おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

手刀の方法から考えた自然主義経済

2008年04月11日 22時53分54秒 | 財務金融
先週だったか、先々週だったか、銃剣道の道場で、剣道(他にも抜刀・短剣道なども指導)の先生が、正座の仕方について子どもたちにこう教えていた。

「正座をするときに手は指を閉じておくように。これはなぜかというと、昔の侍は正座して刀を床に置いている状態のとき、不意に敵から攻められたとき、刀をとれない。そのため手刀で対処する必要がある。そのためにも指をきっちりそろえておくのがその由来」だという。

私の場合は、言われなくてもそのように指を閉じてきたのだが、元来、人と違ったものの見方を心がけている私にとって、その教えの疑う余地を一生懸命に探した。

まっ先に思いついたのは、合気道での教えである。

合気道では、もちろん手刀を使うのだが、指を開けと言う。

指を開けという理由は、指先と指先の間から気が発するからであり、このときに最も力が発揮される。ところが指を閉じてしまうと肉体的な力が必要となってくる。

空手の場合は握り拳でいく。この場合、気は指の付け根からわずかに出ているが、ほとんどは握りこぶしの中で滞留してしまう。そして握り拳の場合は、その部分すなわち拳を鍛える必要がある。空手をやっている人の拳はつぶれていてまっ平になっている。日々、つぶしてつぶしてそれが強さになるのだ。だが、それについて否定はしないが、そんなことをしなくてもいいとするのが合気道だ。

手を握ってしまうと、気がそこに滞留してしまう。気の発するところは拳部分だけに限定されてしまうから、指を思いっきり開いて気を出して、肉体的な力を抜くのがよいとするわけだ。

内部にこもるというのはよどむということである。よどむというのは汚すことにつながる。だから開く、流す、循環をよくする・・・ということはとても重要なことである。

不健康の源はたいがいこの流すということができていないで、淀んでいくから起きる。手足に血が循環していないので冷たくなっていれば、必ずその人は不健康である。

そういう人は、へそ下に意識をもって血液が手足にぐんぐんと流れているのをイメージするとよい。すべて気によって病気はできているから、気によって健康にもなる。

気は、出せば出すほど、入りがよくなる。気は無限に存在しているから心配いらない。

しかし、資本主義経済の場合、商品も貨幣も有限である。貨幣は有限なのに意図的に無限なことをしているが、それをできる限り有限に意味づけようとして、架空の借金をたくさん作りだす。これが澱む原因である。

自然主義経済は、貨幣が減価するから澱みようがない。どんどん流れていく。

だが、自然主義経済は地域通貨であるから、内部に閉じている。そうなってくると山梨県民は寿司を食えない。ここで淀みが起きる。

横浜や川崎の人たちからすると、自然主義経済は商業圏として大いに彼らの利益をもたらすが、生産物を作ることに彼らは全く素人である。いきなり鍬を持てと言われても急にはできない。だから東京湾から海の幸を、山梨県から山の幸を買うのが「よどみない」ことになる。

政治的対立というものは、どういうところで起きるかというと、それは政府が「ストックできる富」を争奪するから利害関係が生じる。

自然主義経済の究極はこの「ストックできる富」から解放されることであるから、政治的自由を作り出すのだ。したがって、住民本位の自治となる。住民本位の自治は、必ず地元産だけで生活するにはあきたらず、他地域の生産物のものを欲しがるだろう。それは相手にとっても同じことだ。

だから争いが起きようもない。むしろ相手が違うものを生産していることによって相互協力が生み出される。これが自然主義経済の作り出す「国内貿易」である。

彼らは徴税から自由、政府からの自由が自然主義経済によって保障されているからだ。

またまた本日も、最初の話とは全く関係ない方向に進んでしまったが、これでよしとする。

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