「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

思考が、私を自分の自己から引き離す?!

2014-08-10 22:02:21 | 第4章 知覚内容としての世界
note

我々は思考によってはじめて

自分を
主観として規定し
客観に対置させる
ことが出来る

思考を
単に主観的なもの
として捉えてはならない

この関連
(思考する自己を主観として客観に対置する)
を持ち込んだのは
主観ではなく思考である

主観は
主観であるから思考するのではなく
思考することにより主観として姿を現す

それゆえ
思考する存在としての人間が
営む活動は
単なる主観的な活動ではなく
主観、客観の概念を越えるようなもの

私は、
自分の個別的な主観が思考する
という言い方を決してすべきではない

むしろ主観は
思考の恩恵によって
生命を得る

以上のように
思考とは

自分の自己を越えて私を連れ出し
客観と結びつける

と同時に
私を主観として客観に対置させることで
私を客観から分離させる

hasutama

難しい
自分の言葉で捉え直してみる

観察時には世界を客観している
客観とは、対象と自分が直接関わっていないもの、行動の主体ではない状況で、ただ観ること

思考しはじめると、対象に概念を付け加える作業を私が行うという意味で主体的となり、その時には主観となる

ただの客観ばかりでは、私は世界のお客様、なりゆきまかせの傍観者のまま

しかし思考しはじめれば概念を付け加えるという、生産的な行動の主人公になる

私は私がいることの意味、価値を見出すことが出来るとすれば、生産的、創造的な行為によってだろう

でも私がはじめから主人公であるから、だから考え始めたとすることは出来ない
なぜなら、私は逆に、考えるという作業によってはじめて主人公になるのだから

考えることが私を、単なる世界の傍観の状態から引き離し、一人前の行為者として客観に向き合わせてくれる

客観された世界も、私が主人公になることで生かされると言えるかもしれない

ただし、思考を単に主観的なものと位置付けるのは間違っている
こうした、主観、客観の世界を生かすような対置と交流をもたらすもの、それが思考なのである

私の個人的な主観が思考するのではない、思考は、私が単に個人的主観として存在している場から連れ出し、その後に客観に向き合わせるのだから

思考は主観、客観両方を見渡すもの、その彼岸にあるものと言える

自分の言葉での捉え直し、以上

以下、感想

最後のところはまだピンと来ない
客観を越えるという言葉で
自分の自己、単に個人的な主観、
から私を引き離し、連れ出すことを
意味するようだが、まだ説明が足りなくてイメージがはっきりしない

思考が客観、主観を越えるというが、ではどのあたりに位置しているのか?も不明である

今後の文章の中でより明確なイメージに出会えますように