全分他力では、疑心があっても往生を可とするが、やはり、疑心があっても、無くても、無条件の救いを彌陀の他力回向によると考えるからなのであろう。三心も当然に彌陀の側にて具えて頂けるものと考えるのである。
そういうことならば、輪廻の衆生など既にいなくなっていてもおかしくないのではあるが、そうではない。
やはり、当然に三心の具足には何らかの条件があると考えられるのである。
消去法で残るのは、やはり本願疑心が最有力となるのである。
その本願疑心も破るのが他力回向によるものとすれば、全分他力として、結局は疑心があっても、なくても、仮にあってもこちら側で何もせずともその疑心も晴れることになり、往生も可となると考えられるのである。
ならば、実質的には疑心があっても往生は可ということと同じでもあり、全分他力と変わらないことになる。
衆生の側ですべきことは何もなくなるわけではあるが、とにかく、何をしても、何をしなくてもということになるのでもある。
全分他力なら疑心の有無も問われないことになる。
しかし、親鸞聖人は疑心を無くすことが信心であるとなさられている。
疑心を無くすのは彌陀の他力回向によるものとして、それを受ける側の問題の解決は必要となるのかならないのか、そのあたりを突き詰めていければと思うのである。
・・
三心が如来により他力回向されてあるとして、三心の妨げとなっている本願疑心を破ること(信楽)も回向されてあり、名号にその功徳、利益の力があるとしたならば、衆生の側でなすべきことは何もなくなり、何もしなくても、また逆に何をしても往生できると考えられるのではあるが、やはりそのようなものであるのだろうか。。疑心は、こちら側で解決をすべき問題として捉えてきたのではあるが、聴聞により、本願・名号のいわれを聴いて、こちら側の納得、得心が疑心の対治になると考えてきたわけであるが、少し見直して参りたいと思います。
そういうことならば、輪廻の衆生など既にいなくなっていてもおかしくないのではあるが、そうではない。
やはり、当然に三心の具足には何らかの条件があると考えられるのである。
消去法で残るのは、やはり本願疑心が最有力となるのである。
その本願疑心も破るのが他力回向によるものとすれば、全分他力として、結局は疑心があっても、なくても、仮にあってもこちら側で何もせずともその疑心も晴れることになり、往生も可となると考えられるのである。
ならば、実質的には疑心があっても往生は可ということと同じでもあり、全分他力と変わらないことになる。
衆生の側ですべきことは何もなくなるわけではあるが、とにかく、何をしても、何をしなくてもということになるのでもある。
全分他力なら疑心の有無も問われないことになる。
しかし、親鸞聖人は疑心を無くすことが信心であるとなさられている。
疑心を無くすのは彌陀の他力回向によるものとして、それを受ける側の問題の解決は必要となるのかならないのか、そのあたりを突き詰めていければと思うのである。
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三心が如来により他力回向されてあるとして、三心の妨げとなっている本願疑心を破ること(信楽)も回向されてあり、名号にその功徳、利益の力があるとしたならば、衆生の側でなすべきことは何もなくなり、何もしなくても、また逆に何をしても往生できると考えられるのではあるが、やはりそのようなものであるのだろうか。。疑心は、こちら側で解決をすべき問題として捉えてきたのではあるが、聴聞により、本願・名号のいわれを聴いて、こちら側の納得、得心が疑心の対治になると考えてきたわけであるが、少し見直して参りたいと思います。