おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

短剣道とアイドリングから考えた自然主義経済

2008年04月24日 22時57分07秒 | 財務金融
自然主義経済の理解者が増えてくると、必ずこういう話になってきます。

「マイナス利子なんてのは、なかなかみんなが理解してくれないからゼロ利子から始めましょう」と、この言葉を私は何度も耳にしてきています。

これがよろしくないということは何度も言っていますが、これは自然の摂理からすれば当然のことです。

自然の摂理が理解できないのは、つねに頭で考えようとするからです。体で感じれば理解できます。

ここでは二例あげてみます。

短剣道という武道があります。ほとんど知られていませんが、これは竹刀が短いもので、剣道と戦っても、銃剣道と戦っても、入り身さえすれば断然有利であり、最も強い力を発揮できます。

それとは別に銃剣道があります。長い木銃を使った銃剣道は槍術の流れからできています。剣道の竹刀よりも長い。したがって銃剣道の木銃は、剣道の竹刀がこちらに及ばず、喉や胴そして小手を突くことが可能です。

しかし木銃よりも短く、剣道の竹刀よりも短い、竹刀を使う短剣道に入り身・制体技でやられます。入り身されなければ銃剣道は長いから有利ですが、短剣道は相手をゼロ状態に陥らせると必殺です。

そもそも短剣道という競技は、銃剣道は長さを利点にしているけれども、その長さを欠点にした場合どうなるのかということで作られたようです。

入り身というのは、相手の懐に入ってしまう。これで剣や槍を持っている敵に仕掛けたら胴を突かれて一貫の終わりです。

敵は前進してプラス、後退してマイナスです。だから入り身はゼロの状態なのです。剣や槍は、前進(プラス)すれば相手を斬る、突くことができます。後退(マイナス)すれば逃げて交わせる。しかし入り身(ゼロ)状態が彼の死ぬ時です。

人は敵に襲われたとき、怖いから逃げてしまう。しかし後退すれば相手の武器が届いてしまうからかえって危険です。けれども、相手の懐に入った、つまり相手にしてみればゼロ状態の時に相手を制することができ、自分は最も安全な場所にいられるのです。

これは進行方向での話ですが、次に動きで見てみます。


Aさんにタオルをもってもらう。両手のひらを上にして、タオルをつかまずに掌の上においておきます。

BさんはAさんと向かい合って、相手のすきをみて、タオルをパッととりあげる。

その瞬間にAさんは、タオルをとられてはならず、パッと握らなくてはいけない。

こういうゲームをします。

どちらが勝つか。これは反射神経・運動神経の優れたほうが勝つでしょう。しかし、ほとんどは、タオルから近いところにいるAさんがつねに勝ちます。距離から考えれば当たり前です。

しかし、Bさんにコサックダンスをやってもらいます。右足を出して次に左足を出してと踊らせます。Aさんはそのまま立ったままです。するとBさんが必ず勝つでしょう。

なぜ距離が遠いのにBさんは勝つか。それはBさんが足を動かしていることでプラス状態になり、Aさんは立ち止まったままゼロ状態だからです。

これはBさんがアイドリング状態になっているからです。アイドリングとはエンジンがかかっている状態です。決して「小泉今日子している」ことではありません。古・・、、、。Bさんにはエンジンがかかっています。Aさんはエンジンがかかっていません。

ゼロ状態というのはつねに停滞をもたらします。

自動車ではバッテリーが上がらないようにアイドリングすることがあります。

でも、数か月も車を走らせない、いわばゼロ状態であれば、バッテリーが上がるという、マイナス現象が起きます。これは停滞による損害です。

イスラムの無利子主義がなぜ停滞をもたらすのか。それはゼロ利子が停滞をもたらし、人々にマイナスの結果を生むからです。

平和党はマイナス利子を訴えているのだから、当然にゼロ利子もその許容範囲に入っていると想像する人も多いでしょう。ところが違うのです。

なぜならば、ゼロは死を意味するからです。

現在常識となっている通貨は、その価値が維持されます。銀行にお金を預けても全く利子がつかないような低金利時代であっても、この通貨の価値は実はゼロではなくてプラスなのです。いわばコサックダンスを踊っている状態で、アイドリングがかかっているのです。

通貨の価値が維持されているとき、世に存在している商品はその価値を維持していません。通貨はアイドリングがかかっているから商品よりも強いのです。

投機や生産というものは、アイドリングからアクセルオンの状態です。

ゼロ利子状態の貯蓄というものは、バッテリーを上げるという非生産的なことにほかなりません。入り身されて殺されることを意味しているのです。

自然主義経済というものは、商品のほうにアイドリングをかけ、通貨のほうは立ち止まらせておくということを意味しているのです。さきほどのタオルの引っ張り合いゲームでいえばAさんにコサックダンスを踊らせているから天下無敵なのです。

物事というものは、本を読んで知るよりも、体でやってみることのほうが覚えやすく、また誤解が解けやすいのです。

コサックダンスの話もやってみないとわからないでしょう。身体というものは、やってみないと感知できないからです。

私が懸念するのは、今後、自然主義経済という考え方が、近代経済学やマルクス経済学のように、既存の尺度に組み込まれていくことです。

そのうち、他の経済学説と同じように、数式で説明したり、理論を確立しようとする人が出てくるでしょう。それが間違いのもとです。今のように自然の摂理を体で感じたものから修得することが重要なのです。

自然主義経済は、元をたどれば、貧しきを救い、争わざるの理を人類が悟るために作り出されたことを忘れてならないでしょう。学術化や利益主義化がいかなる結果を生み出すのかについて十分検討されながらなされないと、プラス利子の発想と同じことになってしまいます。

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