平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

ユダはなぜイエスを裏切ったのか(6)

2006年04月17日 | Weblog
あまりにも単純で表面的、というのは、聖書的解釈では、ユダの裏切りの状況がうまく説明できないからです。

ユダはイエスの大勢の弟子たちの眼前でイエスをローマの官憲に手渡しました。しかし、裏切りというのは通常、こっそりと行なうものです。つまり、自分が裏切ったということがほかの人には知られないように、自分の正体を隠して行なうのが裏切りの常道です。とくにイエスのような民衆に絶大な人気のある人物を裏切ったら、あとの仕返しが恐ろしいので、絶対に自分の正体を隠そうとするはずです。そうしないと、それこそ殺されてしまうかもしれません。ところがユダは、自分の正体を隠そうという気はさらさらなかったのです。

次に、ユダの動機です。ユダは本当に金が目当てだったのでしょうか? 金が目当てであるなら、金を受け取ったあとは、さっさとどこかに逃げるはずです。ところが「マタイ」によると、ユダは銀貨30枚を最初、祭司長たちに返えそうとしますが、受け取ってもらえないので神殿に投げ込みました。つまり、ユダは金目当てではなかったわけです。その上、自殺したというのでは、ますます金目当てではなかったということになります。

「使徒言行録」では、その金で土地を買ったということになっていますが、ユダがイエスを裏切ったことが世間に広く知られている以上、一定の土地で生活すれば、身の危険もありますし、少なくとも大勢のイエスの信奉者に嫌がらせを受ける可能性があります。金が目当てだとしても、その金で土地が買いたかったとはとうてい思えません。

ユダは、イエスの12弟子の一人として、イエス教団の大幹部でした。しかも、彼は教団の財務を担当していたようです。「ヨハネ」はユダのことを、「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた」と書いています。これも、金に汚いユダという解釈です。

イエス教団の人々は、人々の布施によって生きていました。弟子たちは定職を持ちませんでしたが、イエスとともにあるかぎり、民衆がイエスに与える施しに陪食することができました。つまり、教団が彼らの生計の元だったのです。ユダがイエスを裏切るということは、自分自身の生活の場をつぶすことです。たとえて言えば、ユダは宗教団体の職員で、そうすれば自分が路頭に迷うということを知りながら、自分の教団の教祖をあえて内部告発し、その教団をつぶすようなものです。これは、とうてい金目当てでできる仕業ではありません。

しかも、もしヨハネが正しければ、ユダは財務担当者として、いくらでもお布施をごまかすことができる立場にいたことになります。もしユダが本当に金目当ての男であったら、こんな「おいしい」職場を自分の手でぶちこわしにするばずはありません。できるだけ長く勤めて、その立場を利用するはずです。銀30枚というのが当時の貨幣価値でどれほどのものかわかりませんが、「金」ではないので、それほどの大金とは思えません。しかも、そんな一時金をもらっても、安定した「職場」を失って、その後の生活がきわめて危険になることは、上で述べたとおりです。

イエスは神人でしたから、病気治しだけでなく、人の心を読むことも、未来の運命を見通すことも、自由にできたと思われます。そして、弟子たちもイエスのそういう力を知っていたというか、信じていました。だからこそ、彼らはイエスにつきしたがったのです。

もしヨハネが言うように、ユダがお布施を自分の懐に入れていたのなら、イエスは当然それを察知して、ユダを早い段階で12弟子から除いていたはずです。イエスがそれをしなかったということは、ユダはそういう「公金横領」をしていなかったと考えられます。ヨハネの非難は、ユダ憎しの悪口でしょう。

ユダの裏切りには、金以外の別の目的があったはずです。彼にはイエスを「内部告発」しなければならないような理由があったのでしょうか?

イエスは当時のユダヤ教エスタブリッシュメントに対する反逆者でした。その当時のユダヤ教は、エルサレムの神殿を財力と権力の場として利用するユダヤ教祭司たち(サドカイ派)と、聖書の文言を忠実に実行しようとするパリサイ派という大きな二つの派閥がありました。イエスはこの両者を厳しく批判し、新しい神の教えを説きました。イエスが既成宗教権力から憎まれたことは、4福音書に詳しく書かれています。

このほかに、エッセネ派と熱心党という二つのグループもありましたが、これについてはあとで説明します。

ユダがイエスを裏切ったとしたら、ユダはサドカイ派かパリサイ派の回し者だった、という可能性があります。しかし、もしサドカイ派の回し者だったとすると、ユダが祭司長に金を返えそうとしたときに、冷たくあしらわれたことが説明できません。

それでは、ユダはパリサイ派の回し者だったのでしょうか? パリサイ派は、聖書(旧約聖書)の律法に忠実であることが救いの条件であると考えます。パリサイ派にとっては、律法を破ることは大きな罪なのです。これに対し、イエスは律法については寛容で、割合いい加減でした。パリサイ派にとっては、イエスが安息日に病人を癒やしたことさえ罪です。なぜなら、安息日には一切の労働をしてはならない、と律法に書かれているからです。イエスにとっては、そんな窮屈な律法より、人を救うほうが先でした。したがって、イエス教団にいると、しょっちゅう律法破りをすることになります。そういう状況は、律法重視のパリサイ派にとっては耐え難い状況です。パリサイ派は、たとえスパイとしてでも、イエス教団に入ることができなかったと思います。

ユダがスパイだったという可能性もなくなります。