日記

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四條縄手の戦い跡・東大阪市上四条町の伝承

2024年05月23日 | ブログ
上四条町には、いまだに馬の嘶き、軍勢の足音や雄叫びが山から響き渡るということがあるらしい。

四條縄手の戦いは、最後には往生院城、客坊寺城、砂山城の正行軍は、山側からの佐々木道誉軍、東高野街道からは高師直軍に挟まれ、阿鼻叫喚の地獄であったと想像ができる。

南朝方の城、砦、寺院、館、朝廷内裏などは吉野に至るまで容赦なくことごとく焼き払われてしまった。

いかほどの無念であったであろうか。

関連かもしれないが、やはり、往生院でも謎の地響きがいまだによくあり、小さい頃から聞いているが、南北朝時代の侍たちがこの辺りをまだ彷徨っているということであるのかもしれない。

また、四條村には、明治期に村が騒動しく、落ち着きがなく、諍いが絶えないのは、四條縄手の戦いで亡くなった怨霊たちの仕業であるから、楠木正行の御霊を鎮めたいとの切実な訴えの願書まで残っている。

近年にも数件の相談が往生院にもあり、住職が何度か実際に供養へと赴いているぐらいである。やはりまだ障りはあるのだろう。家を建てたり、開発をする際には、地鎮祭や土地の供養は絶対に欠かしてはいけない理由である。

しかし、四條畷神社創設に際して、その候補地から外すために、正行、正時のお墓を壊して二石塔をいまだ隠滅したままであるのは誠に残念なことである。いずれ元あったところに戻さないといけないであろうが、お寺は廃寺となり、もはや荒れ果ててしまっている。こちらも、まずは元々祀られてあった場所を特定して供養せねばと思うのである。

やがて、観応の擾乱にて高師直、高師泰兄弟は非業の死を遂げることになるが、渡辺橋の美談がある正行とは雲泥の差の狼藉ぶりであった因果の報いでもあったのだろう。
更に、太平記と違って、四條縄手の戦いが東大阪市四条、上四条であったとしての戦いの真相についても迫っていくつもりである。


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