紫衣事件により、後水尾天皇は天皇としての面目を潰されただけではなく、天皇の定め、勅旨、勅許よりも、徳川将軍(征夷大将軍)の定め、法度が優先されるという、前代未聞の地位の逆転を天下に見せしめられたこととなり、徳川幕府への後水尾天皇の憤慨、憤懣は相当なものであったことが窺えるわけであります。
徳川家に大恥をかかされ、地位まで貶められたのに、その徳川家の血を引いている興子内親王(のちの明正天皇)へと譲位することなど、まあ、普通の感覚では当然に考えられないわけです。
なんとか面目を維持するには、上皇として、それも院政が敷けるようにとして、ひとまずは、他の宮家の親王へと譲位、つまり、徳川家への当てつけとして、美作植月朝廷の高仁親王への譲位を幕府に通告なくに行い、上皇邸の造営を始め、そして、高仁親王の正式な即位へと向けて動かれたわけです。
当時、宮家として現存していたのが、桂宮、有栖川宮、閑院宮、伏見宮と小倉宮で、この内、最も院政を敷くことができるとすれば、一番、徳川家からは遠く、力もなく、財力も乏しくあった小倉宮となるわけです。
南朝の天皇であった後亀山天皇の皇子・小倉宮恒敦の子孫となるのが、小倉宮で、丁度、その頃は、美作植月朝廷に高仁親王がいたわけです。
後南朝朝廷にとっては、長年の艱難辛苦からの念願の天皇復権。
断る理由などもちろん無く、即位へと向けて調えられたわけです。その仲介役となったのが、美作藩主の森忠政であり、高仁天皇の上洛へと向けて、京都新御所の造営等を進めていたわけです。
しかし、幕府が早々に一気に潰しにかかります。1634年、森忠政は京都滞在中に毒殺され、高仁天皇は即座に廃位、幕府により興子内親王が明正天皇となるのであります。
また、高仁天皇を支持していた(南朝功臣系の子孫となる)諸大名を抑えるために、徳川家光は、30万もの兵を率いて入洛、威圧し、明正天皇を正式な天皇と認めさせることになります。
ここから、後水尾上皇と徳川幕府との様々な確執、諍いは、その後の霊元天皇、上皇の時代まで激しく続くことになり、ようやく朝幕関係がある程度安定するのは、1627年の紫衣事件から150年後の光格天皇(1780年即位)の頃となるのであります。
一方、美作植月朝廷がその後どうなったのかは、高仁天皇の皇子、良懐親王を庇護していた第四代藩主の森長成が、江戸藩邸で暗殺され、同時に、幕府により親王号が剥奪、宮家から民家への降格処分、そして、良懐親王は、1709年に暗殺され、ここに植月朝廷が滅ぶことになるのであります・・
森家は、森長成の後に森衆利が第五代藩主となるも、発狂(幕府によるイジメ)を理由として改易処分となるのであります。
幕府は徳川綱吉の代にて、意図的に森家、植月朝廷を弾圧し、一気に粛清したわけです・・
高仁天皇の廃位にさいして、その父であった尊純親王の歌が残されています。
「恨」と書かれた下に、「おもはんと たのめし人の 昔にも あらずなる身の 恨めしきかな」
あとほんの一歩、少しのところで、大悲願であった南朝復権を果たせずに尊純親王、高仁天皇、良懐親王はそれぞれ亡くなるのである・・その無念、いかばかりであったか・・である。
徳川家に大恥をかかされ、地位まで貶められたのに、その徳川家の血を引いている興子内親王(のちの明正天皇)へと譲位することなど、まあ、普通の感覚では当然に考えられないわけです。
なんとか面目を維持するには、上皇として、それも院政が敷けるようにとして、ひとまずは、他の宮家の親王へと譲位、つまり、徳川家への当てつけとして、美作植月朝廷の高仁親王への譲位を幕府に通告なくに行い、上皇邸の造営を始め、そして、高仁親王の正式な即位へと向けて動かれたわけです。
当時、宮家として現存していたのが、桂宮、有栖川宮、閑院宮、伏見宮と小倉宮で、この内、最も院政を敷くことができるとすれば、一番、徳川家からは遠く、力もなく、財力も乏しくあった小倉宮となるわけです。
南朝の天皇であった後亀山天皇の皇子・小倉宮恒敦の子孫となるのが、小倉宮で、丁度、その頃は、美作植月朝廷に高仁親王がいたわけです。
後南朝朝廷にとっては、長年の艱難辛苦からの念願の天皇復権。
断る理由などもちろん無く、即位へと向けて調えられたわけです。その仲介役となったのが、美作藩主の森忠政であり、高仁天皇の上洛へと向けて、京都新御所の造営等を進めていたわけです。
しかし、幕府が早々に一気に潰しにかかります。1634年、森忠政は京都滞在中に毒殺され、高仁天皇は即座に廃位、幕府により興子内親王が明正天皇となるのであります。
また、高仁天皇を支持していた(南朝功臣系の子孫となる)諸大名を抑えるために、徳川家光は、30万もの兵を率いて入洛、威圧し、明正天皇を正式な天皇と認めさせることになります。
ここから、後水尾上皇と徳川幕府との様々な確執、諍いは、その後の霊元天皇、上皇の時代まで激しく続くことになり、ようやく朝幕関係がある程度安定するのは、1627年の紫衣事件から150年後の光格天皇(1780年即位)の頃となるのであります。
一方、美作植月朝廷がその後どうなったのかは、高仁天皇の皇子、良懐親王を庇護していた第四代藩主の森長成が、江戸藩邸で暗殺され、同時に、幕府により親王号が剥奪、宮家から民家への降格処分、そして、良懐親王は、1709年に暗殺され、ここに植月朝廷が滅ぶことになるのであります・・
森家は、森長成の後に森衆利が第五代藩主となるも、発狂(幕府によるイジメ)を理由として改易処分となるのであります。
幕府は徳川綱吉の代にて、意図的に森家、植月朝廷を弾圧し、一気に粛清したわけです・・
高仁天皇の廃位にさいして、その父であった尊純親王の歌が残されています。
「恨」と書かれた下に、「おもはんと たのめし人の 昔にも あらずなる身の 恨めしきかな」
あとほんの一歩、少しのところで、大悲願であった南朝復権を果たせずに尊純親王、高仁天皇、良懐親王はそれぞれ亡くなるのである・・その無念、いかばかりであったか・・である。