平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

脳内汚染(4)

2006年04月03日 | Weblog
マイケル少年の銃撃事件はシューティング・ゲームの影響以外に考えられません。もちろん、いたるところで簡単に銃が手に入るというアメリカ社会の問題が背景にあることは言うまでもありません。銃を入手しづらい日本では、このような銃による大量殺人事件は起こりえないでしょう。それでは、日本ではシューティング・ゲームは無害だ、と言えるのでしょうか?

射撃というスポーツは人間以外の標的を撃つものです。しかし、人間を標的にしたシューティング・ゲームは、殺人ゲームと紙一重です。マイケル少年は、ゲームセンターのシューティング・ゲームに飽きたらず、本ものの銃で生身の人間を撃ちたくなったのでしょう。

ゲームを擁護する議論は、ゲームは娯楽であり、一種のカタルシスをもたらす、と主張します。ゲームにそういう要素があることはたしかでしょう。しかし、ゲームには、欲望を助長するという別の面も存在することは否定できません。

心の中に強い殺意を持っている人間が、殺人ゲームをしていれば、その殺意がカタルシスによって消滅するのか、あるいは逆に実際に殺人をしてみたいと思うようになるのか、それは個人によって違い、いちがいには言えないでしょう。しかし、後者のケースが1あるとしたら、前者のケースが100あったとしても、そういうゲームはやはり有害・危険と言わざるをえません。

岡田さんは次のように指摘しています。

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 あらゆる動物には、同種のものを殺害することに対する強い抑止がかかる仕組みがプログラムされている。同種間の殺害行為は、人間だけでなく、あらゆる動物にとって強いタブーなのである。
 第二次世界大戦中の戦闘員についての軍事心理学的な研究によると、狙撃兵の一割五分から二割のものしか、露出した敵に対して発砲していなかったという。兵士といえども、敵を殺すことに強い躊躇を覚えるという事実は、フォークランド紛争などを対象にした研究でも示されている。また、銃殺刑を執行する際に、銃殺隊のうちの少なからざる者が引き金を引かなかったことも知られている。人を殺害するという行為には、それほど強い抑制がかかるように、そもそも人間はプログラムされているのである。
 ましてや、子どもが些細なことで叱られて親を殺したり、無関係な人々を憎しみさえなく殺してしまうという事態は、まさにこの殺人のタブーという、人間に本来組み込まれているはずの禁止プログラムが働かなくなっていることを示している。唯一考えられる可能性は、この禁止プログラムが変えられてしまい、タブーが解除されてしまったということである。(39~40ページ)
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「同種間の殺害行為は、人間だけでなく、あらゆる動物にとって強いタブーなのである」と岡田さんは書いていますが、チンパンジーなどの霊長類の中で、「同種間の殺害行為」が起こることが知られています。しかし、それも無差別に行なわれるのではなく、あくまでも、強いオスが、メスを発情させ、自分の遺伝子を持った子孫を残すために、別のオスの子供を殺すのです。つまり、「同種間の殺害行為」も進化という自然の摂理の中で行なわれているわけです。

しかし、近年頻発する青少年による突発的な殺人事件は、とうていそのような本能にプログラムされた行為ではありません。むしろ、本能に書き込まれた「禁止プログラム」が書き変えられ、解除されたためだと岡田さんは言います。

人間を標的にするシューティング・ゲームは、人間を標的にすることへの心理的躊躇を解除してしまったわけです。