感官に依拠せずに認識するものがありますか、というご質問。
もちろんあります。例えば、死後の中有、中陰の存在は人間肉体機能としての五官が無くてもその意識に現れてくるものを認識しています。
また、生きている間においても、五官に依らずに私たちも認識しているものはあります。夢における認識で、五官が働いていなくても、見えたり、聞こえたり、味わったり、匂えたり、触れてあったりと認識していることがあるように
。
ですから、昨日に述べたように「空性の現れ」があるとすれば、別に五官に依らずとも識で捉えられる可能性も当然にあるということになります。
・・
識が、空性を本質とした縁起の現れを捉えられているならば、その本質たる空性を捉えていることにはならないのか?
捉えてはいるんでしょう。しかし、無明によって捉えにくいものになってしまっているだけで、空性を何も捉えられていないわけではないと考えています。
また、識に捉えられたものは、虚偽なるものではあっても縁起なるものとして捉えられてあるのは確実であり、それが虚偽であろうが、真実であろうが、縁起してあるものとして捉えられてあるならば、二重の意味で間違って捉えてあったとしても、実体のない空性ということには何ら変わらないのですから。
凡夫であっても、現量、比量において皆、一律に空性の認識が全くないわけではなく、それがどのくらい正しく捉えられているのかの、その(無明の状態による)度合いの問題になっていると考えています。
形象真実ということで、その空性の現れとしての縁起を識が捉えてあるのだとすれば、それはそれで空性(真実)のほんの一部でも(あるいはその手がかりを)捉えてあると言えなくはないということであります。
識に現れてあるのも縁起してあるものとして当然に空性であるものなのですから。
もちろんあります。例えば、死後の中有、中陰の存在は人間肉体機能としての五官が無くてもその意識に現れてくるものを認識しています。
また、生きている間においても、五官に依らずに私たちも認識しているものはあります。夢における認識で、五官が働いていなくても、見えたり、聞こえたり、味わったり、匂えたり、触れてあったりと認識していることがあるように
。
ですから、昨日に述べたように「空性の現れ」があるとすれば、別に五官に依らずとも識で捉えられる可能性も当然にあるということになります。
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識が、空性を本質とした縁起の現れを捉えられているならば、その本質たる空性を捉えていることにはならないのか?
捉えてはいるんでしょう。しかし、無明によって捉えにくいものになってしまっているだけで、空性を何も捉えられていないわけではないと考えています。
また、識に捉えられたものは、虚偽なるものではあっても縁起なるものとして捉えられてあるのは確実であり、それが虚偽であろうが、真実であろうが、縁起してあるものとして捉えられてあるならば、二重の意味で間違って捉えてあったとしても、実体のない空性ということには何ら変わらないのですから。
凡夫であっても、現量、比量において皆、一律に空性の認識が全くないわけではなく、それがどのくらい正しく捉えられているのかの、その(無明の状態による)度合いの問題になっていると考えています。
形象真実ということで、その空性の現れとしての縁起を識が捉えてあるのだとすれば、それはそれで空性(真実)のほんの一部でも(あるいはその手がかりを)捉えてあると言えなくはないということであります。
識に現れてあるのも縁起してあるものとして当然に空性であるものなのですから。