い年月をかけて実現して、「そのまま救う」という他力の救いを成就されたのである。それは私の煩悩と仏のさとりとがいかにかけ離れたものであるかを教えてくださっているのであり、ここにこそ、阿弥陀仏の慈悲が起こされたまさしき理由がある。
 「新しい領解文」にはこの仏願の生起本末という視点が決定的に欠けており、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」ということをもって、仏が「そのまま救う」理由としている。一方、『往生論註』善巧摂化章は、「衆生の虚妄なるを知」ることをもって真実の慈悲が起こる理由としており、真実の慈悲が起こる理由についての両者の論理は異なっている。したがって、『往生論註』の論理を拠りどころとして、当該箇所について、一如とさとる智慧から阿弥陀仏の慈悲への展開を示すものとする序論②の解説は、宗義として成り立たない。辻褄合わせの説明のために聖教の文を利用しているに過ぎないのであり、これは許されることではない。読者にとって理解不能であるのも当然である。
 以上、「本来一つゆえ」という一行についての序論②の解説は、当該の文章をどのように読ませようとしているのか意味不明であるが、「本来一つゆえ」という理由句は「そのまま救う」ではなく「弥陀のよび声」という言葉に係っていると解説しているならば、日本語の文章構造として無理がある。また『往生論註』を拠りどころとして、一如の智慧から真実の慈悲への展開を示すものと解説しているとしても、『往生論註』の論理とは異なっており、宗義として成り立たない。そもそも仏の智慧とは、けっして一如平等とさとることのみではない。虚妄に生きる衆生一人一人の苦悩を見通されることも仏智なのであり、仏のさとりとはかけ離れた、私の虚妄なる相(すがた)をご覧になったからこそ、阿弥陀仏の慈悲は生じているのである。
 すでに述べたように、親鸞聖人は一如より阿弥陀仏の救済が展開していると示されているが、それは虚妄に生きる私たちのありさまを憐(あわ)れんで、一如より「かたちをあらわし、御なをしめ」された本願のはたらきを「不可思議」として讃仰されたものである。けっして「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」に慈悲が生じたという意味ではない。
 この冊子の解説は、私たちの理解を超えた本願の不思議をそのまま「不可思議の大誓願」と仰信された親鸞聖人の根本的立場を無視している。それどころか、親鸞聖人や蓮如上人によって「不可思議」と示されたその本願の救済を「不親切」「肝腎なところがよくわからない」として「思想的根拠を究明」するなどと語る始末である。まったくの見当違いであり、これは仏の教えを仰ぐ者の姿勢からも逸脱している。ご法義を大切にしてこられた僧侶・門信徒の方々が、このたびの冊子に対して困惑の声を上げているのは、その危険性と傲慢さを感じておられるからでもあろう。(続く)
二〇二四年 五月 一日
浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会
        代表 深川 宣暢(勧学)
           森田 眞円(勧学)
           普賢 保之(勧学)
           宇野 惠教(勧学)
           内藤 昭文(司教)
           安藤 光慈(司教)
           楠  淳證(司教)
           佐々木義英(司教)
           東光 爾英(司教)
           殿内  恒(司教)
           武田  晋(司教)
           藤丸  要(司教)
           能仁 正顕(司教)
           松尾 宣昭(司教)
           福井 智行(司教)
           井上 善幸(司教)
           藤田 祥道(司教)
           武田 一真(司教)
           井上 見淳(司教)
                 他数名

歴史に埋もれたままの寺院 経塚 楠開基 多門寺 について 2024年4月30日

2024年05月01日 | ブログ
おそらくは、四条縄手の合戦の後、楠木正儀によって開基された楠木正行らの供養のためのお寺であったのだろう。

歴史に埋もれたままの寺院 経塚 楠開基 多門寺 について 2024年4月30日
https://youtu.be/dHoNHcQX40g?feature=shared