平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

ユダはなぜイエスを裏切ったのか(9)

2006年04月21日 | Weblog
私はこれまでユダの裏切りの理由として、金目的説、「ユダの福音書」のグノーシス的解釈、スパイ説などを検討し、リンザーの熱心党説を検討しました。私は、リンザーの説はかなりいい線をいっていると思っています。これだと、ユダとイエスの間の「できレース」状況をうまく説明できるからです。しかし、ユダが熱心党的心情の持ち主であったという証拠は、聖書のどこにもありません。イェフダとイェシュアとの対話も、もちろんリンザーの小説的想像です。

五井先生は、ユダの裏切りについてリンザーとは少し異なった解釈をしています。五井先生は聖書学の議論などはまったく知らなかったでしょうが、その解釈はさすがです。この解釈は、ユダをわざわざ熱心党員としなくても(あるいは熱心党員であったとしても)、福音書に書かれたすべての状況を矛盾なく説明できるからです。以下は、1972年に刊行された五井先生の『聖書講義』からです。

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 ユダにはイエスを裏切る気持など毛頭なかったのです。ユダは頭の切れのよい、弟子たちの中では一番経済面にも頭の働く人で、経済面でのやりくりはユダが主になっていたのであります。ユダは弟子の中でも、最もイエスの神秘力に魅力を感じていまして、我が師イエスにとって、不可能なことはないと迄思いこんでいたのであります。
 我が師イエスにとっては、如何なる難病も癒されるのであり、如何なる天変地異も静められるのであり、如何なる軍隊が押し寄せてきても、これを壊滅させることができるのである。という風に、我が師イエスを神そのものと思い、オールマイティの人と思いこんでいたのであります。
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福音書には奇跡のオンパレードです。現代のキリスト教徒はこれを迷信として無視しますが、何らかの事蹟があったからこそ、そういう記述が残されたのでしょう。事実かどうか、思い込みかどうかは別として、今日の新宗教にもそういう奇跡話は山ほどあります。そういうものを身近で見せられた12弟子たちは、イエスを、政治的・軍事的メシアはなく、超越的・神秘的メシアと考えたはずです。リンザーは現代人ですから、イエスの神秘力については、そのまま信じることはできなくて、どうしても政治的状況から説明するしかなかったのでしょう。

五井先生『聖書講義』からの引用の続き――

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 そうした神秘力への憬れというような想いの動きに乗じて、サタン(業想念)の誘惑の手が伸びてきて、実際に師の超越した力絶大なる神秘力を試してみたくなってきたのです。大地に足のついていない信仰心の間隙というのは恐ろしいもので、幽界の波に乗りやすいのです。真の信仰心というものは、頭を天に出しながら、あく迄も足は大地をしっかり踏みしめていなければならぬもので、神様神様といって超越したことばかり望んでいますと、幽界の生物に足をすくわれ、とんでもない不幸な目にあってしまうのです。理想はあく迄も高くあってよいのですが、行動は常にこの現実世界に根を下して、じっくりと行動してゆくべきで、日常茶飯事の当り前の事柄の積み重ねの中から、思わぬ力が授かっていることが多いのであります。私はそれを、消えてゆく姿で、たゆみたき世界平和の祈りの生活といっているのであります。
 ユダの心はイエスを愛するということより、イエスの神秘力にひかれて、ついてきたということなので、そこにユダの信仰の誤りがあったわけです。あわれむべきユダは、イエスの神秘力を追い求め、遂いに、自ら演出して、軍隊をも手玉に取ってしまう、師イエス・キリストの夢を画いてしまったのです。ユダにしてみれば師イエスを裏切るなどという気持はみじんもなく、イエスの超越した力を見せてもらいたかったに過ぎなかったのです。
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先に引用したリンザー関係の論文にもありましたが、ユダヤ人のメシア観には、現実的な軍事指導者と、神的・超越的なメシアという、2種類のメシア観があったのです。

五井先生は、ユダは「イエスの超越した力を見せてもらいたかった」と書いていますが、ユダの奇跡への個人的な好奇心がユダの裏切りの主要原因であったでしょう。ただしそこには同時に、ユダヤ民族を救う指導者の登場を待ち望む民族的な欲望も働いていたに違いありません。「軍隊をも手玉に取ってしまう、師イエス・キリストの夢」には、そういう民族的な欲望も作用していたことを忘れてはなりません。

ユダには、イエスを裏切る気持ちは微塵もなかったのです。そう考えてのみ、福音書におけるユダの不審な行動が正しく理解できます。