平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

ユダはなぜイエスを裏切ったのか(10)

2006年04月23日 | Weblog
それではイエスはユダの「裏切り」をどう考えていたのでしょうか。

********************
 イエス程の霊覚者で、ユダの裏切り行為をも察知できた人が、何故身の危険をのがれようとしたかったか、これもユダヤ教の予言を成就させるために、敢えてしなかったともいえるのです。尤も聖者賢者というものは、生死に把われず、権力や地位にも把われぬ、自由自在心をもつ人々なので、イエスにとっても、肉体の死によって、自己の天命が成就されるならば、何も肉体に恋々と執着する必要はなかったわけです。ちなみにイエスが十字架上の死というドラマチックな事件がなく、長生きして道を説いていたとしたら、果して今日のキリスト教の発展はあり得たかどうか、ということも疑問です。何事もすべて神計らいによって行われているに違いありません。
 ユダこそ実に損な役割りをひきうけたもので、イエスの心にはユダを恨む心などさらさらなかったことでしょう。ひいきのひき倒しということがありますが、ユダなど正にその典型的な人物です。いつの世にもこういうユダ的な人物はおりますが、宗教信仰の場合、自分勝手な想像で師のイメージをつくりあげて、自分のつくったイメージにその師が合わなくなると、悪口をいって去ってゆくなどという人もおります。こういう信仰の在り方は邪まな在り方で、信仰というのは、あく迄神のみ心にこちらが合わせ従ってゆくべきなので、自分のほうに神をひき下そうとするような信仰は誤った信仰というべきなのです。
********************

キリスト教の正統的解釈では、ユダの裏切りがなければ、十字架死がなく、したがってイエスの復活もありえなかった、だから、ユダの裏切りも究極的には神の計画の一部であった、と考えているようです。もちろん、それはそれで正しいのですが、ユダの心の動きを理解せず、ただ単に悪魔に唆されたから、とか、金に目がくらんだから、という解釈では、あまりの表面的です。

五井先生は別の箇所でもユダに触れています。

********************
 ユダにしてみれば、前にも申しあげましたように、イエスが救世主キリストであり、大奇蹟を現わし得ることのできる神の使であることを、幾多の実証によって信じきっておりますので、その大奇蹟、つまり、いかなる軍勢が攻め寄せてきても、主キリストの力の前には、一度に屈服してしまう、という現実を期待して、胸震わせながら、祭司長や役人の手引きをしてきたので、主を裏切るという気持ではなかったのです。主イエスがどこまで大きな力を持っているかを確めてみたかったのが、ユダの裏切りというような行為になってきたので、その点、ユダの好奇心がサタンの波のよい餌になってしまったわけです。しかし、そのことも神のみ心の現われであり、ユダヤ教の予言を現実化して、キリストの教えを広めるための一大布石であったのでしょう。イエスの悲劇的大犠牲がなければ、今日のようにキリスト教が世界中に広まっていなかったかも知れませんし、また、イエスがキリストに成り切って、神霊の世界から弟子たちに働きかけることもできなかったと思います。
 そういうところから考えますと、ユダも犠牲者の一人であったのです。すべてはユダの期待した通りにはならずに、イエスは役人に捕えられてしまうのですし、後にはみじめな格好で十字架を背負わされ、刑場まで歩かされてゆくのですから、ユダの夢はずたずたに切り裂かれ、はじめて、自分が主イエスを裏切り、役人に売り渡した行為をしたことを是認せざるを得たくなったのです。イエスが救世主キリストとしての大能力を発揮しなかった落胆と共に、主を売った自己の行為が、大悪人の行為として、自己の心を責めさいなみ、遂いには、狂気のように罪をわびながら、井戸に身を投げて死んでしまうのであります。
〔・・・・〕
 イエスの十字架上の悲劇でも、ユダの想っていたように、常日頃のイエスの大奇蹟力をもってすれば、逮捕に向った役人の一団ぐらい、大風でも起こして、ふっ飛ばせばよいわけで、逃げてしまうことは容易なことなのです。しかし、イエスはそれをしなかったのです。どうしてそうしなかったかと申しますと、神のみ心はイエスを十字架上のはりつけにして、その大犠牲によって、人類の救いを成就しようとなさっていたからなのです。
 ユダがイエスの大奇蹟力を信じたその眼は確なのでしたが、神の人類進化の大計画にまで、その心がとどかなかったわけなのです。しかし、それも大きな神計らいであったわけで、この世に現われる善いことも悪いことも、すべて神々の計画からすれば、地球人類の大進化のための一駒一駒であるわけです。
 だからといって、それなら人間が善いことをしようといって努力したり、人類救済のために身心を投げ打って働いたとしても、それは一切神からみたら嗤うべきことである、などと思ってはいけません。人間のそうした善意こそ、人類の大進化を促進させる大きな力となっているのであります。
 イエスが大奇蹟力を現わさなかったことについては、弟子たちや信者たちも、随分と失望したことでありましょう。イエスのそれまでの奇蹟力は、或いはまやかしではなかったのか、とイエスヘの信仰心を一度で失ってしまった人もあったことでしょう。宗教信仰者の中には、奇蹟力のみを信じている人たちもかなり存在するからなのです。
 それは昔から今日まで変りはありません。新しい宗教団体や、霊能者のところに集まる人たちの心の中には、いずれもその宗教や、その霊能者の奇蹟に対する興味が大たり小なりあるからなのです。勿論、宗教には奇蹟はつきものであり、奇蹟のない宗教というのは、味のない食物のようなもので、信者の興味をひくことはできないのです。
********************

五井先生は、ご自分自身も多くの信者たちから超越的なメシアたることを期待された方でしたから、人々の奇跡待望の心理を十分にわかっていました。五井先生の解釈がユダの心を見事に描ききって、他の学者や作家の追随を許さないのは、まさに霊覚による洞察であったからでしょう。